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名を捨てた男が残した、レシピのお話(2/3)
「今のうちに野菜切っとくか」
カースの声にすかさず「はい」と真面目な返事がくる。
「玉ねぎは繊維に沿って切る」
まな板の上に置いた玉ねぎの上に、カースが指先で線を引いて見せた。
「あいつは、クタクタより歯応えがある方が好きみたいだからな」
さらりと主人の好みを告げられて、ロッソは内心驚いた。
主人の、玉ねぎの切り方についての好みなど、正直考えた事も無かった。
「じゃがいもは、こういう煮溶けにくい品種ならこんくらい」
カースは同じようにじゃがいもを指先で区切って見せる。
「気持ち小さめにな。あいつは、でかい芋の塊が苦手みたいだからな。でかいと、手元で崩して、汁につけてから食ってるよな」
言われて、確かに、ロッソも主人のそんな仕草を、宿の食堂や酒場で見たことがあったと気付く。
しかしそれを調理に反映させたことがあっただろうか。
ただ、そうやって食べる方なのだと思っただけだった。
どこか苦笑するようなカースの声に、ロッソがチラリとその横顔を盗み見る。
カースは、この場にいない金色の青年を見ているのか、森色の瞳が優しげに揺れていた。
「にんじんは、こういう煮込み料理なら皮は剥かなくてもいいんだが、あいつは剥いた方が好きなんで、剥いてから切ってやってくれ」
「はい」
またも把握していなかった主人の好みを添えられて、ロッソは何だか敗北感のようなものを感じながら、野菜を切り始めた。
小柄な従者は、カースよりもずっと長い間、あの金色の青年の隣に居たはずだった。
それこそ、任期中の十五年は、主人が起きてから寝るまでのほとんどをその傍で過ごしてきた。
その後は、ほんの一年足らず、後継の育成のため離れていた時期もあったが、それでもこの男が主人と再会してから過ごした時間に比べたら、途方もないほどの差があるはずだった。
それなのにこの男は、気付けばいつも、自分よりもあの方の心の近くにいて、あの方を理解している。
あの方の心の、一番深いところにいるのは、いつだって、この男だった。
じわり。と視界を滲ませたのは玉ねぎだということにして、ロッソはいつも通りの変わらぬ顔のまま、野菜を切り終える。
「んじゃ、肉に戻るな。鍋でざっと焼き色が付くまで炒めたら、皿に避けとけ」
指示通りにするロッソへ、カースは削ったバターが付いたナイフを渡す。
「そしたら、そのくらいバターを足して、玉ねぎから炒めろ。ここで火を通す必要はない」
「はい」
「全体に油が回ったら、じゃがいも、また油が行き渡ったら、にんじんだな」
ロッソは「はい」と返事をしながらも、この野菜達を入れるのに順番があるのだということに内心驚く。
根菜を先に、葉物は後からというのはあるが、この三つは同時に入れても良いものだと今までずっと思っていた。
「で、また全体に油が回ったら、水を入れて煮込む」
カースが汲んでおいた水の分量を告げつつ渡すと、ロッソがそれを跳ねないよう慎重に入れる。
カースがキッチンの端に紐で束ねて下げてある木の枝のようなものから、一枚葉をもいでくる。
「これを一枚な」
「これは、ローリエですね」
「ああ。庭に生えてるやつだ」
カースは、庭にいくつかの香草を植え、育てていた。
水が入った所まで見届けたカースは、ふうと息をついて椅子に腰を下ろした。
ロッソは立ったまま、ここまでの工程の詳細なメモを取っている。
「沸騰したら、肉を入れて、アクを取りつつ、あとは弱火で具が柔らかくなるまでだな。……アクはなるべく丁寧に取る方が、やっぱりうまいぜ」
カースは椅子の背にもたれて、疲れたのか手で目元を覆った姿勢のまま言った。
「はい」
カースは黙っていたが、あの日失われた空色の左目は、今もこうして、たまに痛んだ。
リンデルはすぐに気付いてしまったが、ロッソはまだ気付く様子がない。
知れば、この真面目な従者はおそらく真面目に責任を感じて、真面目に落ち込むのだろう。
カースは、痛みに顰めてしまいそうな眉を指の腹で擦りながら、細く長く、それを逃すために息を吐く。
しばらくすると、鍋からコトコトと小さく音がしてくる。
カースはその音と、ロッソが肉を入れ、真面目にアクをとっているのだろう音を聞きながら、痛みが遠のくのを待った。
「……今回は基本ってことで野菜はこの三種にしたが、あいつはとうもろこしやらブロッコリーやら入れても喜ぶな。冬になれば、カブに、かぼちゃに……、白菜と豚肉の薄切りで作ってもいいしな」
まだ今は夏の終わりで、日中はまだまだ暑い。
だが、これからだんだん寒くなってくれば、あいつの好きなシチューの季節だ。
きっと、にこにこ笑って、美味しい美味しいと言いながらおかわりを繰り返して、たくさん食べるんだろう。
金色の青年の笑顔が胸に浮かぶと、カースの口元は自然と弛む。
気付けば、痛みは薄れていた。
「粉は冷めたな」
言われて、ロッソが振り返る。
「これを、ザルで二回はふるっておく」
指示通りにしながらも、小柄な従者は、菓子やパン作りならともかく、シチューの調理前に小麦粉をそれだけで炒ったり、振るったりした事は無かった……。と自身の過去を振り返っていた。
「ほら、さっきよりサラサラになっただろ?」
カースの満足そうな声に、ロッソは手元で軽やかに舞う粉を見る。
色を濃くしてきた夕陽の中でキラキラと輝くその粉は、何だかとても特別で、貴重な物に見えた。
そこでようやく、ロッソは気付く。
こうやって、カースに料理を教わっている今こそが、とても特別で貴重な時間なのだと。
主人は料理を全くしない人だ。
こんな風に、男と並んで調理場に立った事も、きっと無いだろう。
そう思った途端、ロッソはよく分からない優越感で胸がいっぱいになった。
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