32 / 32
それぞれの覚悟(後編)
***
『こら、リンデル。やりすぎだ』
懐かしい声に窘められて、俺は動きを止めた。
俺の下では、ロッソが血の気の失せた顔をしていた。
確かにロッソを見ていたはずだったのに、俺はロッソの事が、何一つ見えていなかった。
「ごめん、ロッソ!」
慌てて、かけ過ぎていた体重を戻す。
ロッソの唇に、頬に、指先に、じわりと赤みが戻ってゆく姿に、心底安堵する。
「ありがとう、カース」
思わず口にしてしまってから、今のが幻聴だった事に気付いた。
だって、彼はもう居ない。
もう、どこにも……。
『そばに居てやるって、言っただろ?』
もう一度、胸に直接響くような声が、聞こえた。
あの人の声だ。
間違いなく、あの人の……、カースの、優しい、声……。
「……っ――、カース……」
溢れ出した涙は、大粒の雨のように、俺の下のロッソに降り注いだ。
ロッソは、痙攣を続ける身体で、それでも俺に小さく微笑んでくれた。
『待たせて悪かったな、これでも精一杯急いで来たんだ。あの世にも色々と手続きがあってな……まあ、詳しくは話せないが、お前達もそのうち分かるだろう』
あまりにも、いつもと変わらない様子でカースが話すから、俺は何だかおかしくて、泣きながら苦笑してしまう。
『声を届けるのは中々に力を使うな。普段は口を出さないようにしておくが、お前達の傍にいるからな』
「うんっ、分かった!」
よくは分からないけれど、カースには俺達に言葉を伝えるのが大変なんだな。とだけ理解して俺は慌てて答える。
カースに、死んでまで無理ばかりさせたくない。
いや、死んでまでなんていうのも、何だかおかしいけど。
部屋中どこを見回しても、カースの姿は影も形もなかった。
それでも、声が聞けただけで、傍に居ると言われただけで、喜びが胸に溢れて零れ出す。
「カース……ありがと……。ありがとう……」
ずっと我慢していた涙は、一度流れ出すと、もう止まらなかった。
泣き崩れる俺の下から、ロッソが這い出て、俺の服を整えたり涙や身体を拭いたりと甲斐甲斐しく世話をしてくれる。
俺は、それに甘えて、その晩はロッソに背を撫でられつつ、泣きながら眠った。
***
次の日も、空は晴れ渡っていて、良い天気だった。
目はたっぷり腫れていたし、頭も痛かったけど、俺はスッキリした気分でベッドを出た。
「カース、おはよ」
小さく声に出せば、カースが傍で笑ってくれた気がする。
隣のベッドで寝ていたロッソが慌てて起きだそうとしているのを、そっと額に口付けて布団に戻す。
「ロッソはゆっくりしてて、今まで心配かけてごめん。もう大丈夫だよ」
カースが帰ってきてくれたから。
それは口に出さずに、俺はロッソに微笑んだ。
何だか、あまりに信じられない出来事で、うっかり口に出してしまうと魔法が解けてしまいそうな気がしていた。
ロッソは俺の顔を見てから、安心したように小さく目を細めて「はい」とだけ答えた。
ロッソは俺より十一歳年上だから、やっぱり俺より先に死んでしまうかも知れないな……。
そう思いながら、俺はロッソの髪を撫でる。
俺をいつも支えてくれる、大切な人。
どうか、一日でも長く、俺の傍にいてもらえますように……。
……なんて、贅沢かな。
俺には、カースも居てくれるのに。
胸がじんと温かくなって、俺は思わず口元を緩ませる。
「主人様……?」
尋ねるロッソも、どこか幸福に微睡むような表情をしている。
昨日まで、心配そうな顔ばかりさせてしまっていたから、こんな安らいだ顔は久しぶりだな。
まあ、ロッソを知らない人から見れば、あんまりいつもと変わらないかも知れないけど。
俺はそんな風に考えながら、小柄な従者に微笑んだ。
「ん。幸せだなぁって、思っただけだよ」
そう答えながら俺は、この従者を見送る時への覚悟を、そっと胸の内に固めた。
ともだちにシェアしよう!