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Just the beginning ㉙

 次の日の朝。章良は、見覚えのあるホテルのスイートルームの扉の前に立っていた。仕事ではないので、普段着に身を包んではいたが、ある意味仕事と同じような緊張感は漂っていた。  尚人の言うとおり。自分は、有栖に考えてみる、と言った時点でもう一度黒崎に会うことを決めていた。尚人はああいうとき、勘が鋭い。ただ少し勘違いしている。尚人は、章良がイケメン黒埼に興味があるのだと思っているみたいだったか、そうではない。  確かめたかっただけだ。あの自分の中に生まれた小さな疑惑を。  ふうっ、と大きく息を吐いて、ドアをノックした。  しばらくすると、かちゃっ、とノブが下りてドアが開かれた。開いた途端、笑顔の有栖が目の前に現われた。 「アッキー、来てくれたんだ!」 「ん」 「入って」  有栖に促されて中へと進む。数日前と同じ部屋のはずだが。カーテンは閉められ、空気は淀んでおり、客室のテーブルには菓子類の食べかけの袋や飲み物のペットボトルなどが散乱していた。その中にはワインなどのボトルも混じっていた。  そのテーブルの隣に設置されている相変わらず趣味の悪いソファに、黒崎はいた。こちらに背を向けて、ソファの上に体操座りで座り、膝を抱えて両膝に顔を埋めてじっとしていた。  目で有栖に問いかけると、有栖が苦笑いをして答えた。 「ずっと、あの状態からほとんど動かなくて。話しかけてもほとんど返事がないし」  ほら、ガッちゃん、アッキー来てくれたよ。そう言って、有栖が黒崎に近づいて肩を叩くと、ようやく黒崎が顔を上げた。こちらをゆっくり振り返る。すると、かけていた眼鏡が膝に当たって振り返った反動で微妙にずれた。が、ずれた眼鏡を気にすることもなく、ちらっと章良を見ると、再びふいっと顔を元に戻してしまった。  なに、あいつ。めちゃくちゃ拗ねてるし。なんで、あいつが拗ねてんだよ。 「もう、ガッちゃん、失礼だって。何回も言ったとおり、ちゃんと謝まらないと駄目だからね」  そしたら、俺、ちょっと、席外すね。そう章良に言い残して、有栖が部屋を出ていった。淀んだ空気の中、沈黙が広がる。  しばらく待ってみたが、黒崎は話し出すどころかこちらを見ようともしない。章良の苛々は募り、痺れを切らして結局自分から声をかけた。 「おい」  すると、黒崎がチラリとこちらを見た。眼鏡が再びずれる。半ずれのまま数秒章良を見ると、またふいっと顔を戻した。 「話、しねぇの?」  また黒崎がこちらを見る。ずれる眼鏡。戻る顔。 「黒崎」  それを繰り返すこと数回。  見る。ずれる。戻る。見る。ずれる。戻る。見る。ずれる。戻るって、お前。 「おい。わざとやってんだろっ、お前!」  思わずツッコむと、黒崎が得意そうに口角を上げて、また振り返った。 「おもしろかった?」 「全然」 「えー、だって、ずれてんだよ、眼鏡が。何回振り返ってもずれてるし! そんで、半ずれだし! 直しもしないし! おもろいよね??」 「その笑いのツボが俺にはよくわかんねぇんだけど」 「なんだ、アキちゃん、やすきよネタ知らねぇの? 日本人のくせに」 「……お前、何か勘違いしてないか。やすきよネタは、めがね、めがね、だぞ」 「……なにそれ」 「はあ?? 知らねぇの?? やすし・きよしの定番ネタじゃねぇか!」 「え?? そうなの? ずらして戻す、じゃないの?」 「……お前、どこでそんな間違い情報拾ってきた?」 「いや、ジュン経由で?」 「そんなネタ聞いたことないぞ」 「そうなの? なんだよ、もう。ジュンに騙されたわ~」  不機嫌そうに眉を潜めて、口を尖らす黒崎を見て、章良は思わず吹き出した。あまりにも子供みたいで。 「ちょっと、馬鹿にしてんの? 俺の渾身のギャクを。パクリだけど。しかも間違えて覚えてたけど」 「渾身だったのか? あれ」 「そうだって。失礼じゃね? 頑張ってアキちゃんに笑ってもらおうと思ってたけど、そこのポイントで笑ってもらうつもりじゃなかったんだけど」 「いや、だって、子供だし。やってること」  そこで章良は気づいた。いつの間にか普通に黒崎と会話をしている。先ほどまであんなに重い空気だったのに。黒崎を見ると、静かに微笑んでこちらを見ている黒崎と目が合った。そのどことなく真剣な目に、章良の胸がどきりと鳴った。 「アキちゃん」 「……何」 「ごめん」 「…………」 「俺、ちょっと、欲望が抑えきれなくて、暴走したわ。アキちゃんが可愛い過ぎて」 「……バカじゃねーの」 「ん、俺、バカになんの。アキちゃんのことになると」  ふっと優しく笑うその顔にあれっ、と章良は思う。この表情をどこかで見たことがある。そんな気がした。

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