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第11話
屋上で決闘だ。
勇んで鉄扉を開け放つ。
コンクリ打ち放しの殺風景な屋上の向こう、ビルが密集した雑多な町並みと爽快な青空が広がる。昼休みは弁当持込みやバレーボールに打ち興じる女子社員で盛り上がるが、今の時期は肌寒く閑散としてる。
ビルの間を抜ける風が髪をさらう。
背広の裾がはためく。
ざらつく地面を踏む。
先客がいた。
こちらに背を向けフェンスにもたれる人影。
物思いに耽る華奢な背中。
丁寧に巻いた茶髪が肩のあたりで揺れる。
制服を着た若い女だ。
鉄扉が開く重厚な音に気付かないはずねえのに、フェンスに腕をかけ街を眺めている。
入り口で足がすくんだ。
屋上に来た肝心の目的もふっとんだ。
心臓の鼓動がはねあがって、手のひらがじっとり汗ばむ。
若干の緊張と、うしろめたさと。
毎日オフィスで顔を合わせる相手に引け目を感じ回れ右して逃げたくなる。
人が一杯のにぎやかなオフィスじゃすれちがっても取り繕っていられた、互いに見て見ぬふりができた。忙しさにかまけてごまかせた。
今は状況が違う。
フェンスを掴む女がゆっくり振り向く。
視線を意識しない自然な動作。動きにあわせ髪が揺れる。
風がじゃれる髪を控えめに押さえ、微笑む。
「来たんだ、ズミっち」
「安子………」
「千里くんも」
後ろに千里が立つ。
間抜けにも、たった今まで存在を忘れていた。
「おはようございます」
屋上への階段を上がりきった千里は無言で俺の後ろに立ち、軽く会釈する。
安子も笑みを返す。
千里が微笑み一発で女子社員どもを悩殺するベビーフェイスの人気者なら、安子は微笑み一発で会社中の男どもを二十代から五十代まで骨抜きにする魔性の女だ。
実際俺の元彼女は、秘書課に入らなかったのが不思議なくらいの美人だ。
面接官に見る目がなかったおかげで俺は営業にいながらにして安子の美貌を眺めて暮らせ、のみならず、お近付きになれた。
身に余る幸運、ありふれた幸せに、いつしか鈍感になっていた。
だから安子は離れていった。
鈍感な俺に愛想を尽かし、より将来性のある、自分を愛してくれる男のもとへ走った。
「二人の組み合わせ意外かも。一緒にいるとこあんま見ないのに。オフィスじゃいつもズミっちがぴりぴり怒鳴りとばして、千里くんがにこにこしてるのに。今日はどうしたの?喧嘩して、殴り合いで決着つけるつもり?好きだよ、青春ぽい展開。せっかくだし見てこっかな」
俺たちの間に漂う険悪な空気を察し安子が冗談めかし言う。
「お前こそ、一人でどうした」
「二日酔いさましてたの。飲みすぎちゃって」
「おい」
妊婦の自覚がない発言に怖い顔と声で詰め寄れば、ちろっと舌を出す。
「うそ。冗談。ウーロン茶しか飲んでないって。ズミっちすぐだまされるんだから」
「だったらいいけど……自分ひとりの体じゃないんだぞ。風にあたるのは毒だ。さっさと行けよ」
「過保護すぎ。妊婦にも運動必要だよ。毎日階段の上り下りしないとすぐ太っちゃう……あ」
まずいという顔で口をふさぐ。
それで判明した、安子が屋上にいる理由が。ダイエット目的で階段を上り下りしてるらしい……ダイエットに燃やす女の執念には脱帽する。ダイエットに無関心な俺としちゃ執念に比例して脂肪が燃えるのを祈るばかりだ。
会話が途切れ、気まずい空気が流れる。
安子はさりげなく腹に手をあて、唇にかすかな笑みを含み、じっと俺を見る。
愛情と錯覚しそうな柔和な表情。
俺は今、ふっと顔に出そうな未練を、虚勢で必死に塗り隠してる。
体の脇でこぶしを握り締める。
胸を上下させ、鼓動と呼吸が凪ぐのを待つ。
会話が続かず焦りを覚える。
取り乱してるところを安子に見られるのはプライドの危機だ。
後ろには千里がいる。
見なくてもわかる。性悪な後輩はきっと笑ってる。別れた女とばったり再会して、スーツの下でだらだら冷や汗かく俺を、こっそり嗤ってやがるにきまってる。
安子がおもむろに歩き出す。
「ズミっち、顔色悪いよ。また仕事頑張りすぎたの?昨日、残業だったもんね」
「知ってたのか」
「知ってるよ。同僚だもん。シュレッダーから出てきた千切り見て、すっごい声あげてたでしょ。ムンクの叫びみたいな顔して。傑作。みんな声殺して笑ってたよ。リアクション大きいから、実は面白いヤツだってバレバレ」
すれちがいざま、安子が俺に手に持っていたものを渡す。
「はい」
思わず受け取ってしまってから、目を丸くする。
「これ……」
戸惑いがちな俺の問いに、安子が小首を傾げる。
「パンダのストラップ。紐切れちゃって、パソコン横においてたの。……覚えてない?付き合いたてのころ、クレーンゲームでとってくれたの」
俺は馬鹿だ。
そんな大事なことも忘れていた。
昨日、安子の机の上にごちゃごちゃ並んだ小物が目に入った瞬間、気付くべきだったのだ。
パソコン横にちんまりお座りするパンダは、付き合い始めたばかりの頃クレーンゲームでとってやったもの。
あんまり欲しがるもんだから、大人げなく腕まくりして勝負に挑んだ。
「長い戦いだったね」
「二千円もむだにしちまった」
「ズミっちがんばれ、いけっ、そこだ!」と応援する安子。苦戦の末パンダを獲得すれば、俺の首ったまにかじり付き大喜びした。
「結構自信あったんだけどな、クレーンゲーム。新人の頃、外回りで時間余った時、よくやってたから。ちょっとブランク空くとだめだな」
「そんなことない、ズミっちかっこよかったよ。眼鏡の奥から真剣な目でにらんで、素早くコントローラー操って、プロっぽかった」
「クレーンゲームのプロなんて聞いたことねえよ。稼げるのか?」
どちらからともなく笑う。俺は苦笑、安子は微笑。
こんなふうに安子と話すのはひさしぶりだ。
別れを切り出されてからなんとなく避けていた。安子に近付かないよう迂回していた。
今も胸は痛い。
失恋の痛手を克服してない。
それでも意外と普通に話せるもんだ。
『駿河さんは久住さんのゴミ箱だったんですか』
『だってそうでしょ。不満や愚痴や弱音を吐いてすっきりするためだけにそばにおいてたのなら、それ、ゴミ箱がわりってことでしょ。一人の人間として扱ってない、女性として認めてない。駿河さんはわかってたんですよ、自分がゴミ箱だって。もっとちがう話もしたいのに、させてくれない。久住さんは口を開けば不満と愚痴ばかりで、駿河さんはずっと、大事な話を打ち明けるタイミングを逃してたんだ。久住さんはそれに全然気付かなかった、とうとう手遅れになるまで』
『最後に会話らしい会話をしたのはいつですか』
俺は今、本当に久しぶりに、安子と会話してる。
俺が望む会話と安子が望む会話が、初めてぴたりと一致した気がする。
あるいは手遅れになる前に、一方的な愚痴や不満こぼしじゃなく、付き合い始めた頃を懐かしむような会話ができていたら、別れずにすんだのかもしれない。
「……里子に出すね」
ひとしきり笑い終え、安子がちょんとパンダをつつく。
「ずっと机に飾ってたんだけど、このままずるずるおいとくのはだめかなって。返そう返そうって思ってたんだけど、タイミング逃がしまくって。今日、やっと決心ついたんだ。……それがね、変なの。今日きたら、その子ね、ちょっと汚れてぼろっちくなってるの。一年も机の上で眺めてたのに、今日、初めて気付いたんだ。だめだな、私。それで……」
パンダがぼろっちくなってたのは、昨日のごたごたのせいだ。
しかし、言えない。この状況で言えるもんか。
知らぬが仏の安子は急に真面目くさった顔をし、俺を見る。
「もらってくれる?」
俺にはもうわかっていた。
安子がすぐ振り向かなかったのは、パンダをいじくり物思いに耽ってたからだ。
感傷に浸った背中を思い出す。
怒ってもいいはずだ。
安子の言い分は理不尽だ。
俺が安子の喜ぶ顔見たさに二千円払ってとったパンダをしゃあしゃあ突き返し、もらってくれと勝手をぬかす。
何かを堪えるような笑顔で、泣き笑いに似た切ない表情で、哀願する。
「…………しかたねえな」
俺は甘い。
甘すぎる。
「ありがと」
真心こもった礼を述べ立ち去る安子。
鉄扉が閉じ、今度こそ千里とふたり、屋上に残される。
「……お前が呼んだのか、千里。元カノと引き合わせて、戦意を削ぐ作戦か」
「まさか。偶然ですよ。ぼくだって驚いてます」
全然そうは見えない。食えないヤツめ。
階段を下りる軽い足音に耳をすます。屋上から、俺の中から、安子が遠ざかっていく。
手の中に残された間抜けパンダのぬいぐるみを扱いに困って見下ろし、無造作に千里へ投げる。
「っと」
咄嗟に手を出し、受け取る。
「ナイスキャッチ」
熱のない口調で茶化せば、パンダを抱いた千里が奇妙な顔をする。
最前まで安子がたそがれていたフェンスに寄りかかり、給水塔やなんやかやで狭苦しい屋上を見渡す。
パンダをいじくりつつ隣にやってきた千里が言う。
「先輩。昨日、鞄忘れてきましたよね」
「ああ」
「どうやって帰ったんですか。財布と定期、あの中でしょ」
「缶コーヒー買った時の釣り銭が残ってたからそれで、な」
「そっか。よかった」
「よくねえよ」
「よくないですね。すいません」
今日の千里はやけに素直だ。
昨日の鬼畜ぶりが嘘のようで拍子抜けする。
車の走行音やらクラクションで騒々しい地上を眺め、フェンスに突っ伏し、唸る。
「…………腰が痛え」
「会社、休むかと思ってました」
「なんで休むんだよ。お前が休めよ。悪いことしてねーのに休む理由ねえよ」
「殴り足りないですか?」
「お前まだこりねーのかっ………!」
人をなめくさった挑発にカッとし、考えるより先に手が出る。
胸ぐら掴み、強引にこっちに向かせる。
拳を振り上げ殴りかかろうとして、落ち着き払った態度にたじろぐ。
「……なんで目、閉じるんだ」
「いくら僕だっていざ殴られるとなると怖いですから、心の準備です。さあどうぞ、気がすむまで殴ってください」
目を閉じ、顎を引く。観念したような潔さに、こっちが気圧される。
色素の薄い睫毛の下、ゆるやかな弧を描く瞼とすっきり整った鼻梁に心拍数がはねあがる。
昨日もこの距離で千里を見た。
器用にボタンをとめ襟を直す手、神妙な表情。息遣いが聞こえる距離で、千里に身を委ねた。
今。
正面に立つ千里の額には絆創膏がはられ、顔のあちこちに擦り傷ができていた。
「………………っ………」
自制心を総動員し、震える拳をひっこめる。
小刻みにわななく拳を体の脇におろし、顔を背けて吐き捨てる。
「殴ったって、一度あったこと、なかったことにできねーだろ!」
縛っていじくって机に押さえ込んで言葉でなぶって突っ込んで、ヤッてる最中はあんなに生き生きしてたのに今んなって謝られても困る。
昨日の事は絶対忘れられねえ。
死ぬまで忘れられねえ。
会社で後輩に犯された。
痛くて恥ずかしくて涙が出た。
みじめで最低で嗚咽が漏れた。
思い出す下劣な笑い顔『泣いて喘いで腰ふって楽しませてくださいよ、先輩』粘着な囁き『途中で喘ぎ声に変わっちゃうかもしれないけど。背に腹は変えられないでしょ?』脅迫『明日から皆がどんな目で久住さんを見るか楽しみです』写メのシャッター音『その変態にいじくられてぎんぎんに勃ちゃうなんて、よっぽど溜まってたんですね』あからさまな嘲笑『顔赤いけど、恥ずかしいんですか。目、潤んでます。写メ撮られて興奮してるとか?露出狂の素質ありますね。まんざらでもない顔、してるじゃないですか』……
胸の内が灼ける。
『久住さんの中、すごく狭い。食いちぎられそうだ。それにすごく熱くて、締まる』
千里。
『イきたい?イかせてほしい?』
殺してやる。
そう思った。そう誓った。
手が自由になったら真っ先に殴り倒してやると誓った、なのに今俺はぼけっと突っ立ったまま震える拳のやり場をなくして千里と向き合ってる。千里は逃げも隠れもせずそこにいる。俺の目の前に無抵抗に潔く身を晒し、罵倒も叱責を覚悟して、受け止めるつもりでいる。
あんなことしといて、なんで。
「………パソコンで殴るとか、栄養ドリンクの瓶で転ばせて事故死ねらうとか、いくらでも手があったろ」
俺が嫌いなら。
そこまで嫌いなら。
「俺が目障りなら回りくどい手使わずそう言やよかったんだ、直せるとこは直したさ、直せなくても努力はしたさ、頑張ったさ!俺が鈍感だから安子は愛想尽かした、でもそれならどこが悪いかはっきり言ってくれりゃよかったんだ、全部自分勝手に決めて一方的に言われたってどうしようもねえよ、どうしたらいいんだよ俺は、あがくのも許されないのかよ!?お前だってそうだ、不満があるなら口で言えよ、あんなのなしだふざけんな、俺は自分で気付くきっかけももらえないのか、後悔の苦味だけ口に残って反省のきっかけもらえないのかよ!?」
「違います」
「なにがだよ!?」
「誤解です」
「主語いえよ!!」
「馬鹿じゃないか」
千里が毅然と顔をあげ、挑むように見据える。
「好きだから、強引でも抱きたいと思ったんだ」
間合いに踏み込むや手首ごと掴まれ、必然千里の懐にとびこむ形となる。
頭が真っ白になる。
猛然と殴りかかったつもりが腰から砕け、待ちかねていたように抱き込まれる。
バランスを崩した俺を身を挺し庇う。
フェンスにぶつかった腕から振動が伝う。
「……根本的に誤解してます。嫌いな相手にあんなまわりくどい手使いますか、手っ取り早く追い詰めますよ。コツコツ準備して罠を仕掛けたのは、相手が先輩だからです。先輩だから……失敗できなかった。絶対、逃がしたくなかった。ふってわいたチャンスを物にしたかった。先輩を嫌ってるって?勘違いもいいところ。どうしてそうなるんですか。なんで僕が、先輩を嫌わなきゃいけないんですか」
「邪険にしたろ?」
「あの程度で根に持つとでも?先輩は言うこときついけど、ほんとは職場の誰より真面目で面倒見いいって知ってますよ。先輩は他人のために本気で怒れる人だ、自分に関係ない人間の苦労もちゃんと想像できる人だ。ミスしてへらへら笑ってる僕が気に入らなかった、ちゃんと怒ってくれた、縛られて転がされて不利な状況でも自分をごまかさなかった。ずっとそうだった、先輩は。僕が入った時からずっと嫌われ役を買って出て、誰も言いたがらないけど誰かは言わなきゃいけない事を言い続けてきた。みんな悪者になりたがらないのに、嫌われたくないから適当に調子合わせてたのに、先輩は……」
「俺みたいな平凡な顔の平凡な男のどこがいいんだよ!?」
「フェロモン垂れ流しですよ先輩は!」
どういうことだ?
俺が嫌いだから卑怯な手使ってはめたんじゃないのか証拠写真の弱み掴んで犯したんじゃないのか、好きって、え、恋とか恋とかの……
「お前は好きな相手にあんなことすんのか!?」
「体から始まる恋もあります」
「強姦から始まって訴訟で終わる恋か。ねえよ。犯罪だよ」
言葉が通じない。
一気に脱力しへたりこみかけ、千里に支えられる。
後輩に告白された。ちっとも嬉しかねえ。せめて可愛い女の子ならよかった。千里って名前で男なんざ反則。しかも順序が逆、強姦した相手に告白されてはいそうですかと交際始まるわけがない。
……今気付いたが、千里はものすごい馬鹿かもしれない。
「…………どうしていいかわからなかった」
途方に暮れた様子で千里が呟く。
「昨日言ったこと、本当です。何度も何度も想像の中で先輩を抱いた。いつも先輩を見てた。そのうち、想像だけじゃ足りなくなった。先輩は駿河さんと付き合ってて……ノーマルで。告白したって、避けられるだけだ。叱られるならいい。嫌われるならいい。でも、無視されるのはいやだ」
「俺の身になれ」
「想像力ないんです、僕」
だから惹かれたんです、と、小声で付け加える。
「思いやりもないんです。酷いヤツだって自分でも思います」
「心の隙間に付け込んだわけか。お望みどおり、一生のトラウマになったよ。最悪の夜だった」
フェンスによりかかり、高い空を見上げる。
「いいかげん離れろ」
抱き付いたままの千里をひっぺがす。
千里が洟を啜り、手に持ったパンダにぺこりと頭をさげる。
「すいません」
「パンダじゃなく俺に謝れ」
少し考え、パンダをくるりとこっちに向けるや、そろって頭を下げる。
「すいません」
「………やっぱぶん殴りてえ。パンダと一緒にゴメンナサイって、はたちすぎた男がかわいこぶってんじゃねえ」
確信した。千里万里は俺の神経をさかなでする天才だ。
苛立たしげに髪をかきあげる。
腹話術で身代わりパンダに詫びさせた千里が、俺の手首に目をやる。
「鬱血してる」
慌てて手をおろす。
「袖おろしてりゃばれねえよ。腕時計してるし」
「痛いですか」
「腰のが痛い」
我ながら身も蓋もねえ返し。
気まずい沈黙が落ちる。乾いたビル風が屋上を吹き抜ける。
あえて千里の方は見ず、フェンスに腕をのっけて聞く。
「後片付け、一人でやったのか」
「はい」
「資料も」
「八割できてましたから。そんなに大変じゃなかったですよ」
「お前、デキるな」
「先輩ほどじゃないです」
「おだてるな」
「ホントにそう思ってます」
「嘘吐け」
馴れ合いの漫才に失笑が漏れる。
俺は今、昨日俺を強姦した張本人と屋上で会話してる。
奇妙な絵だ。
警察沙汰になってもおかしくない事件があったばかりだってのに、屋上でふたりっきり、腹を割って話してみると、身の内に渦巻く憎悪がなだめられ、開き直りに似た諦観に取って代わられていくのがわかった。
俺が帰ったあと、書類や小物が散らばったオフィスに這い蹲って後始末する千里の姿を思い描いたら、急激に怒りが萎んでいった。
一枚一枚書類を拾い集め、ホチキスの芯をかき集め、倒れた椅子をおこし、ずれたパソコンを戻し。
見捨てられた孤独の中、清潔な明かりが照らすオフィスで、朝まで何時間もかけて自分の尻拭いする千里を思い描けば、ほんのちょっとだけ……あくまでほんのちょっとだけ、小指の爪の先くらいは許してやってもいい気がした。
甘かった。
「嘘じゃないです。先輩は僕の憧れですから」
甘かったのだ、俺は。
フェンスにもたれた千里がにっこり微笑む。
「キスしていいですか」
「断固拒否だ」
全然こりてねえ。
「ぬるい空気に便乗しようったってそうはいくか、ちょっとは許してやろうかなって気になった俺がばかだった。パンダとキスしてろ」
「でもこれ駿河さんのパンダですよ?間接キスだったらどうします?」
「なんで間接キスなんだよ」
「気付きませんでした?扉開けた時、彼女、パンダにキスしてましたよ。僕たちが来たのに気付いて慌てて隠したけど」
「え」
「駿河さん、まだちょっとは未練あるんじゃないですかね」
「……やっぱ返せ、それ」
千里の手からパンダをひったくろうとして、すかさず取り上げられる。
空振りした手に舌打ち、パンダを掲げてにやつく千里を睨みつける。
「性格悪いな、お前。痛感したけど」
「先輩ふって玉の輿デキ婚選んだ女性の事なんか忘れて、僕と愛欲の日々すごしましょうよ。絶対溜めさせたりしませんから」
肩にのるパンダを振り払うも、今度は頭にのっかる。……おちょくられてる。
フェンスに突っ伏しわなわな震える俺の頭といわず肩といわず腕といわずパンダを擦り付けくすぐりながら、耳元で囁く。
「断る。男とヤんのごめんだ。家に着くなりぶっ倒れてクリスタルスカル見る時間なかったんだぞ」
「今度一緒にシザー・ハンス見ます?」
「インディ・ジョーンズのが面白い」
「先輩からかってるほうが面白い」
「!!このっ、」
楽しげな笑いに血が上り、フェンスから跳ね起きると同時に拳を振るえば、携帯を突き出される。
「……………なっ……ん、これ……」
絶句。
「消してなかったのか!?」
激怒。
「消すわけないじゃないですか、大切な脅迫材料兼コレクションを。永久保存版なのに。ほら、これなんかよく撮れてるでしょ?先輩目え赤くしちゃって可愛いな、縛られて強がっちゃって」
「さっきまでのぬるい空気はなんだ!?殴り合い経て写メ消して、昨日の事ぜんぶ水に流して、これから先輩・後輩として健全な信頼築こうってなこっぱずかしい青春ドラマ的オチが待ってるんじゃ」
「やだなあ、加害者と被害者の間にそんなぬるい関係芽生えるわけないじゃないですか」
千里が屈託なく笑いながら言う。
目の前に突き付けられた液晶には、昨日千里が撮りまくった写メが表示されていた。
俺の恥ずかしい写真。
ばらまかれたら憤死する。
後ろ手縛られて転がって下半身脱がされた自分と直面し、理性が最後のひとかけらまで蒸発。
「おま、え、は……俺の事好きだとか無視してほしくねえとかありゃ全部同情買って気ィ引く嘘か、嘘だろ嘘って言え、ここまでえげつないことしといて片思いとかほざくな、雰囲気に流されてうっかり気ぃ許しかけた俺の立場ねえよ!?」
「脅迫から始める肉体関係もある」
「刃物で終わるよ!?」
携帯を奪おうと手をめちゃくちゃに振り乱すも空振り、軽快にステップ踏んで逃げる千里に怒鳴る。
「さっき言ったこと、本当です。何度も何度も想像の中で先輩を抱いた。いつも先輩を見てた。そのうち、想像だけじゃ足りなくなった。先輩は駿河さんと付き合ってて……ノーマルで。告白したって避けられるだけだ。叱られるならいい。嫌われるならいい。でも、無視されるのはいやだ」
そして、にっと笑う。
俺を押し倒した時の不敵な笑み。
ねじくれた愛情表現が真骨頂のサディストの笑い。
「一回抱いたら、もっともっと足らなくなった。もっともっと抱きたくなった。もっと睨んでほしい、怒ってほしい、しかってほしい。デキる男の上っ面かなぐり捨てて、かっこ悪く取り乱す先輩が見たい。かっこいい先輩はみんなにあげます。そのかわりかっこ悪い先輩を独り占めだ。今度から僕の下でだけ喘げばいい、泣けばいい、僕を愚痴と不満のゴミ箱にすればいい」
がむしゃらに突っ込んできた俺からひらり身をかわす千里の手からパンダのぬいぐるみが転げ落ち、地面ではずむ。
「僕は逃げない」
地面に落ちたぬいぐるみに注意を引かれた隙に乗じ、急接近。
唇が至近に迫る。
「ーっ、」
俺はデキる男だ。
とぎたてナイフのようにキレる男だ。
「そして、逃がさない」
背中に衝突したフェンスががしゃんと鳴る。
千里の腕から抜け出そうと必死にもがくも抱きしめる力は強く、昨日のごたごたでフレームが曲がった眼鏡がずりおちてくる。
千里万里。
俺はせいぜいナイフどまりだが、こいつのキレかたといったら、ダイアモンドなみだ。
眩しくて強引で、直視できねえ。
だから。
顔を背け気味にして、こう言うしかない。
「………眼鏡、弁償しろ」
低く唸る俺の正面、幸せの絶頂でとろけそうな笑みを湛える。
「ゼロセンチでお願いしてください」
距離をゼロにしようと遠慮なく唇が被さってくる。
久住宏澄二十五歳。もう平凡な会社員は名乗れない。
この日から俺の受難が始まったのだ。
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