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第19話

「会いたいです」と、メールを送るのは結局いつも、俺からだ。 出来損ないヒーロー #19 メールを送ってから返信が来たのは一時間後の事だった。 『俺も』 そのたった一言だったけれど、真宏は柄にもなく舞い上がった。 デスクの上に保管してある宇佐美のシルバーリングを指にはめる。 太くてゆるいその指輪は落ちてしまうからつけることはできなかったけど、不安にざわつく真宏の心を落ち着けてくれていた。 メールの返信を読んで、真宏はいそいそと上着を着て、出かける準備をした。廊下に出たとき、杏と鉢合わせして、杏は驚いた顔で見上げてきた。 「なにそんなニヤニヤしてんの、ヒロ兄」 訝しげな顔で見られるも、真宏は笑みを隠さずに杏を見つめ返した。 「今日、宇佐美と会ってくるんだ」 「え?連絡取れたの?」 杏の言葉に真宏が頷くと、杏は満面の笑みで真宏に抱きついた。 「やったじゃん!ヒロ兄ずっと待ってたもんね!! 久しぶりのデートだね!!」 ぎゅっと抱きしめられてそう言われ、真宏は照れくさいのと同時にじわりと視界が歪んでしまった。 いけない、泣くつもりじゃなかった。妹の前で情けない。 ぐっと下唇を噛み締めて堪えたけれど、杏にはお見通しでわしゃわしゃと頭を撫でられた。 背伸びをして撫でてくれた妹の優しさに、今度は堪えきることができなかった。 「……大丈夫。ヒロ兄なら大丈夫だよ。宇佐美さん、ヒロ兄のこと大好きなの見てて分かるもん。大丈夫だよ」 よしよし、と慰められる高二男子。 ハゼたちには見せられないなと思いつつも、今は杏の肩に顔を埋め、甘えて泣いた。 連絡が来るまで不安だった。しんどい事になってないか、痛いことされてないか、一人で泣いてないか。 また俺の元に戻ってきてくれるのか。 かれんさんから結婚の話を聞いたときからずっと毎晩泣いた。なんでだろうって。 かれんさんの言葉がずっと引っかかっていた。 いつも笑うのは大人だけ。 かれんさんも宇佐美も望んでないことなのか。 そう思ったときかれんさんもまた、苦しんでる一人なのかもしれない。 でもじゃあ俺に何ができる? かれんさんは俺に「邪魔するな」と言った。 ということは、望まない結婚だけれど宇佐美たちにとって「しなければならない」事なのか? 俺が別れなければならないのなら、それが宇佐美のためならば……俺はそれを選択できるだろうか。わからない。 「ヒロ兄。宇佐美さんのこと大好きなんだよね」 杏の言葉に真宏は強く頷く。 「どこが好き?」 杏は真宏の腕を引っ張り、廊下に二人並んで座り込んだ。杏に擦り寄り、その言葉を考えた。どこが好き。 いっぱいある。すごく、いっぱいある。だって宇佐美は俺にないものをたくさん持っていて、俺にないものを大切にできて、そのくせ自分に自信がないような変なやつで、優しくてカッコ良すぎて。 俺が泣いたらずっとそばにいてくれて、すぐ気づいてくれて、なのに自分を大事にはしないし、すぐ無茶するし、自分のために生きられないやつで、それが切なくて、俺がいなくちゃって思っちゃってさ、……どうしよう、大好きだよ。大好きしか出てこない。 なんでこんなに好きなのか、自分でもわけわかんないよ。わけわかんないくらき好きになったんだ。 めちゃくちゃになってもいいくらい、して欲しいくらい、どんな世界でも宇佐美となら本気でって思えるくらい、俺は恋をした。 どこが好きとかもうわかんない。全部好きだよ、あなたが選んだ生き方全て大好きだから、……そばにいさせてよ、お願いだから…… 「ひ、っく……、ヒュ、ケホッ」 「ヒロ兄、大丈夫、大丈夫だから。ごめんね無理に答えなくていい。大丈夫、大丈夫だよ」 過呼吸になりかけた真宏の背中を杏はゆっくり大きく撫でた。 杏はいつも思っていた。涼兄もヒロ兄も心底強くて。その大きくて強い背中が昔から大好きだった。 涼兄は喧嘩も強いし、頭もいいし、ちょっと天然だけど、料理うまいし、いつも自分達を気にかけて親代わりになってくれて。 ヒロ兄は次男で真ん中っこだけど、ワガママ言わないし、杏のお兄ちゃんとして真宏は涼雅の手伝いをしてきた。泣き言を言わないし、喧嘩は弱かったけど、メンタルは誰よりも強かった。人一倍人のことを考えていて、でも自分をおろそかにして人に安易に心配かけたりしない。 そんな兄二人が杏は大好きだった。 真宏が宇佐美を紹介してくれた時は本当に嬉しかった。真宏がゲイだとは思っていなかったから少し驚きはしたものの、真宏は本当にずっと幸せそうだった。 宇佐美のことを話す兄は心底笑顔で、彼を思って甲斐甲斐しく家に通って。 他人の家が苦手だという宇佐美を気使ってどれだけ雪が降っていようが、真夏日だろうが、洪水だろうが、高熱だろうが通っていた。 流石に天候が荒れた日も、高熱の日も宇佐美が申し訳なさそうに送り届けてきたけど。 弱音を吐かず負けない兄が過去に一度だけ、過呼吸を起こしたことがあった。詳しい理由は知らないけれど、真宏は中学時代いじめにあっていたらしい。 中学校の卒業式が終わり、涼雅と家に帰ってきた真宏は玄関で過呼吸になり、倒れたのだ。 そのまま涼雅が病院に連れて行って帰ってきた真宏はそれから一週間高熱で寝込んだ。杏はその事実を知ってはいるものの、涼雅が真宏が寝込んだ理由を「学校生活の疲れだ」と杏に説明した。 一度は納得したけれど、周りまわって結局真宏がいじめに遭っていたことを杏は風の噂で聞いた。 そこで納得した。あれはストレスで倒れたのだと。 兄は強いのではない。隠すのがうまいのだ。人のために隠してしまう。 きっと杏たちが気づかなかっただけで、一人泣いた夜が何度もあったのだろう。 もしかしたら、過呼吸になったのも初めてではなかったのかもしれない。 結局、真宏は散々寝込んだ一週間後過呼吸になって倒れたことをケロッと忘れて回復していた。 腕の中で弱々しく泣きながら呼吸が整わない兄を強く抱きしめて、涙を堪える。 こんな状況、誰が悪いのよ。誰があたしの兄貴をこんなふうにさせたのよ。 宇佐美さんは何してんのよ、ヒロ兄がこんなに泣いてるのに…… 「……、あん、ず」 真宏は咳き込みながら杏に声をかけた。杏は努めて冷静に「うん?」と返事をする。 少しでも口を開けてしまったら泣いてしまいそうだった。 そうでもしなきゃ、泣き叫んで、「お兄ちゃんを、助けてよ」って言ってしまいそうだった。 「……これ、うさみに、言わないで。りょうにいにも」 ぽそぽそ紡がれる兄の声に杏は堪えきれず涙の膜が張る。そうまでしてお兄ちゃんが守りたいものって何よ。 あたしは黙ってなければいけないの、宇佐美さんにも言ってはダメなの。 ヒロ兄を泣かせたのはあの人でしょう。 「……宇佐美は、悪くないんだ。だから、ごめんね。弱いとこ見せて」 『あの人の前では泣きたくないから、今だけ甘えさせて』 切なく微笑んだ真宏の目尻から涙が流れていく。杏は耐えきれず真宏を抱きしめて、真宏の肩に顔を埋めて強く言った。 「弱くなんかない!! ヒロ兄は世界一かっこいいあたしのお兄ちゃんなんだから!!」 鼻声の杏の声に真宏は泣きながら妹を同じく強く抱きしめ返した。 どんな結末だろうと、受け入れよう。 それが、今の子供にできる一つだけの正しいことなのだろう。 ・ ピンポンとチャイムを鳴らしてからハッとした。 目が赤くなってないだろうか。もし何か言われたら花粉ということにしよう。 そのまま宇佐美の部屋の前で待ってると、たったっと階段を駆け上る足音が聞こえてなんとなくそっちを見た。 するとそこには部屋の中にいるとばかり思っていた宇佐美が、珍しく汗をかいて立っていた。 「まひ!!」 大きな声で名前を呼ばれ、それと同時に久しぶりにぎゅっと抱きしめられた。ふわりと、宇佐美の甘い香りに包まれて、緊張していたらしい真宏の肩から力が抜けた。 「会いたかった!! 迎えに行ったらもう出たって杏ちゃんにぷんすこしながら言われて焦った!」 そうニコニコ言われて真宏はなんだか安心して笑った。久しぶりの宇佐美は何も変わっていなかった。彼の腕を引いて真宏は「早く開けて」とドアを指差す。 「あいてんで」 相変わらず防犯意識の低い宇佐美が得意げにいうので、真宏は苦笑して「防犯しっかりしろっていってんのに」とお小言を漏らす。 「なあまひ、目赤ない?」 青い瞳に見つめられ、真宏はドキッと胸が鳴るけれど、真宏は目を逸らして「花粉だよ」と返した。宇佐美は「ふぅん」と言っていたけれど、真宏が部屋に入ったのを見てまた自分もいそいそと室内に入った。 上着を脱ぐ。いつも通り真宏が飲み物を用意して2人、古いちゃぶ台を囲んで向かい合わせに座る。 まだ肌寒いから、と暖かいココアを1口飲んだあと、真宏は思い出したように「あ、これ」とポケットから宇佐美から奪った指輪を取り出して、コト、と僅かな音を立てて置いた。 窓から差し込む日差しで、真宏が置いたシルバーリングが反射してきらりと光る。 「奪ってごめんね」 わざとらしく笑えば、宇佐美は指輪を見つめて微笑んだ。 「……いや、お礼言わなかんのは俺の方やな。ごめんな、ありがとう」 宇佐美は、その指輪を見つめてそう言った。静かな宇佐美はいつも通りな気がするのになんだか心地悪く感じて、でも今の真宏に何が言えるのかもわからなかった。 なんとなく、手持ち無沙汰に窓の外を見つめる。 こんな時ばかり気の利いた話題が浮かばない。 いつもならなんだって話そうと思えたのに。 「……そろそろ、遮光カーテン買わないんですか?」 宇佐美は無頓着だからカーテンすらつけていない。ずっと、レースカーテンだけが申し訳程度にはためいている。 丈があっていなくてちょっと寸足らずなレースカーテンなのだ。 宇佐美は「せやなあ」とのんびり呟いた。 どうせ、あと一年しか居ないのだから、とそう言いたいのかも知れない。 だけどお互い言わなかった。真宏は勿論、宇佐美もきっと最後まで言うつもりないんだろうな。 カーテンを見つめる宇佐美の横顔を見て、真宏は目を逸らした。 外は快晴なのに、なんだかこの部屋だけ少し冷たい。 本当はどついて、かれんさんから聞いたことを話して宇佐美の口から聞きたい気持ちもある。 でも、……でも、それは宇佐美の本意でないのなら、宇佐美が俺には言いたくないのなら、会えなくなるその瞬間までもう時間が無いのだから、宇佐美の好きなように過ごしてもらいたい。 ずっとそう思ってた。宇佐美と連絡が取れるまでの間、俺に出来ることは宇佐美を自由に生きさせること。好きなことを好きなようにさせること。 だってもう、彼には自由が無いかもしれない。 それが宇佐美の選んだことだとしても、今だけ宇佐美に自分自身のためだけに生きて欲しい。 だからもう真宏は、真宏らしくいることはやめないけれど、宇佐美を変に縛るのもしない。 カーテンをつけたくないならそれでいい。鍵はちゃんと閉めて欲しいけど、望まないのならもう言わない。学校もきたくないのなら来なくていい。ただサボる時には誘ってくれたら嬉しいけどさ。 好きな食べ物を食べて笑って欲しい。 一日でも1秒でも長く多く、笑って欲しい。 大好きだから、幸せを感じて欲しい。 「それ、真宏のな」 「え?」 宇佐美の台詞にぼんやりしていた真宏は、はっと顔を上げる。 宇佐美は微笑んで真宏を見ていた。 「その指輪、真宏にあげる。持ってて」 「え、でもこれ……俺にはサイズ合わないし……てか、なんで?」 急な宇佐美の台詞に、驚いて問い返すと宇佐美はイタズラな笑みをうかべる。 「キスマは消えてまうやろ」 「……ん?」 それは、問の答えになってるのか?指輪とキスマにどんな関係が? 真宏が首をひねっていると、宇佐美はケタケタ笑って「分かれへんならええねん。持ってて」とだけ言って口を噤んだ。 二人の間に静かな空気が流れる。どちらもくっつこうとせず、かと言って喧嘩してる訳でもない。この静かな空気は心地悪くはなかった。 けれどどこか、虚しくて、寂しかった。 真宏はちゃぶ台に乗っかる指輪を見つめる。 キスマークの代わりに指輪、か。証って事なのかな。そうか、証か。 宇佐美が、俺に証をくれたって事……? 「……ぁ、」 唐突にその意味に気がついた時、真宏は嬉しいと同時に本気で別れが近づいてるのかもしれないと、はっきり自覚してしまった。 宇佐美はこんなふうに証を残したがる男じゃなかった。 どちらかと言うと所有物みたいにするのは嫌がる男だった。 なのに、今こんな風に自分のものを俺に渡している。 ……そうか。 宇佐美、不安なのかな。 別れたくないって思ってくれてるのかな。 その行動に、俺は賭けてもいいのかな。 宇佐美はまた窓を見つめていたけれど、不意に真宏を見た。 「なあに惚れた?」 「ばぁか。もう惚れてるよ」 その宇佐美の瞳を見つめて、真宏はやっと決心した。 そうか、いや、そうじゃない。 今、この部屋がこんなにも冷たくて、せっかく一緒に居れるのに心が嬉しくなれないのは、わがままなほどに寂しさばかり感じてしまうのは、勿体無いんだ。 たとえ、離れることがわかっていたとしても、離れるまでは一緒だから。 もしかしたら一年後には結末は変わっているかも知れないから。 ばちんっと自分の両頬を平手で叩き、目を覚ます。 何くよくよしてんだ伊縫 真宏。 俺といて幸せになれないはずがないと担架を切ったのは嘘だったのか自分。 しんみりするのは好きじゃない。 約束を破るのはもっと好きじゃない。 俺がいるのに、宇佐美が幸せになれないはず ないだろ。 「宇佐美!!」 真宏は立ち上がり、宇佐美を見下ろした。 宇佐美は驚いた顔をして「は、はい?」と少し声が裏返っている。 真宏はほんの少し笑って「腕!広げて!!」と言った。 宇佐美が戸惑いながらも腕を広げたのを見て、真宏は勢いよく宇佐美に飛び込んだ。 「っうわぁ!?」 宇佐美は衝撃に耐えきれず畳に倒れ込む。しっかり真宏を抱きとめて、「いたぁ」なんて言っていた。 真宏はそんなのお構い無しに宇佐美の胸にぎゅうっと抱きつく。 「ねえ宇佐美。ピアス、開けて」 「…………は?」 真宏の台詞に宇佐美は固まり、そのまま黙ってしまった。 真宏は構わず続ける。 「俺はね、この先何があってもどうなっても、宇佐美を幸せにする約束を反故する気は無い。勿論それは、宇佐美もだよ。俺を幸せにしてくれなきゃだめなの」 宇佐美は黙って聞いていた。 きっと、かれんや周のことを考えているのかも知れない。 いいんだ、そんな現実はどうでも。 「俺はね、宇佐美が生きてるって知れれば十分なの。生きて元気にしてるよって。そりゃあそばに居たいしさ、ずっと恋人でいるつもりだよ!俺は!!」 あくまでも、かれんから聞いたことは悟られずに、想いを上手く、伝えたい。 離れていても、そばに居ることを。 「でもさ、進路とかあるじゃんか。そうなってきたら、宇佐美は先輩だから学校からも先にいなくなっちゃうし、アンタふらふらしてるから居なくなるかもじゃんか。そんなの切ないからさ、お別れしたい時はちゃんと言って欲しいし、だけど、それまでは俺の恋人でしょ?」 宇佐美を押し倒して見下ろす。 彼の瞳は複雑な色で揺らめいて真宏を見つめる。 「まあなんか要するに、進路で色々突っ走って考えてたら不安になってた。宇佐美の進路とか知らないし自分だってどうなるかもまだ分かんないしさ。この先やってけるかなあとか、そんなこと考えて……。でも今思った」 宇佐美の腕を引いて上体を起こし、自分は宇佐美の膝の上に座って宇佐美を見上げる。 「何を思ってしまっても、俺は貴方を信じる事だけは人一倍得意だからさ」 信じるよ、何があっても。 どうなっても、宇佐美だけを。 「宇佐美の考えてることなんて宇佐美にしか分かんないし、付き合っててもわかんない事ばっかだし、宇佐美が何か隠してんのも丸わかりだし、あの女の子誰よとか思うし、でもいいの。俺は宇佐美を100%……いや!!120%信じるって決めたから」 宇佐美は目を丸くして真宏を見下ろす。その瞬間も、宇佐美は何を考えているのかなあなんて真宏は呑気に思う。 「裏切ってもいいんだよ」 「……え?」 宇佐美は無意識だろう。真宏の腰をぎゅっと強く掴んだ。 裏切らないよ、という意味なのだろうか。分からないけれど、真宏は安心させるために、宇佐美の両頬に手を添える。 「裏切っても大丈夫だよ。俺は、信じてるから」 「……うらぎる、って、……なんの意味……」 怯えたようなそんな瞳で震えた声で宇佐美は真宏に問う。 真宏は「さあ?」と笑った。 「宇佐美が、”これは真宏への裏切りだ”って思ったこと全て裏切りだよ。でも俺は、そのどれも裏切りだとは思わないよって言ってるの」 何を言っているのか分からないと言いたい顔で宇佐美はじっと黙る。 「俺が唯一裏切り行為だと思うのは、”死ぬこと”です」 ごくり、と生唾を飲み込む音が聞こえた。宇佐美の手が無意識に俺の体を強く掴む。 安心させるように瞳を覗き込み微笑んだ。 「貴方が死んだら俺も必ず死にます。これは絶対に約束です。別れても何をしても、貴方が死んだと知ったその瞬間に、俺はその場で死にます。俺が嘘をつかない人間なの、知っているでしょう」 「ざけんな!!」 宇佐美はバッと、真宏の体を引き剥がし真宏から距離をとった。 「俺が死んだら死ぬ!?俺の前で本気で言うてんのか自分!!」 宇佐美の怒号、久々に聞いたなあとぼんやり思った。 宇佐美は、混乱したまま真宏から離れて頭を抱えていた。 「……お前、俺がハルさんにどう思ってんのか知っとるやろ……んで、死ぬとか、簡単に言えるん……やめろやほんま……笑われへん」 俯いて肩を震わす宇佐美に、真宏は何も言わずただみつめた。 「なんでアイツまで失って、真宏まで失わなあかんねん……俺、ほんま……せやったらなんのためにうまれてきてん……おれ、人殺すだけころして、……生きとる意味ないやんな……」 真宏はそっと、宇佐美の震える背中に触れた。宇佐美はびくり、と身体を震わせる。 「……どれだけ生き地獄でも、生きてて欲しい」 俺の言葉に宇佐美はバッと顔を上げ、キッと真宏を睨んだ。 「お前に俺の生き死にを決める権利ないやろ」 その表情は、セックスしようと言ったあの日の心を閉ざした宇佐美と同じで、胸が痛かった。 真宏は宇佐美の手を強く握って、「伝われ」と念じながら瞳を見つめる。 「大丈夫です」 「何が大丈夫やねん。なんも大丈夫とちゃうやろ。なんで死ぬとか言えるん?命軽く扱うなや不快やねん」 いつもなら穏やかで優しい宇佐美は完全に真宏に拒否を示す。 それでも真宏は振り払われない手に賭けて念を込める。 お願い、大丈夫、大丈夫だから、嘘でもいいから、信じて、俺を ぜったい──…… 「俺は、嘘なんかつかないです」 「それがわかっとるからふざけんなって言うてんねやろが!!」 宇佐美の大きな声が体にビリビリと響き、思わず下唇を噛む。嫌われた気がして泣きたくなる。でもここで泣くのは卑怯だ。もっと上手く、うまい言い方を探せ、探すんだ、…… 「簡単に、死ぬって言った訳じゃなくて俺は……」 「あれのどこが簡単やないねん。軽々しいやろじゅーぶん。あんなん言われへんで普通」 鼻で笑う宇佐美に、真宏の心はつきつきと痛む。違うもっとちゃんと言うんだ、ちゃんと、 「……真宏は結局ハルさんと同じことするん」 宇佐美の光のない瞳を見つめ、真宏は息を飲んだ。 違う、全然伝わってない。 「うさみ、ちが……」 「何がちゃうねん。せやろ?そーゆことやんな?死にたかったん?男と付き合うとるから?」 思わず俯いた。こんなに心に入り込めないとは思わなかった。どうしたらいい。どうすれば伝わる。泣くな。泣いたらダメだ、泣いたら何も伝わらない。泣かないと決めたんだ。 「結局そーやんな。普通から外れたらみんな死ぬねんな」 諦めたようなその声に、真宏は宇佐美の胸に頭を預けた。泣きそうだったから。彼に触れてないと泣きわめいてしまいそうだった。 「なあ真宏、俺は嫌や。お前が俺にとらわれるんは、嫌や絶対」 伝わらない。何をいえばいい。どうしたら持ち得る全てを使えるのか分からない。 手を握って、体に触れるしか出来ない。 どうしたらわかってもらえる。 俺は宇佐美を本気で信じてる。 「……俺は、宇佐美が好きです」 「うん。俺も」 まだ、そう返ってきたことに、真宏は少し安堵して心拍数が落ち着いてきた気がした。 「……杏に、宇佐美のどこが好きなのかって聞かれました」 「……へえ」 真宏は宇佐美に腕を回して、ぎゅうっと抱きつく。そのまま、顔を埋めて甘い香りを胸いっぱい取り込んで、言葉を続けた。 「……俺、分かりませんでした。宇佐美のどこが好きかって」 「……なにこれ、別れ話?」 鼻で笑いながら言う宇佐美に答えず、真宏は言葉を続けた。 「強いていえば全部好きでした。どこを、なんて言われたら在り来りで”全部”としか言えなかった。あなたの存在、生き方、全てが大好きです」 「……」 「俺本当に大好きなんです。宇佐美の事が本当に。だからこそ、俺だって生きて貴方を愛しながら笑って死にたいですよ」 「……」 何も答えない宇佐美を無視して言葉を紡いでいく。伝われ、と祈りながら。 「だから、殺さないでよ俺のこと」 「……っ、」 宇佐美は、息を飲んだのがわかった。真宏は、ぎゅっと抱き締めて、離さないと言わんばかりにその胸に愛をこめて、体全部で伝える。 「俺が生きてても、貴方が居なきゃ意味ないの。たとえ俺らが将来離れることになったとしても、貴方がどこかで生きてると思ったら生きられるの。それくらい単純馬鹿なの俺は。だから簡単に、死なないで欲しいの。軽んじたわけじゃない。けど貴方が……」 たとえ俺がこの先生きていても、その世界に貴方がいなきゃ意味がない。 俺には大切なものがたくさんある。 家族、友人、先生…… 全部、大切で、失いたくなんかない。でも、じゃあ他の全てを選んで宇佐美を失っても、俺は生きていけるのだろうか。 家族がいて、友人がいて、懇意にしてくれる先生がいて、思い出の写真や、思い出のキーホルダー、指輪、お揃いのTシャツ。 それ全て未来に持っていっても、そこに宇佐美がいなかったら。 俺はちゃんと幸せだと言えるのだろうか。 そんなわけないよ。 だって俺は、貴方に出会った時からずっとわがままだもん。 嫌なことは嫌だって言える人間なんだ。 だから俺は俺を貫くしかないんだ。 そんな自分だから、きっと宇佐美に好きになってもらえたんだと思うから。 俺は貴方も、他の大切なもの全て、手放すつもりなんてないんだよ。 「貴方がハルさんに思ったように、俺も、貴方が死んでしまったら思うんです。貴方がハルさんに感じた痛みを抱えながら、俺を生きていかせるつもりですか?」 「……まひ、ごめん、ごめんそんなつもり……」 わかってる。意地悪な言い方してごめんね。 「分かってます。宇佐美は俺に死んで欲しくないからこそ怒ってくれたこと。わかってます。だから嬉しい。でもそれは俺も同じなんです。貴方はもっと、俺に愛されてる自覚を持ってください」 やんわり笑えば、宇佐美は目を見開いて真宏を強く抱き締めた。かき集めるようなその抱き方に、伝わった気がして嬉しかった。 「自暴自棄になることがあっても、痛くても辛くてもくるしくても、そばに俺が居なくてすぐに駆けつけられなくても、声が聞けなくても、俺は生きてるから、だから、生きてて欲しい。生きてればなんでも出来るから」 生きていて。世界のどこにいても。 俺はあなたを信じているから。 「……真宏、何か聞いたん?」 宇佐美の言葉に真宏は笑って、「何を?」ととぼけた。 「……かれんと会うた?」 宇佐美の微笑みに、勘づかれたのは分かったけれど真宏は笑って、首を横に振った。 「ううん。会ってないよ」 嘘つかない俺のひとつだけの嘘、これだけは許してね。 「……そっか」 その微笑みは信じたのか信じてないのか分からなかったけれど、それでも真宏は笑って、伝わるまで聞いてくれた宇佐美がやっぱり好きだと思った。 宇佐美はそれ以上何もいうことなく、真宏を抱きしめた。 真宏は泣かなかった自分に安堵して、宇佐美の肩口に顔を埋める。 ふと、宇佐美が口を開いた。 「でもそれと、ピアスってなんの関係があんねん」 「ああ、だから、要するに不安要素をいっこいっこ消していこうと思って」 肝心なことを言うの忘れてた。真宏は顔を上げて、しっかりと宇佐美と目を合わせる。 「不安要素?」 「そうです。俺、宇佐美と連絡つかなかったり会えないと結構情緒不安定になるんですよこれでも」 「え?そうなん!?」 宇佐美は驚いた顔で真宏を見る。真宏も今初めて言ったから少し恥ずかしい。 まあ、妹の胸で泣くぐらいには追い詰められるんだなと自覚したばかりなので。 「だから、キスマじゃ消えちゃうでしょう?ピアスなら残るじゃないですか」 真宏がニヤリと笑っていえば、宇佐美はカッと顔を赤くして「気づいてたん!?」と言った。 「証、俺も欲しいもん。宇佐美とお揃いの石、付けたい」 「えーけど痛いで?」 「うん。宇佐美がつけてくれる痛みならなんでもいいよ」 「どこで覚えたんそんなえっちぃセリフ!!」 他の男か!?と馬鹿なことを言う宇佐美に「あほ」とデコピンする。 「ねえ開けて。好きなとこでいいです宇佐美の。どこでもいいからお揃いにして貴方と」 真宏の言葉に宇佐美は赤い顔で、うぐ……とつまった。 宇佐美にとって恋人に痛いことするのも証をつけるのも苦手なことで、あの指輪が精一杯だったのに、相変わらず真宏は宇佐美が越えられない壁をあっさり飛び越えて突飛なことを言う。 確かに、宇佐美自身も真宏に自分の何かを残したくて指輪なんていう相当重いものをちゃっかり渡してしまったわけだけども。 それとこれとは話が違うというか……。 宇佐美が押黙ると真宏は眉を八の字にして、しゅん……とあからさまにしょげて見せた。 「……俺、宇佐美のものになれないのかなあ」 純粋に心から漏れた不安は宇佐美の心を大きくつき動かした。 俗に言う「きゅん」と言うやつだ。 そんなことをぽそりと呟くものだから、宇佐美は大慌てで「いや!!ちゃうねん!!ちゃうんやけど、……」と真宏を抱っこし直す。 真宏はそれでもしょげたまま、ぺとり、と宇佐美の肩に擦り寄った。 ンンンンンン可愛い。可愛いんだけども…… 自分がさんざん痛いことをされて来た人間だからこそ、したくないという思いが強い。 けど本人が望む痛みならば別だろうか。無理やりにしたことでは無い……し。 「……ホンマに、開けるん?」 「うん」 「絶対?」 「絶対」 曲げない意志。 これこそ、真宏の持ち味だ。ここで発揮されるとは。 「…嫌やって言うたら?」 「……泣いちゃうかも」 本当に俯いて泣きそうになった真宏に慌てた宇佐美が「わかった!!わかった!!」と降参した。 宇佐美は真宏の丸っこい後頭部を大きな手で撫でて落ち着かせる。 「宇佐美とお揃いがいい……」 「うん。せやな」 「してくれる?」 「うん。えーよ」 念を押して確認してくる真宏に苦笑しながら宇佐美は答えた。宇佐美は、真宏の白くて傷跡がないまっさらな耳を、すり、と撫でる。 真宏は、ぴく、と肩を揺らして「ぅ……」と小さく呻いた。 「どこに開けるん?俺、結構あいとるけど」 宇佐美が自分の耳をさわさわと触っていると、真宏もゆっくり手を伸ばして宇佐美の耳に優しく触れる。 「これ、全部自分で開けたんですか?」 宇佐美は記憶を探り、「いーや」と否定した。 「ロブ……耳たぶはどっちも自分かな。けどその他は知らんお姉ちゃんに開けられたな。確か、ピアスの施術が本業の人やってん」 何気なく真宏の問いに返すと、腕の中の彼から返事がないことに気づき顔を覗き込んだ。 「まひ?」 真宏は隠すことなく、頬をぷっくり膨らませて明らかに、不機嫌ですよ顔をしていた。 うん、わかりやすい。 宇佐美は吹き出して真宏を目一杯抱きしめる。 「ぐ、苦しいぃ……」 腕の中でもがいて唸る真宏でさえ愛おしくて泣きたくなる。 年下の男にこんなにも可愛いと思う日が来るなんて思わなかった。 あんなに好きだったハルがいなくなってから、もう二度と誰も好きになんてなれない、なるはずがないと思っていたのに。 ほんの二年前までは。 自分は涼雅や天哉と出会えただけで幸せ者だと思っていたのに。 これ以上ないほどに愛おしくて、離れたくなくて、手放したくなくて、愛なんてもんじゃ言い表せないぐらい大切な後輩。俺の恋人。 伊縫真宏と出会えたことが、俺の生きる意味だったのかも知れない。 ハルと出会い、愛を知って、真宏と出会い愛と信頼と運命を知った。 宇佐美壱哉は生涯、伊縫真宏を忘れない。 * 「ニードルの方が綺麗にあくんやで。ピアッサーは音も大きいし、斜めになったりしてまうかも知れへんし」 「はい。なんでもいいんで一思いにグサッとお願いします」 「そんな切腹みたいなノリで言われても」 真宏は壁によりかかって、宇佐美にもらった指輪をお守りがわりに握りしめ、こわばってプルプルと震えていた。 その様子を、真宏の耳を氷で冷やしながら見下ろす宇佐美はどうしたもんかと息をはく。 前に宇佐美の耳を開けた女が置いていった、未使用のニードルと自分がたまにつけてたピアスを熱湯消毒して真宏のいる居間に戻った。 真宏が以前買い置きしておいた救急セットの中にオキシドールがあったので、それとガーゼで熱湯消毒したピアスとニードルを拭き上げ、宇佐美は真宏の前に行き氷で耳を冷やしたのだ。 真宏はニードルを見た瞬間青ざめて震えていたが、何回「やめようか」と言っても頑として首を縦に振らなかったので、開ける決心自体は鈍ってないようだがそれでも怖いらしい。 「だいぶ、耳もキンキンやろうし……そろそろ行くで?」 宇佐美も宇佐美で物々しい言い方になってしまい、ビビらせてしまっただろうかと息を呑む。 すると真宏は遠慮がちに宇佐美の服の裾をちょこんと握って体をわずかにこちらに寄せた。 宇佐美がやりにくくないよう、ほんの少しだったけれど、少しでも宇佐美のそばに寄りたいと言っているようなそんな健気な行動に宇佐美は、ギュン、っと胸が変な音を立てた。 こほん、と興奮を誤魔化す咳払いをする。 これ以上、真宏を耐えさせるのは忍びなかったので、宇佐美も覚悟を決め、真宏の耳を摘み、事前にマジックで書いて決めた位置にニードルの先をくっつけた。 「一気にいくで。多分マジで痛みないんとちゃうかな。耳めっちゃ冷えとるしな」 「うん」 「ほないくで。もし痛くても途中で止めへんからな。穴が中途半端になる方が危ないからな」 「うん」 「まひ」 「……はい?」 真宏は今か今か、と待ち構えているのに、宇佐美がいつまで経っても開けないことに若干苛立ちを感じつつ、面倒さそうに片目を開けて宇佐美を見た。 宇佐美の顔を見た真宏は思わず両目を見開く。 「……真宏は俺のもんやで」 ざく、と何かが耳たぶを貫通した感触。そのままグイッと奥まで差し込まれ、ついにプツッと最後の皮が突き破られる感覚がしてニードルが貫通したのだと知る。 痛みは感じなかった。まだ耳が冷えてるからかも知れない。 もしくは、宇佐美のかさついた唇が、真宏の唇に触れていたからかも、しれない。 宇佐美が微笑みながらニードルの筒の部分にファーストピアス代わりの針先を差し込み、そのままニードルを引き抜いていく。 ピアスが真宏の開けたてのホールに綺麗にはまり、宇佐美は最後、キャッチを嵌めた。 「うん。……綺麗やな、真宏」 離れていく宇佐美のやわい唇。 ほんの一瞬の口付けと、ずっと欲しかった言葉をくれた愛おしい年上の先輩。俺の恋人。 宇佐美の顔は歪んで見えなかった。ただ、開けられた左耳の耳たぶは段々ジクジクと熱を持ち始めていた。 顔も耳も熱くて、鼻の奥がツーンとして、溢したくもない涙が馬鹿みたいに顎につたっていってしまう。 「……やっと、っ……、やっと、おれのって、いってくれた……っ」 顔を手で覆って、真宏はもうこの涙をどう止めれば良いのかわからなかった。 宇佐美に引き寄せられ、しっかりと抱きつく。でもそんなんじゃ足りなかった。もっと、もっと宇佐美が欲しい。ピアスなんかじゃ足んないよ。 「……こないな傲慢な感情、嫌いやったのにな。真宏だけは、絶対に俺のやって思ってまう。そんで、俺は絶対に真宏のもんやで」 雫が溢れ続ける瞳に宇佐美を写す。宇佐美の瞳も涙に濡れていて煌めいていた。 碧い瞳がしっとりと濡れている。 真宏は、精一杯の「大好き」を伝えるために、思いっきり口角を上げて笑った。 「大好きだよ。この先も」 勝手に重ねた宇佐美の唇は、相変わらずかさついていて、苦いタバコの味がした。 ぺろっと宇佐美の八重歯を舐めると、クスッと綺麗な顔で笑われる。 絶対に忘れたりなんかしない。 このキスの味も、 この人の優しさも、愛も、 言葉も、暖かさも、力の強さも、 唇の感触も、 全部、絶対に忘れない。

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