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第35話

どうして誠一が?  「あ………」  「どうしてここにいる」  つっけんどんに聞く。  「……散歩っすよ」  「随分遠出だな」  「誠一さんはどうしてここに?」  「お前を追ってきた」  「みはなちゃんたちは?」  「車に待たしてある」  誠一は選択を間違えた。  隣には帰国した前妻がいて傍らには一人娘がいて、どこからどう見ても完璧な理想の家族を演じていたのに誠一はわざわざそれを放り出して自分を、こんな自分なんかを追ってきたというのか?  どうかしてる。  悦巳を追ってきたところで利益はないだろう、退職金を渡して叩き出した家政夫の姿をたまたま道路を一本挟んだ対岸に目撃したからといって何故あせる、偶然で流してしまえばいいじゃないか。  悦巳はもう無関係な人間なのだから、誠一に絶縁され契約破棄の上に正式に解雇された身なのだから、家政夫の職を解かれ児玉家から完全に切り離された悦巳を元雇用主が追ってくる必要も意味もどこにもないはずだ。  こんな不合理で不条理、感情的で衝動的な行動は悦巳が知る誠一らしくない。  まるで衝動に任せて悦巳を追ってきたとでも言いたげに浅く息を喘がせ汗を拭っている。  久しぶりの再会だというのに時候の挨拶も近況報告も抜きでこれまでどうしてたとか元気だったとかそういう言葉なんて一切なしで、それはまあ誠一の性格から予想がついていたから大して失望もしなかったが、それにしたってまる二週間ぶりに会った元家政夫に対してもうちょっと感慨をこめた口をきいてくれてもよさそうなものだ。  出戻りを歓迎してくれるだろうなんて舞い上がってたわけじゃない、馬鹿で鈍感だと子供の頃から大志にさんざん貶され自覚に至った悦巳はそこまでおめでたくない。  最悪の別れ方をした。  話し合いは決裂した。  修復可能な亀裂が入った。  殆ど喧嘩別れに近い最後だった。  誠一も悦巳も双方の主張を声高に訴えるばかりで完全に冷静さを失っていた、高熱に苦しむみはなを放置して寝室にまで届く大声で口論を繰り広げた罪は重い。誠一が親失格なら悦巳は家政夫失格だ、みはなの看病を最優先するべき時につまらない口論に時間を費やした。悦巳に誠一を一方的になじり責め立てる資格はない。誠一は誠一なりに最大限の譲歩をしたのだと今ならわかる、想像力が及ぶ。誠一は善処した。分刻みの過密スケジュールをなんとか調整してできる限り帰宅の時間を繰り上げたのだと、みはなの容態を真剣に案じてアンディが運転する高級車を可能な限り安全運転で飛ばしてきたのだと今ならわかる。希望的観測が混じってるのは認めよう、そうあってほしいという願望が少なからず含まれているのも。  でもきっと、誠一は真実を言わない。  この人はとんでもない意地っ張りだから、素直になるのが下手なひとだから、娘のために車を飛ばしてきたなんて死んでも言わないはず。今ならわかる、あの時はあれが誠一にできる精一杯だったのだと。どうして気付かなかったんだ、あの時あの人は今と同じように息を切らしてたじゃないか。  平常と同じ尊大な言動に紛れて見落としてしまったけど注意深く観察すれば息が上がっているのに気付いたはず、額が薄っすら汗ばんでネクタイの根元が緩んでいるのも気付いたはずだ。  悦巳は想像する。瞼の裏に鮮明にその光景が浮かぶ。駐車場に入れるのを待ちきれずマンション正面で車を停めた誠一が弾丸の如く飛び出してくる男、自動ドアをくぐり白亜の大理石を敷き詰めた広壮なエントランスホールを突っ切る、エレベーターの到着を待てず階段を使う。背広の裾を翻し性急な靴音を響かせひたすら上階をめざして駆ける、駆ける、駆ける。。  階段を二段飛ばしで駆け上がりつつネクタイを緩める姿が脳裏に浮かぶ。  誠一は急いでいたのだ、今と同じに。  悦巳を追いかけてきた今と同じようにあの時も急いでいた。他人の手伝いを突っぱねて、エレベーターを使うようなずるをせず、自分の足で走ってきたのだ。  それがなんになる?無駄にカロリーを消費しただけ、体力を消耗しただけじゃないか。時間の浪費だ。エレベーターの到着を待てず階段で八階まで行くという短絡な発想自体冷静な判断力を失っていた証拠だ。裏を返せばあの誠一が正常な判断力を失うほど慌てていた証拠でもあって、台所にとびこんだ誠一のネクタイがほどけかけていた事にもっと早く気付いていれば、放った第一声が弾む吐息に紛れかすれていたことに気付いていればあるいは  あるいは?  どうだったというんだ?  もう手遅れなのに。  もうすべて手遅れだ、終わってしまったことだ。  だから?だからなんだというんだ。悦巳は視野狭窄に陥って真相に気付けなかった、批判と非難に夢中になって彼の努力を認めなかった、誠一は誠一なりに親の務めを果たそうとした。  根っから仕事人間の誠一が詰まった予定を繰り上げて夜七時までに帰宅するのがどれほど難しい事か。  助けを求める悦巳の電話におざなりな対応をしたわけではなかった、適当な嘘を吹き込んだわけじゃなかった、できるだけ早く帰ると請け合った言葉に嘘はなかった、ぎりぎりまで追い詰められた悦巳の懇願に誠意をもって報いろうとした。  娘が心配だから。  そばについててやりたいから。  そんな単純な動機で。  人の親としてはこれ以上なく正道な動機で。  とんでもなく不器用で子供みたいに意地っ張りな誠一は本音を言うのが下手くそでだからしばしば誤解され、わかっていたはずなのに悦巳も誤解して、澄ましこんだ上っ面に騙されて、抑えた吐息が乱れてるのにも気付かなくて。  「どうして追ってきたんすか……!」  どうして。  今さら。  もう終わっちまったのに。  悲鳴のように、叫ぶ。  「逃げるからだ」  「答えになってねっすよ!」  「狩猟本能だ」  「はあ?」  「逃げるものは反射的に追ってしまう」  「意味わかんね………」  「あれだけ騒げばいやでも気付く」  嘆息しあきれた顔で悦巳を見る。顔が赤くなるのがわかりそっぽをむく。  「ずっと無視してたくせに」  「車の音にかき消されて聞こえなかった。逃げ出したとき初めて気付いた。地声のやたらでかいつれが名前を連呼して」  「大志が?」  「……それで気付いた」  「なんで居場所わかったんすか」  「俺の脚力を舐めるな。毎週ジムで鍛えてるんだ、家でごろごろしてる家政夫に遅れをとるか。見失わないよう追ってきた」  家政夫。  誠一が自然に発した単語に泣き崩れそうになる顔を、意志の力で引き締め直す。  悦巳の表情の変化をどう解釈したか、ばつ悪げにつけたす。  「……幼稚園の子供たちが教えてくれた。道をまっすぐ、川のほうに行ったと」  「息が上がってるっすよ」  「………年の差を考えろ」  「毎週ジムで鍛えてるのに?」  「もう三十近いんだぞ俺は。あと五歳若かったら負けなかった、とうに追い越して」  「追い越しちゃダメっしょ」  苦笑いで突っ込む。誠一は憮然とする。  俺は知ってる。とてつもなく負けず嫌いなんだ、この人は。  悦巳は知ってる。  ずっと一緒に暮らしてたから。  誠一の性格も嗜好も癖も。  「……もう一度聞く、ごまかさずちゃんと答えろ。どうして戻ってきた?」   「………帰巣本能っす」  「は?」  面食らう誠一を睨みつけ、やけっぱちで言い放つ。  「誠一さんの犬っすから、俺。ついつい自分を捨てた薄情な飼い主んとこに戻ってきちまったんす」  「怒るぞ」  怒りの水位が上昇しつつある誠一と向かい合い、腰に手をあて斜に立つ。  「間違ってねっしょ?気紛れに拾って構って、飽きたら捨てる犬」  「犬の方が利口だ」  「……ひでー……」  「どうしてマンションの前に?」  「忘れ物をとりにきたんすよ」  へたくそな嘘をつく。  「もってく暇なくておいてったもの取りに来ただけっす。大志は手伝いで……その、漫画とかDVDとか結構量あるしダンボール持ってもらおっかなって。誠一さんも困ってるだろうし。居候の忘れ物がいつまでも家ン中ごろごろしてたらじゃまっしょ?新生活はじまるんだし……」  おどけてつけたした言葉を後悔する。誠一が胡乱げにこちらをうかがう。  嘘をつけ。切り抜けろ。あやしまれるな。  自己暗示をかけつつ、軽薄な笑顔でしゃべりつづける。  「家出る間際はそれどころじゃなかったけどあとから考えたらもったいねーなーって……賃金代わりに持って帰ったっていいっしょ?誠一さん漫画なんて読まねっしょ?アクション映画なんて見ないっしょ?今までさんざんあんたのわがままに振り回されたんだからこんくらいの役得なきゃやってけないっす」  「捨てた」  「え?」  「お前の荷物ならぜんぶ処分した」  とりつくしまもないあしらいに凍りつく。  上顎にへばりつく舌をやっとの思いで引き剥がし、かすれた声で問う。  「どう、して」  「……帰ってこない人間の荷物を後生大事にしまっておいて何になる?」  ショックを受ける。  無表情な誠一と見詰めあい、ぱくぱくといたずらに口を開閉する。  「ぜんぶって、ぜんぶっすか。漫画とかDVDとか高枝切りバサミとか食器自動洗い機とか誠一さんが前にくれたエプロンとか……」  「そうだ」  言葉が続かない。  出てこない。  見切りをつけられた失意が胸を黒く塗り潰していく。  「いらないものは捨てる。当然だろう」  そうやって俺のことも捨てるんすか。  反駁したい気持ちを自制心の限りに堪え、一番気になっていた事を聞く。  「……あの人がみはなちゃんのお母さんですか」  誰を指してるか察しはついたのだろう、ひとつ首肯する。  乾いた唇を舌で湿し、切りつけるように問う。  「みはなちゃんを渡すんですか」  「今日は顔合わせだ。これからレストランに食事に行く。……母親と会わせて考える時間を与えたい。二歳の頃に消えた女だ、殆ど記憶に残ってないだろうが……母親だという事実は変わりない」  「今すぐどうこうってわけじゃないんすね」  意志を確認しひとまず安堵。  車のところへみはなをつれていく現場を見た瞬間、母親に引き渡す決定的瞬間にでくわしたのかと頭が真っ白になったが、早とちりと発覚して全身の力が抜けていく。  が、誠一の返答はつれない。  「帰国してから二週間と少しだ。双方の都合もある。性急には進めん」  「……やっぱり返すんですか、みはなちゃんを」  誠一は答えない。  悦巳の問いにむずかしい顔で黙り込んでしまう。  返す返さないと子供を物のように扱うやりとりは嫌いなのに、そう表現するしかないどかしさ。  「家政夫やめた俺が口だすのもアレだけど……俺、やっぱいやっす」  「まだそんなことを」  「誠一さんがみはなちゃんを嫌ってるなんてうそっす」  「子供は嫌いだ」  「自分の子供は特別っしょ?」  「俺の子じゃない」  「断言できねっしょ、遺伝子鑑定したわけでもねーのに。それにもし本当にそうでも……自分の子供じゃなくたって……」  気力を振り絞り一歩を踏み出す。  譲れない意志を込めた目で誠一を見据え、きっぱり断言。  「誠一さんとみはなちゃんが家族なのはホントっすから」  「何を根拠に?」  唇の片端を釣り上げ嘲笑う誠一と向かい合い深呼吸をひとつ、弱弱しく笑う。  「本当の親子じゃなくたって、血の繋がりなんてなくたって、もう立派に家族っしょ」  誠一が黙りこむ。  また一歩間合いを詰める。  「誠一さんがいくら血の繋がり否定したって、親子じゃねえって言い張ったって、誠一さんがみはなちゃんを大事に思ってるって事は変わらねっしょ」  「大事に思ってなどない」  「じゃあなんで血相かえて風呂場に殴りこんできたんすか、俺が服脱がしてる現場見て怒り狂ったんすか」  「あれはお前を試すために、」  「娘の字を一発で見分けた。『ばかせいふ』と書いたのはみはなちゃんじゃねえって自信たっぷりに断言した。料亭の仕出し弁当用意したのは?自分は料理を作れない、手作りはムリ、ならせめて値段で勝負しようって?誰に見られても恥ずかしくねえ豪華なお弁当もたせてあげようと思ったんじゃねっすか?」  「違う」  「園児に仕出し弁当持たせてるって最初に知ったときはびびりましたよ、何考えてるんだってどん引きしました。放任もいいとこだって……だけどあれからよく考えて気付いたんです、あれは誠一さんの精一杯の優しさじゃないのかって」  体の脇でこぶしを握りこみ、渋面を作る誠一に立ち向かう。  「料亭に注文した弁当なら栄養バランスばっちり、色どりも考えられて見た目もキレイ、色がきれいなら子供も喜ぶはずって思ったんでしょ。アンディに聞いたんです、みはなちゃんの弁当は特別製だったって。おかずはぜんぶ子供が食べやすい一口サイズだったって。誠一さんが注文したんでしょ?子供が食べやすいよう取り分けてくれるようわざわざ料亭の人に頼んだんでしょ」  「……勝手な想像だ」  「勝手な想像っすよ」  わざとらしく肩を竦め両手を広げる。  「そもそも子供の弁当に懐石を選ぶって発想からしてずれてるっす。ハンバーグとかエビフライとか子供が喜ぶもの他にいくらでもあるのに……だけどね、誠一さんらしいやって笑っちゃったんです」  おそらく誠一は、みはなが何を好んで食べるかわからなかったのだ。そこで苦肉の策として有名料亭の仕出し弁当を採用した。  好きなおかずはなにかと直接聞けば済む話だったのに、不器用な誠一は、それすらできなかった。  「……みはなが何を好きなのかなんて知るわけない。料亭の弁当なら味も品質も保証されている、食わせて間違いない、はずだ」  みはなの母親はみはながほんの小さい頃に家を出た。  おそらくはみはながハンバーグやエビフライを好物と認識して食べるようになる前に。   「油物は体に悪い」  仏頂面で呟く誠一の真正面で立ち止まる。  「誠一さん、みはなちゃんのことちゃんと考えてるじゃねっすか」  そして微笑む。  「こないだの発言撤回します」  「は?」  「父親失格って……頭に血が上って言いすぎました」  父親失格かどうか決めるのはあくまで子供自身であって第三者じゃない。  誠一に頭を下げて謝罪してから、ひどく真摯な目で誠一を見詰める。  「誠一さんが一生懸命『お父さん』になろうとしてるって、俺、わかってますから」  誠一が息を呑む。  「みはなちゃんのこと見てねーふりでちゃんと見てるって、いざって時はちゃんとお父さんできる人だって信じてるから。俺の電話だって切らずにちゃんと取り合ってくれた、すぐ帰るって約束してくれた、それ叶えようって頑張った。俺、馬鹿だから……誠一さんが大慌てで帰って来たのも気付かずひでーこと言って」  「真っ先に台所に来たんだぞ、寝室に向かわず」  「みはなちゃんの身に何かあったんじゃないかって心配したんでしょ?」  真実を確信した声音。  「玄関のドア開けてすぐ台所で騒音したら反射的にそっちに向かうの当たり前だ。みはなちゃんが怪我したかもって早とちりして」  「……お前の姿も見えなかった」  「俺のことも心配してくれたんすか?」  「ついでだ」  悦巳は誠一の言動を曲解していた。  玄関に入ってすぐ騒音がしたらそちらへ駆けつけるのは自然な行動、自分を待つ人間の身に何か起きたと錯覚するのは自然な心理。  悦巳とみはなの身を心配したからこそ、誠一は寝室に寄り道せず、まっすぐ台所に向かったのだ。  「誠一さんはお父さんになれます。つか、もうお父さんっしょ」  「何を言ってるんだお前は」  「みはなちゃんのお父さんは児玉誠一ただ一人って事っす。俺じゃだめなんすよ」  自分の存在価値と意義をさらりと否定し、誠一に託す。  こみ上げてくる感情を押さえ込み、今にも儚く散り砕けそうな笑みを保ち、続ける。  「……赤の他人ができることには限界があるんです。でも、誠一さんなら」  「俺に父親の役割を押しつけるな!!」  誠一が激昂する。  正面に立つ悦巳を燃え滾る目で睨みつけるや虚空を薙ぎ払い、懊悩に顔を歪める。  「俺にどうしろというんだ、今さらみはなを構えというのか、可愛がれとでも言うのか?自慢じゃないが俺は子供が嫌いだ、大嫌いだ、うるさくて汚くてすぐ泣くし手に負えん、望んで親になったわけじゃない!婆さんが生きてたらみはなを押しつけ顧みもしなかった、親父がむかしそうしたように子供の事なんかすぐ忘れた、きっと会いにも行かなかった。俺は親父以下だ、きっといつか自分に娘がいるという事実さえ忘れてしまう、なんとも思わなくなってしまう」  『あなたの心臓には永遠に溶けない氷の欠片が刺さってるのよ』  『だからだれも愛せない』  「俺は……」  『あなたを愛す人なんてだれもいない』  『私でも無理だった』  「家族なんか作るべきじゃなかった」   苦渋の滲む悲愴な形相で、自戒とも自嘲ともつかぬ痛恨の響きを伴い唾棄する。  欲しがるべきじゃなかったと、悦巳の耳にはそう聞こえた。  自分のわがままの巻き添えにして妻も子供も不幸にしてしまった、だからもう人を愛する資格も愛される資格もないのだと。  「……いい父親になんてなれるもんか」  「どうして諦めちゃうんすか」  「あいつはちっとも懐かない。俺はみはながわからない。お前がいないとあいつは笑わない」  なげつけられた言葉が胸をつく。  「笑わないんだ……」   何をどうしたらいいかもわからず途方に暮れる姿は、かつての傲慢なまでの自信にあふれた男とはあまりにかけ離れていて。  「……奥さんとより戻すつもりっすか」  誠一がこちらを見る。  「え?いや、だって仲良さそうだったし」  唇から滑りでた疑問に狼狽、視線のやり場に困って地面をさかんに蹴りつける。  「……キレイな人っすね。ちょっと性格きつそうだけど。完璧主義ってのかな?冷蔵庫の中身きっちり整頓してましたもんね、神経質なくらいに。香辛料の瓶がずらっと並べてあって……形から入るタイプ?あの人が台所に立って料理してる姿や洗濯物干してる姿思いつかねーや、エプロン似合わなそー」   「嫉妬してるみたいだぞ」  「嫉妬しちゃ悪いんすか」  誠一が虚をつかれる。  「なにをしてるんだ誠一!」  張り詰めた静寂を切り裂く無粋なクラクション。  川沿いの道と並行して続く、もう一段低い私道に荒っぽい運転で高級車が乗り入れてくる。  そのドアが勢い良く開け放たれ、仕立ての良い背広姿の紳士が降り立つ。  「親父?」  誠一が意外そうに目を見開く。  車から現れたのは充だった。  川沿いの遊歩道へと続くコンクリートの階段を上り、誠一と悦巳の間に血相変えて割り込む。  「あの女が帰国したというのは本当か、みはなを返せと騒いでると……まさか言うなりになって渡すつもりじゃないだろうな、パチスロを目指すと息巻いて籍を抜けた外国かぶれに一粒種の娘を渡すなど正気か?」  「バリスタだ。間違えるならせめてバチスタと」  「会う約束をとりつけたと部下に聞いて慌てて飛んできた。マンションに向かう途中でお前を見つけて、それで」  目線を走らせ周囲を警戒、露骨に不審感を顔に出す。  「みはなは?あの女は?安藤は一緒じゃないのか」  「あとで説明する」  「悠長にしてる場合か!みはなの父親はお前なんだぞ、自覚をもて!」  とっくに成人した息子をヒステリックに叱責する。  閉口する誠一の態度がさらに神経を逆撫でしたか、真っ赤に充血した顔で怒鳴る。   「お前がみはなを可愛がってないのは知ってる、仕事仕事で娘に興味がないんだろう。くそ、あの女に渡すくらいならいっそ私が引き取る!幹子に預けて正式に養育を」  誠一の形相が豹変、肩を掴み一方的にまくしたてる充の手を汚物の如く振り払う。  「孫の養育を愛人に頼む男がどこにいる、恥を知れ!!」  「籍を入れてないだけで殆ど同居してるようなものだ、お前だって知ってるだろう誠一、あれは内縁の妻のような存在だ。そうだそれがいい、幹子になら安心して任せておける、あいつは子供好きで面倒見がいい、男親よりよほど気がきく。お前だってそのほうがいいだろう、憂いなく仕事に打ち込めるだろう?楓にとっては姪にあたる、あれはいい子だ、きっと可愛がってくれる……妹を欲しがってたから……」  息子の心を切り刻む無神経な言葉に誠一の目の温度が急速に冷え込んでいく。  「みはなは美香に返す」  「誠一さん!?」  傍らで叫ぶ悦巳を無視し、底冷えするような侮蔑の表情で、鋭角の光を沈めた辛辣な眼差しで告発する。  父親失格の烙印を、押す。  「むかしあんたがしたのと同じ事だ。物心つくかつかないかの子供を厄介払いして、あとは愛人とお楽しみと来た。みはながいなくなったら俺もそうす」  充の手が鋭く撓い、甲高く乾いた音が爆ぜる。  「……………」  ぶたれた頬が赤く腫れる。  殴られた衝撃で唇が切れて血が滲み、ばらけた前髪が目元を覆う。  「………大きな声を出すな。人が見てるだろう」  誠一が口走った「愛人」「厄介払い」という単語が通行人の耳に届くのを恐れたのだろう、世間体を気に病む小心者の目つきであたりをうかがう。  「直接会って話をする。訴訟も望むところだ、親権は断じて渡さん。みはなは俺の孫だぞ、目をはなした隙に外国につれさられたらかなわん、即刻手を打とう」  手をさすりつつ今後の方針を決める充へとつかつか歩み寄り、律儀に断りを入れる。  「失礼します」  「え?」  手を振り上げる。  甲高く乾いた音が爆ぜ、渾身の平手打ちをくらった充がよろめく。  「なんのつもりだ!?」  「こっちのセリフだ」  喚き散らす充の胸ぐらをぐいと引き上げ獰猛に喰らいつく。  「みはなみはなみはなばっか、あんた誠一さんの気持ちはどうでもいいのかよ、孫の心配する前に息子の心配しろよ、あげくのはてに愛人にみはなちゃん預けるとか正気か?」  「ぶ、部外者が口を挟むな……家政夫の分際で」  「誠一さんの家政夫であってあんたの家政夫になった覚えはねえ、俺を『家政夫の分際で』って罵ってのはいいのはこの人だけだ!」  まさか悦巳に殴り返されるとは思っていなかったらしく、地面にへたりこんで怯む充の首ねっこを押さえ、こみ上げる激情に任せて怒号を放つ。  「黙って聞いてりゃさっきから好き勝手抜かしやがって馬鹿かてめえは、一体だれのせいで誠一さんがこんな性格破綻者になったと思ってやがる、あんたが誠一さんをほったらかしにしたのが原因じゃねえか!愛人とこに入り浸ってばあちゃんに息子預けっぱなしで学校行事にも来ねーで、そのくせ会社が潰れかけたら泣きついて後始末ぜんぶおっかぶせて冗談じゃねえぞ!誠一さんはなあ、無能なあんたの尻拭いするためにわざわざ外国から帰ってきてやったんだ、奥さんとも上手く行ってたのにあんたが突然日本に呼び戻したせいでだいなしだ、誠一さんがせっかく手に入れたしあわせぶち壊したのはてめえだって自覚しろよ!!」  誠一に浴びせた罵倒もした行為も許せない、殺意に近い憤怒が体内で暴発し視界が赤く灼熱、悲鳴を上げ逃げ惑う充の襟首を揺さぶり荒れ狂う。  「誠一さんがどんだけひとりぼっちで寂しい思いしたかわかってんのかよ、ばあちゃんが代わりに愛してくれたってそれだけじゃ埋まんねーんだよ、母親にも父親にも捨てられてひとりぼっちでねじくれていじけてぜんぶ全部あんたが悪いあんたのせいじゃないか、どうしてだよ息子が可愛くねーのかよ、あんたの子だろ、どうして帰ってやんなかったんだよ帰ってやれよ手遅れになる前に、手遅れならまず謝れよ、大人のくせにごめんなさいもできねーのかよ!!」  自分を捨てた親への怒りと哀しみと未練とがごっちゃになって煮え立ち、怒らない誠一の代わりにその遣り切れなさを代弁する。  「か、家族の問題に口を出すな。お前は関係ないだろう」  「ある!だって俺は」  「まさか」  充の顔に電撃が走る。  何かを悟った顔で悦巳と誠一を見比べがばりと跳ね起きる。  「こいつとできてるのか、誠一」  「は?」  「前に愛人がどうのと言っていたのはこういうことか、子供を厄介払いしてこいつとくっつくつもりか?」  下世話な詮索に思い込みを深め、激しく手を振って強硬な論陣を張る。  「許さんぞ、男同士で同棲だなんて!そもそも日本の法律じゃ同性婚は認められない!」  「~どうしてそうなるんすか、俺と誠一さんはそんなんじゃなくて!」  「籍を入れるのは無理でも養子という手がある」  「誠一さん!?ちょ、否定してくださいよ!!」  「養子にとれば永続的に同棲が可能となる。同性婚が認可されてない国でよく使われる代替案だな」  誠一が意地悪く笑いながら解説を加えたことによってマイノリティへの偏見と生理的反発が噴出、わななきながら主張する。  「ふ、ふ、不潔だ!男同士でそんな、お前をそんな人間に育てた覚えはない!」  「育てられた覚えはない」  冷たく切り返す誠一を燃え盛る目で見据え、悦巳に指をつきつける。  「こいつは婆さんの遺産を手に入れるための切り札だろう!」  え?  充が吐いた言葉に動きを止める。  胸ぐら締め上げる手が緩んだ隙に転げるようにとびのき、シャツの皺を伸ばしつつ言う。  「家政夫なんて大嘘だ、誰が詐欺の前科持ちの若造を家政夫に雇うと思う、そんな都合いい話あるわけなかろう」  どういうことだ。  俺は家政夫として雇われたわけじゃない?  俺の雇用には別の目的と動機があった?  路頭に迷って漫画喫茶を渡り歩いていた俺をある日突然高級車で拉致ってマンションに軟禁して契約書に判押させて、一連の行動に裏があった?  充の顔が毒々しく歪み、ひん曲げた口元に露悪的な嗤笑が滴る。  侮辱を跳ね返さんと虚勢で優位を誇示し、知られざる真相を暴露する。  「お前はずっと利用されてたんだ、そうとも知らずに」  「はじまりは祖母の遺書だ」  眼差しと口調から感傷を拭い、誠一があとを引き継ぐ。  「祖母が急逝したあと金庫から一通の遺書が見つかった。そこにお前について書いてあった」  「俺の、こと?」  「オレオレ詐欺が目的でかけてきたくせに途中から隠す気もなかったんだろう、自分の氏名生い立ちをぺらぺらしゃべりまくったおかげで手がかりには事欠かなかった。ボケ老人が相手だからと油断したか?婆さんはあれで抜け目のない性格だ、お前とどんな話をしたか日記に事こまかに記録してある。瑞原悦巳、十九歳。最終学歴中卒。お前は途中から俺を装うのを諦めた、孫のふりをするのをやめて暇つぶしのおしゃべりにつきあった。婆さんの晩年は孤独だった。でかい屋敷にひとりきり、荒れ果てた庭を持て余して……伴侶に先立たれてから一気に老け込んで、いつ迎えがきてもおかしくなかった」  日光を弾いて燦々ときらめく川を眺めつつ、目を眇めて回想する。  「婆さんはお前に財産を分与するつもりだった」  「は?」  「お前は自分の知らない間に遺産の相続人候補に挙げられたんだ」  何を言ってるんだ誠一は?  俺が知らない間にばあちゃんの遺産の一部を相続する手はずが整っていた?  「……その遺書って……どの程度有効なんすか」  「遺書は遺書だ。そこまで強制力はない。だが今回は事情が違う。婆さんの顧問弁護士が食わせものでな……生前に相談を受け、婆さんの望みを叶える為に裏で手を回した。遺書の文面は、正確にはこうだ。瑞原悦巳の居場所を一早く突き止め最低半年以上保護した親族を管財人に指名する……と」  「早い話が後見人だな」  充が食傷気味に首を振る。  「遺産を相続する条件はお前を見つけること。婆さんが残した土地屋敷はかなりのもの、売却すれば金になる。親族みな血眼になってお前を捜したが、正規の探偵社が請け負う調査には限界がある。その点俺の部下は本物の戦場を経験した精鋭ぞろい、強襲に長けている。囲い込みはお手の物だ。ターゲットを必ず生かして連れてくると安藤は約束した」  誠一の声が右耳から左耳へ素通りしていく。  手足の先から感覚を失って現実感が減退していく。  「誠一さんは後見人で……ばあちゃんの遺産が欲しくて……俺を匿ったてことっすか」  舌の動きが鈍る。  頭の働きが麻痺する。  「最初からばあちゃんの遺産めあてで……先着総取りって遺言書に書いてあったから?」  「知らない間に御曹司になってた気分はどうだ、悦巳」  切れた唇をふてぶてしくねじり、悪戯っぽく訊ねる誠一。  全身の動脈と静脈に火が走る。俯いた顔に激情の朱が爆ぜる。  「俺を利用したんすか」  児玉華の遺産を手に入れる為には瑞原悦巳の存在が不可欠だったから、人海戦術で囲い込み追い詰め、拉致した。  「そうだ」  あっけなく頷く。  悦巳が信じ縋った最後のひとかけらの希望まで粉々に打ち砕くように。  「遺書は親族一同勢ぞろいした前で、弁護士や関係者立ち会いのもと公開された。そんな状況で公開された遺書を無効にできん、最初からなかったものとして捻り潰すわけにはいかん。……親父が第一発見者なら隠匿もありえたが」  「誠一!」  充が声を荒げる。  誠一は肩を竦めて続ける。  「それまで故人の信任厚い弁護士が厳重に保管していた。遺書が公開されると同時に激震が走った。見ず知らずの赤の他人に、最後に親切にされたからというだけの理由で遺産を譲ろうという祖母の正気を疑う声も上がった。が、だからといって軽んじるわけにはいかん。親族一同躍起になってお前の行方を追ったが、捜査は難航を極めた。友人知人を一切頼らず、根無し草のようにして漫画喫茶を渡り歩いてたんじゃむりもないが……婆さんの遺書を読んで初めてオレオレ詐欺の被害にあったことを知ったんだ。お前がもらした情報の断片を継ぎ合わせて都内の養護施設に瑞原悦巳という人間が実在したところまでは掴んだが背後の組織まで炙りだすのは難しい。被害者は既に墓の下、告発の手立ても機会も持たん。婆さんが遺書や日記に記述を留めていなければ発覚自体しなかった」  誠一はずっと悦巳の行方を追っていた。  悦巳の後見人となってまんまと遺産を手に入れるために、半年の期限つきで家族ごっこを演じた。  半年間。  二週間前で、ちょうど半年?  「……期限が切れたらお払い箱ってか」  話し終えた誠一はもう何も言わず、冷徹な眼差しで悦巳を鞭打つ。  「俺を突然追い出したのって……半年で時効だから、どのみち金が入るって判断して……?」  嘘だうそだと心が軋んで否定する視界が褪せて錆びて歪曲し景色が溶けて流れ出して目の前の誠一の姿がぐにゃりと歪む、華の遺書、そんなものが実在したなんて知らなかった、今初めて知った、そこに書かれていた内容に従って行動したまでだと誠一は言った、悦巳を一番先に見つけた者が競争を制す、期限は半年間、たった半年うるさい居候との暮らしを我慢すれば義務を果たした後見人への報酬が転がり込む美味しいシステム……  「嘘だ」  遺産?  土地屋敷?  殆ど文無しに近い悦巳なら暴かれた真相に狂喜していいはずだ、華が残した遺書によってとんでもない幸運が舞い込んだ、施設育ちのみなしごが他の親族を差し置いて莫大な遺産を受け継ぐ御曹司に指名された、ほら喜べ嬉しいだろう、未払いの家賃を一括し電気ガス水道代を払ってもおつりがくる大金が貰えるんだぞ……  「血のつながりもない、どこの馬の骨ともわからん詐欺師くずれのくずに財産分与とは婆さんの気紛れにも困ったものだ。上手く取り入った、と言うべきか」  充の目がぎらぎらと濡れ輝く。  「身の上話で同情を引いたか?まとまった金が入れば仲間と手を切り足を洗うと良心に訴えたか?お前の口車にまんまと乗せられたってわけだ、婆さんは。じゃなきゃ正当な権利をもつ血縁をさしおいて面識もない相手に財産を譲るなど考えられん、ボランティアじゃないんだぞ?孤児院や外国を訪問して恵まれん子供に施すのが昔から好きな人だったが、慈善活動の対象にしてはとうが立ちすぎてるしな」  「婆さんの世話をたらい回しで押しつけあうのが親父の言う兄弟愛か?生きてるうちから遺産の分配で揉めてれば書き直したくなる気持ちもわかる、身内に愛想が尽きたから他人に白羽の矢を立てたんだろう」  「ばあちゃんの遺産ってどんくらいっすか」  「八千万。家土地や株を売却すれば二億をこえる」  二億円。  桁が凄すぎて具体的な想像など何ひとつ追いつかない額。  六畳の和室と風呂つきアパートで暮らし、残り少なくなったシャンプーを水で薄めてちびちび使う悦巳が手にする機会など一生なかっただろう金額。  頬ひくつかせ無理して笑う。  ドッキリをバラすチャンスを与えるようにぎこちなく、今ならまだ撤回が間に合うと言いたげに。  「………誠一さん、ずりいや。はした退職金、ぜんぜんおっつかない額じゃねっすか」  騙されていた。  嘘をつかれていた。  ひどい嘘を。  心をぼろぼろにする嘘を。  俺の存在意義とか価値とか何だったんだ家政夫としてやり直すとかはりきって挫折して逃げ出してでも誠一さんにとっちゃ最初っからどうでもよくて、だってそうだ俺はばあちゃんの遺産を手に入れる為に必要な手形だから期限切れで無効になったらポイって捨てるつもりで  「俺、なんだったんすか」  なんで俺に遺産を残したんだ?  「駒だったんすか」  御曹司に指名したんだ?  俺は孫のふりしてばあちゃんを騙そうとした悪いヤツばあちゃんだけじゃねえたくさんのじいちゃんばあちゃんを騙した人間のクズケチな悪党、だけどこんな俺でもまだ痛みを感じる人の心は残ってる、ばあちゃんと話してるときそれを思い出した、とぼけた誘導にひっかかって身の上話をぽろぽろ零した、紅茶の上に浮かぶ菓子くずみたいにぽろぽろと本音を零した、やがて底に沈んで忘れ去られる菓子くずならよかった、だけど何度沈めても浮き上がってきてしまう、何度やってもしつこく浮き上がってきちまう。  懺悔したかった。  「俺…………」  胸を塞ぐ重荷を少しでも減らしたかった。  良心の苦しみから逃れたくて罪悪感を掃き捨てても心が掃き溜めと化すだけだ。  罪悪感はきっと、人が人らしくあり続けるために必要なものだから。  俯き、表情を隠す。  「御曹司になんてなりたくなかった」  拳をきつくにぎりこむ。  「あんたたちと一緒にいられたらそれでよかった」  ごっこでもいい、家族が欲しい。  余り物でもいい、しあわせになりたい。  「それでよかったのに」  ばあちゃん、俺、遺産なんか欲しくない。そんなもの欲しくない。  俺が欲しかったのはそんなもんじゃない。  「誠一さんとみはなちゃんと今までどおり楽しくやっていけたらそれで、」  金はあるに越したことないけど、ひとりぼっちで持ち越したって意味がない。  永遠に富み栄えたって、本当に欲しいものを取り上げられたら意味がない。  誠一さんは何千万で買える?  みはなちゃんは何億で買える?  俺を好きになってくれる人は、ただいまとおかえりなさいを言ってくれる人は、俺の作った飯をおいしいって言ってくれる人は、俺が淹れた紅茶を仏頂面で飲んでくれる人は、おそろいの手袋を嵌めてくれる人は?  家族が買えないなら、そんなもの、いらない。   食うに困らなくたって、人は飢える。  愛情に飢える。  自業自得の報いを受けた。  たくさんの人をどん底に叩き落としたしっぺ返しをくらった。  もう叶わない夢、手放すしかない願い、それら一切を掃き捨てるように青空に向かって絶叫する。  ―「くそ野郎!!!」―  ―「みずはらさん!」―  母親に付き添われ走ってきたみはなが目に入る。  親指を内側に曲げて握りこんだ拳で誠一を殴り飛ばす。  みはながびくりとする。  母親がみはなを庇いしゃがみこむ。  あっけにとられた充、幼い娘を守るようにかき抱く母親、それらの視線を集めながら誠一を殴り倒す。  全力で振り抜いた拳が頬に炸裂、誠一が仰け反る。  「ざけやがって、ぜんぶてめえの計画通りだったんだな、やってられっか畜生茶番に付き合わされて半年ムダにしたぜ、なあ耳の穴かっぽじってよく聞けよ、あんたはこの半年いい思いしたよなあ、ガキの世話から掃除から風呂沸かしからぜんぶ人に押しつけてこき使ってしまいにゃ遺産ひとりじめか、なにからなにまで思い通りでさぞかし笑いがとまらねーだろーさ!!」  上に下にもつれあい土手を転がりつつ無軌道に腕を振り抜く。  「なんとか言えよバカ社長、言い訳のひとつもしてみろよ!金がほしかったんだろ、ばあちゃんの遺産狙ってたんだろ?俺はあんたが立てた計画にまんまと利用されたってわけだ、なんもしらねーばかせいふがおつむの悪ィ犬みたいにしっぽを振って懐き倒す姿は痛快だったろうさ、腹ン中で俺の間抜けぶり嘲笑ってたんだろ、横取りしようたってそうはいくか、ばあちゃんは俺を指名したんだ、相続するのは俺おれ……」  「やめてください!!」  甲高い金切り声が響く。  小さな影が土手を転がり落ちてくる。みはなだ。  滑るようにして土手を駆け下り、今まさにパンチを放とうと撓めた悦巳の腕に体当たり。  「……どうして……」  いつも明るく優しい家政夫の豹変にショックを受け、いたいけな瞳に映る現実を拒否するように頑是なく首を振る。  芝生を植えた斜面に押し倒された誠一が片目だけ動かしみはなを捉える。  切れた唇を腫らし擦り傷を作った父親の顔に言葉を失い、誠一を締め上げる悦巳の手に無我夢中で縋りつく。  巣篭もりのうさぎのように背中を丸め、身を固くし、小刻みに震えながら。  「こんなみずはらさん、えっちゃんじゃないです……」  腕にぽたぽたと熱い雫が染みていく。  「いつものえっちゃんにもどってください……」  「みはな!」  危機感を込めた女の悲鳴が鼓膜を貫く。  遅ればせながら駆けつけた母親が悦巳にしがみつくみはなを奪い取り、高圧的に言う。  「その人から離れて。子供が見てるのよ」  片膝つく足元が目を奪う。  ブランド物だろう華奢なハイヒールの踵が根元から見事にへし折れている。  靴の踵が折れて茂みに消えてもかまうものかと斜面を滑り急行した、母性の塊のような女をしげしげ見つめる。  第一印象で幻視した無慈悲で美しい雪の女王の片鱗はない。  そこにいたのは命がけで子供を守る、汗みずくで逞しいひとりの母親。  ああ、この人なら。  この人になら、まかせられる。  悦巳が離れるや素早く誠一を助け起こす。  「大丈夫?」  さきほど誠一から借りたハンカチをポケットからとりだし、唇に滲む血を丁寧に拭う。  再び家族が結束する。  ひとつになる。  芝生に上体を起こした誠一の背中に片手を回して支え、ハンカチを傷にあて泥を拭い、背広についた芝の切れ端をひとつずつつまんで捨てる。みはなも見よう見まねでそれを手伝う。右と左から誠一を挟み、寄り添い、背広をはたく。  「………だせー家族ごっこ」  ずれたヘアバンドの位置を修正し捨て台詞を吐けば、母親がきっとこちらを睨みつける。  「愛想が尽きたぜ」  ずたぼろのスニーカーで芝を蹴りつけ、憤然と踵を返す。  「いちぬけ。勝手にやってろ」  芝生をさくさく踏んで土手をのぼる悦巳を切羽詰まった声が追う。  「みずはらさん!みずはらさん!」  「やめなさいみはな、戻りなさい」  「みずはらさん!みずはらさん!」  「お願いもどって!」  悦巳は一度たりとも振り返らない。  振り返ったらおしまいだ。  顔を見られたらおしまいだ。  虚勢で成り立つ茶番が崩壊してしまう。  もがくみはなを必死に押さえつける母親の姿が瞼に浮かぶ。  道端に立ち尽くす充の隣を通り過ぎる。   「お前……」  充が何か言いかけ、やめる。  歩け。前を見て。肩を怒らせて。  平坦に均された川沿いの道を無心に歩く、ひたすら歩く、スウェットのポケットに不良ぶって手を突っ込んでけっして後ろは見ず顔を上げ前だけ見て虚空を睨んで歩き続ける。  みずはらさん、みずはらさん、みずはらさん。  風に吹き散らされる痛切な叫び。  背後に迫るたどたどしい靴音。みはなが追いかけてきたのだと直感する。  短い足を懸命に蹴り出しこけつまろびつ土手をよじのぼり、大股に立ち去る悦巳に追いすがり、つまずく。  「あっ」  何かが倒れる鈍い音、続く悲鳴。  足が止まる。  「みずはらさん!いっちゃいやです、みずはらさん!もどってください、もどって、えっちゃん!」  起き上がり駆け出す。  また転ぶ。  涙をこらえてまた走る。  みはなが起き上がったのを音と気配で確認後、何食わぬ顔で歩行を再開。  前のめりに急く気持ちを押さえ、葛藤を殺し、肘を突っ張る角度と歩幅を計算し、自らの内側から湧き上がるいかなる感情も背中に反映させないよう軽快に地面を蹴る。  ぱたぱたからぱたたたへ、悦巳が歩調を上げれば靴音の間隔も狭まる。  だけど一向に差は縮まらず引き離される一方。  小さな子供が脚力と歩幅で成人男性にかなうはずがない。  平らに均された道を一生懸命駆けてくるみはな、ワンピースの裾がはためく、新品の靴がすっぽ抜けて後方に置き去りにされるも取りに戻る暇を惜しんで悦巳を追う、ひたすらひたむきに追う、虚空を掴みちぎり捨てるように前へ前へと手と足を出す。  「大丈夫です、もういじめたりしませんから、あの人にはよく言って聞かせますから、こんどえっちゃんいじめたらお尻ぺんぺんで針千本飲ますから、お弁当のごはんつぶいっこも残さないから、いい子になります、だから」  置いてかれる不安と捨てられる恐怖とに苛まれ、もう届かない背中に向かって短い手をありったけ伸ばす。  「えっちゃ、」  また転ぶ。  三度目。  今度は立ち上がらない。  地面に突っ伏してびくともしない。  はるか先を行くちっぽけな影が引き返してくれるのを忍耐強く待つも、それが叶えられぬと知るや拳をきゅっと握り、息を吸う。  「う………ぁ………」  空気が震える。  「うあああぁあああああ、あ、ああああああぁああん」    これでいい。  いいんだ。  どうかみはなさんが俺のこと嫌いになってくれますように。  振り向くな。振り向いたらおしまいだ。  見たらきっと後悔して駆け戻っちまう、かっさらっちまう。  だから振り向かない。前だけ見て歩き続ける。  俺がいなくてもあの子はもう大丈夫。お母さんが帰って来たんだから。お父さんもいる。じいちゃんだって。  抱き起こすのはお母さんの役目で、抱きとめるのはお父さんの役目だ。  俺がいなくても両親がちゃんと守ってくれる。  片親が戻って二親がそろったんだから、代わりを務める必要もなくなったわけだ。  並木が続く閑静な川沿いの道を歩き続ける。  川に架かる鉄橋から断続的に響く轟音の遠雷がだいぶ小さくなった号泣をかき消す。  いつのまにかスニーカーの紐がほどけ、蹴り出す足にあわせて横腹を鞭打ち跳ね返り、くりかえし踏みつけられてドロドロに汚れていく。  憎まれ役を買って出た決断を、後悔なんか、しない。  俺が手を引けばみんなしあわせになれる。  俺が身を引けばやり直せる。  嫌われるのには慣れている。  憎しみを浴びるのは慣れている。  ひとを殴るのは慣れてない。  加減したつもりだがこぶしが痛い。  誠一を殴ってる間中、自分の心を殴りつけてるみたいだった。  諦めるのはちっともむずかしいことじゃない。  ずっとむかしからやってきたことだから。  御曹司どころか、とんだ道化だ。  けどさ、俺のガマンで誠一さんのしあわせが買えるなら安いもんだろ?  だろう、ばあちゃん。    「―っし」  振り返る。  予想通り、はるか後方に置き去りにした誠一たちの姿は点の如く霞んで見えない。  無用の片手はポケットに突っ込んだまま、手庇を作り眺め渡す。   「ここまでくりゃオッケーかな」  自分に確認するようひとりごち、手庇を力なくおろす。  たったいま置き去りにしてきたもの、一芝居打った自分の犠牲の上に成り立つだろう未来を目を閉じて思い描く。  この距離なら絶対聞こえないだろうと安心し、強く吹く風が余韻に付随する感傷もさらってくれるだろうと信じ、呟く。  最初で最後の真っ赤な本当の告白。   「好きでした。誠一さん」    好きでした。  大好きでした。  末永くおしあわせに。  できれば俺の分まで奥さんとみはなちゃんをしあわせにしてやって。  あんたならきっとできる。  ばあちゃんの自慢の孫なら、俺が好きになった誠一さんなら。  そう願う。  「なーんて……かっこつけすぎ?」  くたびれた顔で笑い、手庇の角度をちょっと変えて不真面目な敬礼のポーズをとる。   振り返った一瞬に過ぎ去りし歳月が去来したような、諦念と悲哀が錯綜する淡く儚い笑み。  ああ、違うや。  かっこつけてるんじゃねえや。  やせがまんじゃん、ただの。  かっこわりぃなあ。  「ちょうどよかった。おうちに送ってやるよ、えっちゃん」  顔を上げる。  道の先に立ち塞がるダークスーツの男。  嗜虐的な性癖を暗示する双眸の粘着な光、それを巧妙に隠すインテリ気取りの風貌、スマートな体躯。  片手に掲げた携帯を軽快に閉じ、悠然と歩み寄ってくる男の名は……  「御影、さん?」    御影雅臣。  瑞原悦巳をオレオレ詐欺の道にひきずりこんだ張本人だった。

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