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第41話
アンディは全治二週間の重傷だった。
さりとて車と衝突しながら打撲と肋骨のひびだけで命に別状なしというのは事故の規模からみれば軽傷だろう。
日頃から鍛えてるせいか生来丈夫なためか、一般人なら全治一ヶ月、打ち所が悪ければ即死だと医師も驚いていたが、種を明かせばスーツの下に着込んでいた防弾ベストが身を守ったまでだ。
路上に倒れていたアンディを回収したのは御影と入れ違いに到着した仲間たち、そのまま部下が運転するバンで病院に担ぎ込まれ治療を施されたが最大の誤算は搬送時に脳震盪を起こしていたため人間ドッグに回されたこと、次いで提示された入院期間が予想外に長かったことだ。
そしてアンディはがむしゃらに腹筋を始めた。
自分がいかに病院に場違いな健康体かアピールする作戦だ。
カラカラキャスター回し滑走するストレッチャーの上で突如腹筋を始めた患者に看護士は大慌て、筋肉隆々の胸板に包帯巻いた大男が鼻息荒く腹筋おっぱじめる現場に通りがかった患者は仰天、一人は点滴を倒してしまった。
「脳波の検査などいらん、俺は正常だ」
「それが正常な人間のすることですかっ!いいからじっとして、おっこちますよ!」
「俺は急いでる。すぐにでも帰ってやらねばならんことがある」
「怪我人がなに言ってんですか!」
「不満なら背筋もしてみせるが」
「心療内科に行き先変更!」
「脳外科のほうが近いわ!」
「早くおろせ、防弾ベストがないとすーすーして落ち着かん。ストレッチャーなど弾除けの盾にもならん」
「ストレッチャーは運搬道具です!ていうかこの人ホントに患者さんなんですか無駄に元気なんですけど、肋骨にひび入ってるのに腹筋ギネスに挑戦て自殺行為なのか馬鹿なのか……」
「聞こえないか?戦場が俺を呼んでる」
「幻聴です。耳鼻科行きますか」
「ふっふっふっ」
「すごいラマーズ法、じゃなくて腹式呼吸」
「暴れないでって言ったでしょ大のオトナが往生際悪い、ストレッチャー壊したら治療費に修理代上乗せしますからね!」
断じて人間ドッグが怖かったわけではない。
検査時に通り抜ける閉所恐怖症的暗闇が怖いとか外観からしてすでに不時着した未確認非行物体とか洗脳装置とかそういう系でダメだとかそういうわけではないので誤解しないでほしい。そもそも生きる伝説とまで言われた最強の傭兵で戦場の男がたかが人間ドッグごときに恐れをなすなどありえないし金輪際あってはならないのだ絶対。看護士らの手を煩わせた件については良心が咎めないでもないが背に腹は代えられない、あの場はあれが最善の方法と信じた。「あの得体の知れんトンネルに自分を放り込む気なら拘束帯を引きちぎり腕立て伏せを始めるぞ」と宣言したアンディの目は紛れもなく本気だった。
直談判、技あり。
結果ストレッチャー及び病院の備品の破壊を懸念した医者は当初の診断を翻し、甚だ不本意ながら退院をしぶしぶ受諾した。
人間ドッグをまぬがれたアンディが深く安堵したのはいうまでもない。
駄々のこね得というものだ。
かくして「お願いだからどうかお帰りください」としまいには泣きつかれほうりだされたアンディ。
本来ならば最低二週間の入院が義務づけられていたところをむりやり即日退院してきはいいが現場復帰は許されず、誠一たちが今後の話し合いを兼ねて外食にでかけているあいだマンションでの待機を命じられた。
要は留守番だ。
誠一には事情の大部分を省略し車と接触したと簡潔に伝えてある。
叱責は覚悟していたが、誠一は「……そうか」と呟いたきり反応は鈍かった。
アンディの声色に深入りできない何かを感じとったか、前妻との晩餐を控え気もそぞろだったのか……あるいは疎んじたのか。図体でかく目につくボディガードがつきっきりでは話し合いに身が入らないだろう。誠一がいつにもましてピリピリしてるのは察しがついた。一人娘の今後を決める大事な話し合いだ、神経質にもなるだろう。しかも相手は数年ぶりに会う別れた妻だ。主人の心中を忖度するなどおこがましいとわかっていても不安を覚えずにいられない。持ち場を離れ別行動し車にはねられたのだ、にもかかわらず批判ひとつされなかったのは誠一自身それどころじゃなかったためか。
そばを離れた理由についてはしゃべってない。
社長を行かせたのはアンディ個人の判断であって服務規程には逸脱している。
いかなる理由があろうと護衛対象を一人にするなど許されない、ボディガード失格となじられ怠慢を責められても仕方ないとわきまえている。
最悪クビも覚悟していたというのに、電話越しに淡々と身の処し方を告げる誠一の声はこれがあの社長かと疑うほど覇気がなかった。
「!」
通信が入る。
即座に胸元に手を入れ通信機をとりだす。
「こちらアインこちらアイン、応答どうぞ」
『こちらゼクスこちらゼクス、現在杉並区界隈を哨戒中。敵の消息は依然掴めず、引き続き追跡を継続する』
『敵車両は白のプリウス、杉並区ナンバーで間違いないな?』
「そうだ。杉並あ―2012だ」
『乗り換えた、またはプレートを付け替えた可能性は?』
「ないとは言えんが低い。敵は杉並区のどこかに潜伏してるはずだ」
『拉致犯は暴力団関係者か?』
「……運転手の顔までは視認できなかった」
『気に病むな司令官殿、ボンネットを転がりながらそれができたら狙撃手のスカウトがくる。お前は近接戦闘のプロだ』
「とにかく杉並区界隈を重点的に捜索する事。該当ナンバーのプリウスを発見次第連絡をよこせ、いいな。通信アウト」
回線を切る。
再び静寂が舞い戻る。
「…………」
スーツの胸元に手を這わせ肋骨を挽く激痛に顔をしかめる。
激しい運動は禁物と医師に言い渡された。戦闘などもってのほか。
部隊の指揮を執る身として不甲斐ない。
肝心の指揮官が負傷し病院送りとなったため、車の追跡は断念せざるを得なかった。
数台のバンを手配して行方を追わせているが依然消息は掴めぬまま、悦巳の無事さえ確認できない。
拉致の現場に居合わておきながらみすみす取り逃がしてしまった痛恨の念が苛む。
犯してしまった失態の大きさが贖うべき責任感の重さとなって背にめりこむ。
最後に見た悦巳の顔が眼裏に焼きついてはなれない。アンディと、ドアに遮られ届かぬ声で必死に叫んでいた。窓ガラスにへばりつく目をひん剥き仰天した顔、ドアを蹴り開けぶち破って走行中の車から飛び降りんとしたところを例の青年―大志に羽交い絞めにされめちゃくちゃに暴れていた。
自分の読みの甘さを呪う。あんな性急にまねにでるとは予想外だった。警察沙汰になって困るのは相手のほうだろうに……
もう手段を選んでいられないというわけか。
利用価値があるうちはまだいい、即戦力と見込まれているうちは生かしておいてもらえる。しかしあの調子で暴れ続けたら、反抗的な態度をとり続けたら?……決まってる、廃棄処分だ。遠からず悦巳は用済みの烙印を押される。手遅れになる前に助けださねば……
拳を握りこみ開け閉め様子を見る。
大志の顔を思い出す。
若い頃の自分によく似たふてぶてしい面構えに苦い感傷が過ぎる。
闘争心の塊めいてぎらつく眼差し、世界中を敵に回し恐れを知らぬ若さ故の無鉄砲さを好ましく思うと同時に同属嫌悪にも似た歯痒さを覚える。
「脆いな……」
苦みばしった笑みが口元に浮かぶ。
「次は、ない」
悦巳の奪還は急務だ。
力むこぶしに手を被せ、自分が行くまでどうか無事であってくれと瞠目し、祈る。
社長はけっして認めないだろうが瑞原悦巳はあの人の支え、あの人に必要な存在だった。
悦巳がいなくなった家の空気は暗く、みはな様は前にも増して無口無表情になった。
秘書とボディガードを兼任し一日中そばにいるアンディには、時間も忘れ仕事に没頭することによって平常心の回復を図る誠一の無理がかえって痛ましく映る。
体重も少し減った。体調管理を疎かにしてるせいだ。
睡眠と食事が不規則なせいで日に日にやつれて肌荒れが目立ち、もとから悪かった目つきはさらに険しくなり、始終いらついて些細なことにも声を荒げ、ひとを寄せつけない雰囲気をまとう社長を案じながら何もできないその心中は複雑だ。
本来なら秘書であるアンディが注意すべきだが、今の誠一は部下の意見など聞く耳もたず、見かねて食い下がろうものならキレる悪循環にはまりこんでいる。
社長とは長い付き合いだ。
不調を来たせばすぐにわかる。
今の誠一は自分を追いつめ痛めつけることによって危うい精神の均衡を取っている、自分の事で一杯一杯でまわりを見る余裕がないのだ。
悦巳がいた頃はこうじゃなかった。
自分ではだめだ。秘書がカバーできる範囲には限界がある。悦巳がいないとこの家は上手く回らない。
みはなは笑わないし誠一は調子が出ない。
いなくなって初めて瑞原悦巳が与えた影響の大きさに気付く。
瑞原悦巳には人を笑わせ和ませる才能があった。あれは演技ではなく素だろう。
馬鹿で明るくお人よしでお調子者、そんな悦巳がいなくなった家は電気をつけていてもなんとなく薄暗くがらんとしている。
「!」
暗澹たる物思いを破ってピンポンが鳴る。
社長か。腕時計を見れば既に夜九時を回っている。話し合いは長引いたらしい。壁にとりつけられた液晶で顔を確認、本人と判断してから玄関へ向かい、二重のチェーンとロックを解除する。
「お帰りなさいませ」
「ああ。いま帰った」
ドアの向こうに立つ誠一に面食らう。
背におぶわれているのはみはな。誠一の肩にぺたりと頬をつけすやすや熟睡している。
「社長がおぶわれてきたんですか」
「……仕方ないだろう、むりにおこしてぐずられても面倒だからな」
困ったようなこそばゆいような顔で、言い訳するように言う。どうやら車の中で寝てしまったみはなを駐車場からおぶってきたらしい。
誠一が娘をおぶってる姿を初めて見た。
あっけにとられたアンディとすれ違うようにして玄関に入り靴を脱ぐ。
「お運びしましょうか」
「いい。俺がつれてく」
音をたてぬよう慎重に寝室のドアを開け、隣り合うベッドの片方に近付く。
電気はつけない。
ドアの隙間からさしこむ薄明かりが娘をおぶって寝室を横切る男を照らしだす。
ベッドに到着、降ろそうとしたそばから背にぶらさがったみはなが首に回した腕にぎゅうと力を込める。
「……こら、絞めるな」
ぎゅううううぅう。
「やめろ、殺す気か」
むずがるみはなを宥めすかし首を締めつける腕から逃れる。
背から下ろしてベッドに移し、靴を脱がせて横たえた上に毛布を掛けて寝かしつける。
誠一の手にくたりと弛緩した体を預けきった姿は、抱き起こせばぱちりと目を開くミルク飲み人形のように愛くるしい。
まろやかな頬に涙が蒸発したあとが白く塩をふく。
白いワンピースの胸元にところどころ染みが出来ている。
体を斜めにしてベッドに腰掛け、娘の寝顔を飽かずに眺めていた瞳が凪ぎ、ドアの隙間から走る淡い光が照らす顔にアンディがこれまで見たことない穏やかな表情が浮かぶ。
みはながぐずって寝返りを打ち、夢でも見ているのか咀嚼し反芻するように口元が伸び縮みする。
「えっちゃ………おむかえ………やくそく……」
右の握りこぶしがゆるやかに解け、軽く曲げられた小指がかすかに動く。
ベッドに手をつき身を屈め、小指と小指を絡め合う。
「約束する。任せておけ」
はだけた毛布を直し、中に握りこぶしをしまって念をおす。
廊下に出るや後ろ手にドアを閉めため息を吐く。
「ご苦労様です」
「心外だな、疲れてなどない。子供ひとりおぶったくらいでへばるような年じゃない」
「お風呂になさいますか。紅茶になさいますか」
「あいつの口真似か?気色悪いからやめろ」
「では紅茶を」
「……なぜ笑う?」
「いえ。滅相もない」
はぐらかして台所へ行き、遅く帰宅した主人の為にきちんと手順を踏んで紅茶を用意する。
紅茶ができあがるのを待つあいだネクタイを緩めてくつろぐ。
陶製の茶器が軽やかに触れ合う音を子守唄に目を閉じる。
きょう一日の出来事を回想してるのか、背凭れにぐったり掛けたままどこまでも沈み込んでいきそうな誠一のもとへ湯気に乗じ香りたつ紅茶を運ぶ。
いつ見てもアンディの働きぶりは無駄なくそつがない。
やることなすこといちいちがさつでやかましく、紅茶を持ってこさせれば飛沫を零しまくり大分中身を減らしてしまう誰かさんとは違い、てきぱき抜かりなく給仕する秘書を眺めてうっそり口を開く。
「車とぶつかったそうだが、怪我はないか」
「軽い打撲と肋骨のひびだけですみました」
「入院しなくていいのか?」
「ええ」
さらりと嘘をつく。
「そうか」
つ、と持ち上げたカップに口をつけ微妙な顔。
「お気に召しませんか」
「雑談はいい。調べはついたのか」
指の先を軽く合わせた誠一に襟を正して報告する。
「井場大志19歳。両親に虐待を受け7歳で児童相談所に保護され養護施設送りに。瑞原悦巳とはそこで知り合った模様です」
「幼馴染……というわけか」
「中学時代から素行不良の問題児で有名でした。万引き・盗難・暴行・傷害・器物破損、ついでに飲酒・喫煙で六回の補導歴および四週間の鑑別所送致の記録ありです」
「札つきだな」
「一緒に施設を飛び出しアパートを借りた仲です。悦巳は彼を信頼していた」
「ふん」
「悦巳を振り込め詐欺グループに引き入れたのは彼のようですね」
「なるほど」
「上司の肝いりです。人手が足りなかったんでしょう」
両手でカップを包み神妙な顔で黙考する。
「なぜマンションに?」
「悦巳についてきたんでしょう、おそらく」
「何故だ」
「おわかりになりませんか」
「…………………」
無言でカップを回す誠一に歩み寄り、スーツの懐をさぐってビニール袋をとりだす。
テーブルに滑らされた袋に目を落とし驚く。
「何の真似だ」
「覚えてらっしゃいませんか。社長ご自身が破り捨てた瑞原悦巳の似顔絵です」
袋に密封されていたのはクレヨンで塗りたくられた細切れの紙片。
誠一が破り捨てた「ばかせいふ」の残骸。
あれはゴミにだしたはず、今頃は跡形もなく燃え尽き消滅してるはずの紙片をアンディが一枚残らず保管していた事実に血が沸騰する。
「ゴミをあさったのか……?ストーカーか貴様は!」
「そう興奮なさると紅茶が零れますよ」
「はぐらかさず答えろ!!」
「おっしゃるとおりです」
風圧で舞うビニール袋を素早く拾い、慇懃無礼の模範的態度でのたまう。
「社長が廃棄を命じたゴミの中から私が拾い上げ保管していました」
「余計なことを!!誰が拾って持っておけと頼んだ、目障りだから捨てたまでだ、そいつが視界にちらつくといらつく」
「みはなさまがお描きになられたものでしょう。勝手に捨てるのは感心しません」
「………っ、」
悔しげに唇を噛んで手を下ろし、見たくもないと袋を遠ざける。
不機嫌の絶頂でソファーにふんぞり返る誠一を静かに見詰め、聞く。
「社長は瑞原悦巳の事をどう思ってらっしゃるんですか」
「……意味不明な質問だな」
「助けたいと?」
「あいつはクビにした。もう関係ない、いなくなってせいせいする。みはなは懐いてたが俺は」
「どうなってもいいと?」
「あいつにかまってるひまなどない、俺は忙しい、やらなければいけないことがたくさんある。大事な取り引きだって」
「わかりました」
アンディが小さく頷き袋を取り上げる。
思わずそれを目で追う。
ポケットからジッポのライターを取り出し、軽快な音たて蓋を開き、小さな火を袋の端に近づける。
「ならば処分しましょう」
ソファーから浅く腰を浮かせ身を乗り出す。
ビニール袋の端が火に炙られ溶けていく光景を瞬きも忘れ凝視する。
端が黒くこげビニールが歪む。やがて中の紙片も黒く変色し……
『誠一さん』
「よせ」
『誠一さん!』
「やめろ!!」
凄まじい勢いでひったくる。
ショック療法が効いた―効きすぎたのだろう、かつて自分の手で破り捨てておきながら他の男の手で燃やされるのを見過ごせず奪い返し、燃え移った火を乱暴にはたいて消す。
「貴様………!!」
「瑞原悦巳が拉致されました」
誠一が凍りつく。
物理的な意味と心理的な意味、両方の意味で張り裂けそうな胸の痛みを押し隠し、アンディはあえて事務的に続ける。
「実行犯はおそらく悦巳が属していた振り込め詐欺グループの黒幕、暴力団関係者。私はその現場を目撃しました」
「どうして悦巳が……仲間じゃないのか」
「組織内でなんらかのトラブルがおこったんでしょう。もともと組織を裏切り逃亡した身、見付かれば制裁はまぬがれない」
「俺と別れてすぐか?なんですぐ連絡しない!」
「……申し訳ありません。奥様との話し合いを控えた社長のお心をわずらわせたくなかった」
悦巳が拉致されたと聞くや鉄面皮が動揺、落ち着きなくソファーに座りまた立ち上がりを繰り返し手を忙しく揉みしだいて無能な秘書を糾弾する。
「どうしてすぐ追わなかった、お前がついていながらみすみす逃がした、あいつはうちの」
「社長の家政夫です」
誠一が言いたくて言えなかった、言おうとして恥ずかしさに負け秘め続けた心の声を代弁する。
語尾を奪われた誠一の顔が苦渋と悲哀と焦慮に歪み、じわじわ押し寄せる絶望に抗って何とか繕った声をしぼりだす。
「……無事なのか?」
「……わかりません。現在部隊を分散し行方を追わせています。発見次第連絡が入るかと」
どうでもいいと言い放ったそばからかっこ悪く取り乱し、アンディに当たり散らした不覚と醜態を恥じるように俯いてしまう。
ああ、なんて不器用な人だろう。
子供みたいな人だろう。
誠一を見守る華はこんな気持ちだったのかと故人の心情を推察する。
ほんの少し角がこげた袋を見つめてひとりごつ顔には、たった今燃やされかけたのが愛しい人の爪か髪でもあるかのような沈痛な表情があった。
「……こんなゴミとっておいてもしかたない」
「社長が捨てようとなさったのはゴミではありません。思い出です。いえ……まだ思い出にしてしまうのは早すぎます」
応接用の上等なソファーを対面式に置き、ガラスのローテーブルを据えたリビングのむこうはダイニングになっていて、キレイに片付いた食卓がどっしりと存在感を主張する。
自分が追放した人間の名残りがやがて透き通る紅茶の湯気と同じく大気に溶けて漂っているのではないかと目を凝らし、自分が命じて払拭した痕跡を記憶の細部と照らし合わせる。
耐え難い喪失感を圧し殺し、空虚な緩慢さで広々したリビングを見回すも、そのどこにもあいつはいない。
どこにも。
「……笑うなよ」
「笑いませんとも」
すっかりぬるまった紅茶を一口、前屈みの姿勢から袋を逆さにして中身を振り落とす。
「あいつにやきもちを焼いていた」
笑うなと前置きされたものの意外な告白に目を丸くする。
アンディの反応が心外だったのか、むっつりと眉間に皺を刻み、テーブルに散った紙片の一枚に指を乗せる。
「祖母は俺が海外とこっちを行ったり来たりしてる間に死んだ。大学入学を機に一人暮らしをはじめてから連絡もいれず疎遠になっていたから訃報を受けて驚いた。あんなに可愛がってもらったのに不義理な奴だと我ながら呆れた。祖母に育てられたも同然だったのに、まとな恩返しひとつできなかった。それどころか成人してからは存在すら忘れがちで、蔑ろにして……屋敷にもすっかり寄りつかなくなった」
指が時計回りに弧を描く。
「親父はあんなだし、俺もこんな性格だ。成人して家庭をもったのにそう頻繁に祖母を訪ねるのも照れくさかった。俺がそばにいなくてもばあさんはいつまでも元気でいるような先入観があって……訪ねていけばすぐ会える気がして、ずっと待っててくれるように錯覚して、今じゃなくてもいいだろうと自分に言い訳してずっと先延ばしにしていた」
帰る家があることに甘えていた。
待っててくれる人がいることに安心していた。
俺はいい父親じゃないから、婆さんをがっかりさせたくなかった。
「婆さんが死んだと聞いてびっくりしたが、思ってたよりショックはなかった。涙もでなかった」
破れ目の形状と色の濃淡から配置を推理、不規則に撒き散らされた一片一片に指あて移動させパズルに没頭する地道さでピースを当てはめていく。
「遺言が発表された時もさめたもんだ。もとから遺産なんかどうでもよかった。会社の経営は上手くいってる、余分な金はトラブルの元だ。税金の手続きも面倒くさいしな。が、祖母を騙したという詐欺師には興味を持った。どんな奴か見ておきたかった。故人が可愛がっていたペットを保健所送りになる前に一目見ておこうという出来心だ」
「ひどいたとえですね」
「俺もそう思う」
「的確です」
相槌に薄く笑い内省的に紙片を弄う。
「ばあさんが肩入れするニセモノを値踏みしてやろうというのともうひとつ……認めたくはないが、嫉妬もあったんだろうな。勝手だろう、十年近くも放っといたくせにいざ愛情がよそへ移ったら憎らしくてたまらなくなる。あいつに近づいたのは親父の差し金……悦巳を懐柔し相続権を放棄させようと企んでたらしい」
「充さまの考えそうなことです」
「親父に義理はない。断ってもよかったんだ。引き受けたのは個人的な興味があったから……まちがっても祖母の仇をとろうなんて殊勝な気持ちじゃない、個人的な仕返しだ。知らないあいだに死んだばあさんへの怒りも親父への怒りも見知らぬ詐欺師にまとめてぶつけてやろうとおもった、懐かないみはなへの苛立ちも勝手に消えた美香への不満も上手くいかないあれこれ全部ぶつけてやるつもりだった。早い話ただのやつあたり……家の事を全部やってくれる都合のいい人間とガス抜き用のサンドバッグがほしかったんだ」
今度は逆時計回りに。
いずれ忘却に呑まれる運命の、それでもたしかにしあわせだった時間を巻き戻そうとするかのように。
「……ミイラとりがミイラになった」
指が止まる。
行き場を失くしたピースを虚ろに眺める。
「あいつのせいで寂しいっていう感覚がどういうものか思い出した」
ずっと忘れていた、意識しないよう努めていた、俺は強いから一人でも大丈夫と暗示をかけ忍び寄る寂しさをごまかしていた。
俺は強いから一人でも生きていける。
妻も子供もいらない
家族なんかいらない
寄りかかる人間なんていらない、傷を舐めあう相手なんていらないと
「……変わってないんだ、あの頃のまま。ちっとも成長してない」
片手で顔を覆う。
もう片方の手でせっかく並べたピースを薙ぎ払う。
「なにもかも婆さんの言うとおりだ。子供の頃言われた、大人になったら家族が欲しくなると。妊娠したと告白された時は戸惑った、こんな自分に父親が務まるか不安だった、だけど嬉しかった、こんどこそ本当の……本物の家族ができるとおもって」
家族ができたら寂しくなくなると思って、
はらはら舞い散るこの紙片のようにどうしようもなくばらばらになってしまった家族をもういちど最初から、
どこで間違えた。
どうして俺は上手くやれない、肝心なことをなにひとつ言えない、自分の手で大事なものをめちゃくちゃにしてしまう?
必ず連れ戻すと約束した。
だけど俺に迎えに行く資格があるのか?
悦巳が許してくれるかもわからないのに、俺の顔なんか二度と見たくないかもしれないのに、家政夫をクビになってせいせいしてるかもしれないのに。
悦巳は大志と一緒にいるほうがしあわせじゃないか?
「所詮家族ごっこだ」
虚勢を張り続けて生きてきたせいで本音を言えない、お前が大事だといえない。
「友達と一緒にいたんだろう、なら自分の意志で詐欺グループにもどったのかもしれない。そっちのほうがずっと儲かるし待遇もいい、俺はいい主人じゃなかった、あいつのことをいつだってそんざいにあつかった。相続の事もばらした、ずっとあいつをだましてたんだ、だから」
「もう追わなくていい?」
「―っ、」
「さがさなくていいんですか」
馬鹿で明るくてお人よしでお調子者で
「社長はどうなさりたいので?」
言えるか、いまさら拒絶されるのが怖いなんて。
手を尽くしてさがしだして迷惑がられるのがいやだなんて。
自分の手でばらばらに砕いたピースをひとつひとつ集めて当てはめていく作業に伴う困難を思えば気が遠くなりそうで、いっそ諦めてしまう方が簡単でも心が納得しない。
正面に跪き、絨毯にくっついた紙片をひとつ摘まみ、力なくうなだれる誠一の手を裏返しそこにおく。
手でもって手を包み、てのひらにのせた紙片をやさしく握らせる。
「ごっこから始まる家族だってあります」
たとえばウソからはじまるホントウがあるように
「瑞原悦巳はいい家政夫でしたよ」
手から通うぬくもりに励まされ、暗く沈んだ目がさざなみだつ。
「私が保証しますとも。私も……私だけじゃない、ツヴァイもドライもフィーアも、部隊の人間はみなそれを教えてくれた社長と華様に深く感謝してます。戦場しか知らなかった私たちに家族のなんたるかを教えてくれたのはあなたがたです」
今を遡ること数年前、アンディと仲間たちは中東の戦場を渡り歩く傭兵だった。
ボケて足腰が弱まるまで慈善活動を行っていた華は、外国の孤児院や難民キャンプをたびたび訪れては様々な手伝いをしたが、ある日銃弾で負傷したアンディを助け、彼が回復するまで甲斐甲斐しく面倒を見、納屋に匿った彼の部隊に手作りの食事と紅茶をふるまった。
「華さまは縁もゆかりもない私たちを助けてくださった命の恩人です、内戦締結と同時に切り捨てられた私たちの苦境を知って新しい職を世話してくださった……」
「人助けはばあさんの趣味だからな」
「あなたがたは恩人です、力になりたい。いえ……」
素直な信頼と尊敬の念が滲む瞳で誠一を見上げ、その子供っぽさや不器用さをも苦笑がちに包容する誠実さで断言。
「好きだから力になりたい」
「………」
「華様の望みはあなたのしあわせ。そして……我々が守り助け支えるべき家族の中にすでに瑞原悦巳も含まれてます」
アンディの激励を受け、紙片を握りこんだ手に再び目を移した誠一がなにか言おうと口を開き―
瞬間、静寂をぶち壊して電話が鳴り響く。
「うちの電話が鳴るなんて珍しいな。仕事関係は殆ど携帯にくるのに……」
誠一が不審顔で立ち上がり受話器をとる。
「児玉ですが」
―『悦巳を助けてくれ!!』―
耳を劈く切迫した悲鳴に呼応し、血とアドレナリン沸く心臓が弾む。
『あんた誠一だろ、あいつのことこきつかってたバツイチオレさま社長の……頼む今すぐ来てくれ詳しく説明してる時間ねえ、阿佐ヶ谷北一丁目マンションエーデルハイツ八階2号室にいっから!』
「お前……大志か?悦巳の友人の。どうしてうちの番号がわかった、悦巳は無事なのか!?」
『どうでもいいだろそんなこたあ、早く』
「どうでもよくない、せめて声を聞かせろ、あいつを電話にだせ!!」
『出せる状態ならとっくにそうしてるよ、できねえからしかたなく俺が代わりにやってんだろうが頭わりぃな気付けよそんくらい!!』
背中にはりつくアンディが会話を引き延ばせと目配せ、電脳要塞と化したバンに手を回しすぐさま逆探知で絞り込みにかかるも……
『くそっ、バレた!!』
荒々しい足音が殺到し鈍い殴打音が連続、飛び交う怒号と罵声を最後に通話が切れ手の中に残された受話器がツーツーと虚しい音を立てる。
「おい……返事をしろ!」
電話の向こうで何かが起こった。おそらく最悪の事態が。
受話器を叩きつけるように戻した誠一のそばを離れ台所に向かい、片膝ついて収納庫の上蓋を持ちあげる。
耳の中で幾重にも反響する助けを請う声が誠一を決断に至らしめ、完全に迷いを断ち切って顔を上げる。
「……悦巳を助けにいく」
「心得ました」
背後に急接近する物々しい足音とがしゃがしゃいう音に振り向けば、小脇にサブマシンガンをひっさげたアンディが貫禄ある拳銃を投げて寄越す。
「敵が立て篭もった場合にそなえ戦場に想定される屋内に武器を貯蔵していました」
「無断でか」
「台所の収納庫を使わせていただきました」
「改造したのか」
「奥行きを少し拡張させていただきました」
「武器庫を提供した覚えはないぞ、税務署の手入れが入ったらどうする」
「脱税してらっしゃるんですか」
「人の話を聞け!」
「強盗、ストーカー、新聞・宗教の勧誘、訪問販売などにも有効です」
「俺のマンションだぞ?みはながかくれんぼでもしたら」
「処分は後日」
「……一応聞くが、銃刀法はどうなってる?」
「問題ありません。抜け道はいくらでも」
自信満々に答え、自らが片手に持った長細い柄をも投げ渡す。
「念のためにこれも。最大1メートル50センチまで伸びる特殊警棒です」
「こちらのほうが性に合うな」
スイッチを押して金属棒を延長、フェンシングで鍛えた感覚を取り戻すように宙を薙ぎ払えば、アンディもまた慣れた動作でボルトを引いて装填を完了する。
「日和るのは十年早い。うちの家政夫に手をだしたごろつきどもを死ぬほど後悔させて殺りましょう」
腹心の部下が恭しく手渡すのももどかしく通信機をひったくり、スーツの裾を翻し大股に歩みながら全回線を開いて号令をくだす。
「こちら誠一、こちら誠一、ただ今をもって瑞原悦巳奪回に赴く。総員出撃―……狩りの時間だ」
さあ、殴りこみだ。
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