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musica
しがない楽器店のアルバイトである小淵が、あることに気付いたのは、バイトを始めてから一週間経ったころのことだった。
駅前でも郊外でもない微妙な立地のそこは、珍しい楽器を置いてあるわけでもなく、何種類かのギター、アンプなどバンド用品を中心とした品ぞろえの、よくある楽器店だった。しかし、毎日のように現れる顔がある。
壁に掛けられた時計がひとつ鳴り、ふとショーウインドウの硝子を見る。
どこにでもいそうな少年が店の外に立っていた。一定の距離から店内を、正確には飾られた教本を眺めている。
「あ…」
思わず声に出してから、慌てて口を抑えた。鼻まで覆ってしまった手に、店内の音が漏れるわけがないという事実を思いだす。バックミュージックの方がうるさいぐらいで、むしろ、こんな行動をとった方がおかしいだろう。
しかし、少年は彼を気にすることなく、ただじっと店内を見ていた。身じろぎもせずに、ただ何もないはずの教本が並べられた棚を見る。補助教材も一緒に飾られたそこには、楽器のように高くて買えないというようなレベルの金額は一切ない。それに、眺める彼の表情は、物欲しそうというよりは、どこか切なそうだった。
客、ではないのだろうか。
楽器とは違って、眺めても面白いものはないだろうに。
「すみません。このお店って、ボイトレもしてるんですか」
並べられた楽器を眺めていた友達連れの客が声をかけてくる。興味津々といった輝く眼は、ボイストレーニングと書かれた看板に向けられていた。
「はい。当店では、店長がもともと音楽教室で教えていた人だったので、そういった講座があるんですよ」
よかったらいかがですか。営業スマイルを浮かべて、彼女らに講座の詳細が書かれたチラシを提示する。ふと、何気なくショーウインドウへ目を向けて、瞠目した。
今までただ眺めていただけの彼が、泣きそうに顔を歪めて小さく呟いたのだ。そして、一瞬目を見開いてどこか遠くを眺めるような、諦めたような表情になった。
どこに泣く要素があったんだ。涙を流していないのに、そんなふうに思った。いつのまに彼を凝視していたのか、接客をしていた客から声をかけられ、我に返る。
彼女らに案内をし終えたあと、ショーウインドウに彼の姿はなかった。
今日も立っている。月ごとに陳列が変わるショーウィンドウの向こう側。教本のあたりをただ眺めている、どこにでもいる少年。昨日の泣きそうな顔が脳裏を過る。彼の至って普通の表情の上に被さるように思い出された。
ちりん。涼しげな音が響き、自動扉が外の空気を吸い込む。からりと乾いた風。
「なぁ、見ていかないのか?」
その瞬間、彼の身体が大袈裟なほどに飛び上がった。柔らかそうな髪の間から覗く目が大きく見開かれ、口がぱくぱくと金魚のように開閉する。そこから声が漏れだすことなく、思わず寄ってしまった小淵の眉間に少年の肩が跳ねた。
「いや、毎日見に来てるから…」
慌てて弁解するように営業スマイルを浮かべて、理由を述べる。しかし、少年は、その声を聞いて、トマトのように顔どころか首まで真っ赤にさせた。え、と知らず知らず声が漏れる。はっと顔を歪ませて、彼は素早く頭を下げたかと思えば、足を翻した。
小さな背中がつむじ風を起こして去っていく様を茫然と見届ける。昨日以上の衝撃。取り残された小淵は、目を白黒させぽつりとぼやいた。
「俺、なんかしたかな…」
冷たさを滲ませる風が足元を通り抜ける。少年の背は、人ごみに紛れてもう見えなかった。
◆
『珍しいね、悟志の顔見て逃げ出すなんて』
珍しいなんてもんじゃねぇよ。電話の向こうへ向けられた声に拗ねた調子が見られ、さらに臍を曲げる。あの出来事から三日。その間に少年は店自体には来るものの、小淵と目があうたびに逃げ出していた。
『でも、なにかしたわけじゃないんでしょ?』
「当然だろ。顔は見てるかもしんないけど、話したことなかったぞ」
友人へ文句というか愚痴を呟くたびに、大切な客だったかもしれない人物を取り逃したことへの後悔の念が噴き上がる。店長である叔母は、売上に手厳しいのだ。連想につられたのか、少年の泣きそうな表情も浮かんでくる。擦り切れてしまうのではと思うほど繰り返される記憶。どんな理由で彼はあんな顔をしたのだろうか。
『だったら、悟志が悪いんじゃなくて、向こうが何かあったんじゃないかな』
「何かって、なんだよ」
ふいに浮んだのは、万引きという単語だったが、不思議と彼は違うと思った。僕にわかるわけないと友人が苦笑する。
『というよりね』
悶々と彼が逃げ出す理由を考えていた小淵の耳を、友人の真面目な声音が叩く。
『僕は、なんで小淵がそんなことされても関わろうするのかなって方が気になるな』
はぁ、と情けない声が口から洩れる。友人が言いたいことは、わかる。小淵は、それなりに人間関係をうまく築いてきたタイプだ。顔立ちも、モデルとまではいかないが、それなりに整ってもいる。そうなれば、彼の周りに人が集まるのは当然で、来る者拒まず去る者追わずのスタイルが自然と出来上がっていた。
普通の人間なら、あんな態度とられて苛立たないはずがない。それを指摘され、はたと気づく。
確かに彼女の売上貢献は、小淵に課された命題だ。しかし、それだけで避け続ける相手を追うだろうか。客なら、他にもいるのだ。
ふと、フラッシュバックする、泣きそうな顔。大きくもない目に薄く水の膜が張り、こぼれそうで落ちずに消える。きつく結ばれた唇が歪んで、ただある場所を見詰めている。そんな表情。
すとん、と何かが落ちてきた。つっかえがとれたような、霧が晴れたような感覚。
「……多分さ」
『うん』
「あの子が笑うのを見てみたいんだよ」
泣きそうな顔と何かを切望する顔。そのどちらかしか見たことがない、不思議な存在。だからこそ、惹かれたのだ。どうして泣いているんだろう。どうしていつも見ているんだろう。どうして君はそこに立っているんだ。そんな気持が溢れてくる。それと同時に、きっと笑ったらかわいいんじゃないか、そんな期待があるのだ。だから、他の表情を見てみたいと思う。
『そっか』
自身でもおかしなほど簡単に出た結論。嫌われているかもしれないのに、逃げられたことで余計に火がついたのだろうか。
『優しく話しかけてみたら? 毎日来ることは来るんだろ。悟志のことが怖いなら、その恐怖を取り除いてやればいいんだからさ』
「おう。そうする」
愚痴と相談に付き合ってくれた遠方の友人に、お礼を告げれば、くすくすと笑われる。いつでも頼ってくれていいからね、そんな優しい言葉をかけられ、電話は切れた。
「よし」
端末をポケットに押し込みながら、声を出す。気合を入れて、クローゼットに押し込んだ服に手を出した。
来た。店内に客の姿がないことを確認して、店の掃除のために出てきたという理由のために箒を持ち出す。素知らぬ顔で扉をくぐった。
一瞬、身体を縮めた彼は、それでもその場から動かない。視線を向けずに彼の動きを追えば、店内へ視線を向けているものの、明らかにこちらを意識していることに気付いた。逃げられるかもしれない。試しにほんの少し近づいてみる。しかし、予想に反して、少年は地面に縫い付けられたように棒立ちとなっていた。
それに気をよくした小淵は、にじり寄るように少しずつ彼へ近づいた。あくまでも、掃除のためであるという体裁をとりながら。
少年まで、あと三十センチほど。これ以上進めば、相手のパーソナリティスペースに入ることになる。一旦、忙しなく動いていた手を止めた。
「この前は、ごめん」
少年が弾かれたようにこちらを見た。もう、逃げないかな。探りつつ、彼へ視線を向ける。動揺しています、と顔に書いてあるような、情けない表情。八の字となった眉が、なんだかかわいらしくて、噴出しそうになった。
それを見て、さらに垂れ下がる眉。それでも、何かに気付いたらしい彼は、慌てたようにポケットから白い紙を取り出した。折りたたまれたそれを広げて、小淵へ突きつける。
『この間は、貴方の顔を見てあんな失礼な態度をとってしまいすみませんでした。憧れていた方だったので、動揺してしまったんです』
すんなり読める、綺麗に整えられた文字。達筆すぎて読めないなんてことはなく、止め跳ねをしっかり書き、適切な大きさの文字がすっきりした形で並べられている。
「憧れ…?」
そう言えば、思いっきり首を振る少年。あまりに必死な姿に、どこか違和感を覚える。
小淵のそんな表情を見たからか、彼は別のポケットからスケッチブックとペンを取り出し、さらさらと何かを書きつけた。
『貴方のバンドが作られた曲を知ってます。そのファンなんです』
再び見せられた文字に納得する。使い込まれたスケッチブックとペン、そして並べられた文字。直接書かれたバンドの話よりも、その事実の方がよほど衝撃的だった。
「……君、声が」
『先に言うのを忘れてました。僕は、声が出ません。すみませんが、筆談になります』
単純な、ただの事実だけが記された一枚の白いページ。それを提示する彼は、どこか淋しげに微笑んでいた。
彼は、竹内蓮と名乗った。ふわふわと波打つ茶色い髪に、墨を流し込んだような目を持つ、どこにでもいそうな雰囲気の少年。そして、最初の印象とは打って変わって彼はよく話しよく笑った。ただ、そこに声というものがないだけで、普通の少年だった。
「なぁに、にやにやしてんだッ」
「だっ」
じんじんと熱を持つ後頭部を抑えつつ後ろを振り返れば、妙齢の女性の険しい顔と目が合う。無言で作業を促され、自然と止まっていた手を適当に動かした。補充されていなかった教本や手入れするための用品を置きながら、埃を掃う。さささ、と普段以上に素早い動きで片付けてみせた。
「よろしい」
満足そうににっこりと微笑む女性。シンプルなエプロンの胸元には小淵楽器店と刺繍があり、その下に店長、さつきという手書きの文字が踊っていた。紙一杯に書かれた大きく太い文字は乱杭歯のように波打ち、彼と比べるべくもなく、かなり手荒な印象を与える文字である。
「……悟志。最近、よくあたしが書く字を見てるけどどうしたんだい?」
何か察するものでもあったのか、小淵の視線を追った彼女が不思議そうに首を傾げる。乱雑にまとめられた髪や色気もへったくれもない服と言動。文字は人柄を現わすのだろうか。
「友達の文字がすごくきれいなんですよ」
踊っているような文字を見ながら、思わず笑みを零す。必然的に字を見る機会が増えたために気付いたことだ。叔母と会話しているというのに、どこか彼につながっているようで、頬が緩む。
「ほう、それであたしの字は金釘流って言いたいわけだね」
眇められた目と眉間に深く刻まれた皺が、小淵を睨みつける。失言だったか。彼女の逆鱗に触れればどうなるかよく知っている彼は、さりげなく話題をすり替えようと目についた看板のことを口に出した。
「でも、ほら。さつきさんは、ボイトレできるくらい声が綺麗だからいいんですよ」
その美声で優良物件として近所で有名だった男性を射止めてすらいる。
「ばか。声の出し方、発音の仕方さえ知ってれば、だいたい綺麗な声って言われるんだよ」
そもそもボイトレってのはなぁ、と始まった講釈。しかし、小淵の耳が拾ったのは、小さな物音だった。
ショーウインドウの向こう側。いつも通りの笑顔で彼は立っていた。
「竹内!」
今いくから。外に届くほどの大きさではなかったが、唇の動きから言葉を読めたらしい竹内が頷く。それを見た小淵は、目の前の叔母に会釈して彼の元へ小走りに近寄った。
『こんにちは、小淵さん。今、お時間大丈夫ですか』
へにゃんと八の字に下がった眉に、店長でもある彼女と会話している様子を見ていたのだろうと予測がつく。腕時計を見やれば、そろそろ休憩に入る時間帯。休憩間近で気がそぞろになっている小淵の尻を叩きに来ただけだろうと都合のいいように解釈して、大きく頷いた。
それを見た竹内が店内の店長に向けて会釈する。甥が唐突に飛び出していったせいか、目を見開いていた彼女は、それに対して素早く笑顔を浮かべた。そして、小淵へ向けて意味ありげに一瞥すると、店内の奥へ戻っていく。
ひとまず、休憩は認められたらしい。業務を中途半端に放り出さずに終わらせたことが評価されたのだろう。
彼女の背中を見送り、小淵は目の前の少年に向き直る。休憩時間は五分から十分しかない。それに対して話したいことはたくさんあるのだ。
「--と、そうだ。昨日、部屋の掃除したらさ、これ出てきたんだ」
見つけてすぐにポケットに忍ばせておいた薄いプラスチックケースを取り出す。小首を傾げた彼の掌が受け取り、しげしげと上下左右を見るが、どこから見ても何も印刷されていないディスクでしかない。竹内の首がさらに角度を大きくして、身長差のせいで見上げるようになった眼がクエスチョンマークを示した。
どこか幼気な仕草に、思わず噴出す。そうすれば、今度は眉をつりあげ頬を赤くして睨んできた。声が出ないせいなのか、彼はすごく表情豊かだ。ただ笑うにしてもいろんな笑顔を見せる。なんで笑うのと言いたげな視線に、かわいいからだよなんて言いそうになって、ぽふぽふと頭を撫でた。
『子供扱いしないでください。これでも、同年代ですよ』
さらさらと現れた、綺麗に整えられた文字。相変わらずの速記と読みやすいそれに、やっぱりこいつの字って綺麗だよなと一人ごちる。
「それさ、俺が昔作った曲が入ってるやつ」
竹内の手に収まっているプラスチックケースをとんとんと指で叩く。
竹内と初めて会ったときに「思わず逃げ出した」理由として挙げられたバンド。小淵は、すでにその活動を行っていない。一年前に、ふとしたきっかけで疎遠となってしまったのだ。それまでは、結構精力的に活動をしていたので、そのときの活動の際に聞いていたのだろう。
あのときから随分経ったのに、知っているうえに好きだったと言われれば嬉しいものだ。
「好きだって言ってくれて嬉しかったんだ。お礼みたいなもの」
竹内は、手渡されたディスクを凝視したまま目を丸くしていた。小淵が渡した理由を言えば、彼とディスクとを何度も見比べては口を開閉する。ふと何かに気付いた様子で、今度はポケットから携帯を取り出した。
『いいんですか?』
素早い動きで入力された文字は、どこでも見かけるゴシック体そのものだが、どこか踊っているように見える。竹内は、端末の向こうで目を輝かせ頬を染めて、小淵の答えを待っていた。こちらに向けられた犬の耳とぶんぶん振り回される尻尾。そんな幻覚に頬が緩んだ。
「もちろん」
竹内のために見つけてきたようなものだから。それを付け足すことはせず、ただ彼の頭を撫でる。竹内は、その手に気持ちよさそうに目を細め、ディスクをしっかり握りしめた。
視線が、小淵を捉える。ほんのりと色づいた頬の下、小さな口が動いた。
『ありがとう』
そこから音が出ることはなかったが、はっきりとした意味を含んでいた。正確に伝わったらしく小淵の眼が丸くなり、竹内はにっこり微笑んだ。
◆
その後は、軽く雑談をして解散となった。竹内と小淵は、意外と音楽の趣味があう。好きなバンドやジャンルの新曲を教えあったり、音楽番組について話したり、ネット上のアマチュア制作の曲など、幅は広かった。それほど話すことがあれば、十分休憩などあっという間で、毎日話したりないなぁと思いながら別れている。
「おかえり」
普段ならレジカウンターの奥で待っている叔母が、店の入口で待っていた。掃除道具を手早く片付け、レジの奥、スタッフルームを顎で示す。
なんだろう。店をもう一人の店員に任せて、さっさと引っ込んでしまった彼女の背を見ながら首を傾げた。
長机が二つ、パイプ椅子が四つ。その奥のパソコンと回転椅子にどっかりと座って彼女は、そのどれかに座るように促した。入口に近い方の椅子を引き、彼女が口を開くのを待つ。
見れば、彼女は指先で店舗のマスコット人形を転がしていた。
「あの子と知りあいなのかい?」
ころり、ころころと指に弾かれる指人形。それを見ながら、知り合った経緯を伝える。不審な声色が強かったのだろう、彼女はひとつ苦笑して、言葉を続けた。
「……いや。別にたいしたことじゃないんだ。あの子…蓮のことはよく知ってるからさ」
器用に落とさずに回転させながら、小淵を見やる。観察するような視線に自然と背筋が伸びた。
「おばさ…さつきさんこそ、竹内と知り合いだったんですか」
思わず言いかけた言葉を飲み込んで、知らなかった彼の事を尋ねる。彼女の返答は、至極軽いものだった。
「もちろん。だって、あたしの初めての生徒があの子だからね」
「へぇ…え…ッ」
聞き流しかけて声が上擦った。歌にもプレゼンにもいいとして一種ブームとなっているボイストレーニングを、彼も受けていたとは。それも、叔母の教室を利用している。そんなことを夢にも思うはずがない。
叔母は、驚きを隠せない甥を見てチェシャ猫のように笑った。
「すごく楽しそうに歌う子だったよ」
特別上手だったわけでも、とても綺麗な声だったわけでもない。もちろん、練習したところで歌手になれる逸材でもなかった。ただ、歌うという行為が好きだと全身で語っていた。それこそ、生きる目的と言えるほどに。
「だからさ、歌う事をやめたって聞いたときはびっくりしたねぇ」
気持はわかるよ、あれだけ努力してあんな声じゃねぇ。そう続けて、深い溜息。
声。その一言に引っ掛かりを覚える。彼は、声を出せないのではないだろうか。白いページに並んだ綺麗な文字が思い浮かぶ。それとともに、彼のじっと耐えるような顔が過った。
ふと、伏せられていた目が小淵を捉えた。
「あんた、どうして驚いてるのさ。知ってたことじゃないのかい」
知っていたのは、彼が「話せない」ことだけだ。そう言いたいのに、言葉は出てこなかった。
小淵楽器店と書かれた看板を背にして、人気の少ない路地を歩く。駅前でも郊外でもない微妙な立地ゆえに、人の姿はまばらだった。
ふと、見覚えのある色が過る。視界の隅に引っ掛かったそれを追いかけて振り返った。
「竹内」
反対側へ通り過ぎようとしていた足が立ち止まる。たん、と軽い音で彼が振り返った。平凡な顔立ちが、ただ茫然とそこにある。しかし、声をかけたのが小淵だと分かれば、途端に表情が笑み崩れた。ふわふわと柔かな茶髪が揺れて、小走りに駆けてくる。
軽く会釈をして、彼はいつも通り、斜め掛けバッグを探り出した。そこから出てくるのは、スケッチブックだろうか。今日は暗いから携帯端末かもしれない。
「なぁ、竹内」
ぼと、と声が落ちた気がした。手を止めて、こちらを見上げてくる茶色い虹彩。眉を顰めて注視してくるそれは、不安げに揺れている。
「ごめんな」
そう言えば、今度ははっきりと首を傾げた。普段、何げない会話しかしてこなかった相手に謝られる理由を見つけられない。そんな表情をしていた。
「たぶん、竹内が一番知られたくないことを知ってる」
零れ落ちそうなほどに大きく見開かれる。蛍光灯の光が反射して、黒目が小さく見えた。ぼんやりした明かりの下だからか、肌がより白くなったようだ。
唾を飲み込む音が嫌に耳についた。
「本当に、ごめん」
歌うことが好きだという彼。憧れのバンドだったという彼。声を出そうとしなかった彼。最初は、なんで話してくれなかったんだと思った。ぐるぐると渦巻く中で見つけたのは、彼が憧れだと言ってくれた言葉。声をかけたときに逃げ出した本当の理由。
コンプレックス。それを、晒したくなかった。
どう頑張っても足掻いても、声帯がない音は、やはり歌うことに制限を齎す。彼にとって、取り戻したものは、「声」ではなかったのだ。歌うために必要なものすべてをそぎ落としてしまった人工的な「音」。
他人に見せようだなんて思うだろうか。ましてや、憧れを持っていたという相手に。
「謝る、必要は、ないです」
聞こえてきたのは、雑多なノイズが入り混じった嗄れた言葉。不明瞭な発音で短く区切られた、不自然な声だった。
目の前には、喉に手を当てて淋しそうに微笑む竹内。小淵と目が合うと、彼の笑みが一層深くなった。指先が、喉を覆う布にかかる。する、と引き下げられたそこには、小さな穴が開いていた。
シャント発声法の手術痕。声帯を失った人間が声を取り戻す方法の中で一番「元の声」に近い発声が出来る。ただ、その効果は人それぞれ。どれだけ努力しても、掠れと不明瞭さと長く話せないことは変わらなかった。
僕の、我儘ですから。だから、謝る必要はないのだ、と掠れた声が、小さく落ちる。いつかは知られると覚悟していたのだろう。その笑顔は、諦念が入り混じっていた。
伏せられていた目が、ふとこちらを捉える。茶色の虹彩に蛍光灯が反射して、目が光を発したようだった。再び首元に手が添えられて、喉が動く。
「……むしろ、怒らないんですか?」
秘密にしていたこと。雑音混じりの男声が、不自然に揺れる。震えたような声音は、まっすぐこちらに向けられる眼にも込められているようだった。
小淵は、思いもよらない反応に、瞠目する。
わりと何でも話し合えるようになった、そんな間柄で、それなりに大きな嘘をつく。確かに、知ったときは寂しさを感じた。しかし、それは、仕方ないことであり、なによりもまず、彼がどんな気持ちで嘘をついたのだろうと思考は塗りつぶされていた。小淵に知られた、それを知ったとしたら彼はどうするだろう。離れて行ってしまうのか。声を出せない彼のことばかりを考えていた。
「考えたこともなかった、な」
不思議そうに首を傾げた彼の眼を見ながら、正直に告げる。途端に、胡乱気な表情となる竹内。やはり、声がなくても彼は表情豊かだ。あの声も、努力した結果なのだから、本人にとってはよくないだろうが、小淵は気にならない。
ああ、そうだ。そこで思いだす。友人と電話したときに、拒絶されたにも関わらず追いかけようとしていた理由を、「惹かれた」と答えていた。
自然と頬が緩む。なんだ、そうだったのか。そんな言葉が漏れていた。
一人で呟いていた小淵に注がれる一対の視線。眇められたそれは、戸惑いばかりが見えている。
「俺、竹内のこと好きだわ」
ぽろりと零れた言葉に、大きく見開く眼と口。それこそ、鳩が豆鉄砲を食らった様を体現している。小淵は、あまりに予想通りの反応に、思わず噴出してしまった。抗議するように口を開閉する竹内。しかし音が出ておらず、彼は顔をしかめて先ほど出し損ねたスケッチブックとペンを取り出した。いつものように腕を支えにペンが走り出す。
小淵は、どこか雰囲気が変わった彼の言葉を覗きこんだ。
『ボクは、あなたをだましてたんだ。それに、声が汚い。それなのに』
甲高い音をたてながら綴られていく文字。上下に揺れて、それぞれの大きさもバラバラのまま、普段なら書くだろう漢字すら省略して強く色を残していく。
「竹内」
連続して響いていた音が止んだ。書くために落とされた視線の先、ペン先が潰れつつあるサインペンを取り上げる。指先の力が緩んでいたらしく、すんなり手の中へ転がってきた。読みやすいとは言い難い、乱雑な文字が並べられていく。
『おれは、気にしてない。それに、竹内の声は、汚くない』
綺麗、とはさすがに書けずに、ペンを置く。丸まった黒の筆先が上を向いて、ころころと転がって、竹内の指に当たって止まった。
「だから、好きだよ」
ふわふわとした前髪に隠された表情は、どんな色を湛えているだろう。ふと、指が動いてペンを掴んだ。今度は、少しだけ震えた文字。整えられているけれど、その線が細い。
『あなたはバカだ』
「ええ、そこで?」
『だって、そんな言い方、男相手にしません』
あ、と息をのむ。
「恋愛感情だって、気付いたんだ?」
普通なら、そんな可能性を思いもしない。普通なら。それを指摘した彼は、未だに顔を見せてくれなかった。
蛍光灯に映し出された細めの指が、ペンを弄ぶ。くるり。慣れた動作でペンが回された。くるりくるり。ゆるゆると何度も回転する、飾り気のないサインペン。
蛍光灯の光を反射したせいか、ペンが一瞬だけ光ったような気がした。
ペン先が、白いページに置かれる。
『だって、僕も同じだから』
残された白い面積に大きく書かれた、いつもの整列した文字列。止め跳ねがしっかりされた、読みやすいそれ。
文字から視線を外せば、いつのまにか顔をあげていた竹内と目が合う。黒い目の中に、間抜けな顔の小淵が映しだされていた。
ふ、と笑う彼。どこか吹っ切れたような、穏かな微笑。先ほどの悲しそうな顔とは全く違った表情をしていた。胸の内をふつふつと暖かな何かが湧き出てくる。気付けば、彼の目の中の小淵も同じような微笑を浮かべていた。
近くにあったコンビニで買ったお茶のペットボトルを渡して、隣へ座る。公園に設置された錆びた馬が、青年の体重に抗議の声をあげた。一口飲んだところで、肩を叩かれる。
『僕が気持ち悪いとか言って拒絶するとは思わなかったんですか』
街灯の下で手渡されたのは、スケッチブックの白いページとボールペン。小淵は、無言で受け取って、そこに新たな文字を書き加えた。
『思いつかなかった。なんでだろ』
返されたページを見て、顔を顰める彼。手にしていたサインペンの蓋を取り、さらさらと何かを付け足した。
『一歩間違ったら、変態扱いですよ』
少々辛辣な忠告。ボールペンをノックしてその下にさらに加えて返した。
『たぶんさ、竹内ならそんなこと言わないと思ったんだ』
『過大評価です!』
すぐさま返ってくる返事は、普段よりも大きな文字だった。くす、と笑みが零れる。視線を感じて、隣を見れば眇めた目と眉間に深く刻まれた皺。
『オレ、これでも工学部なんだ』
唐突に刻まれた言葉に、首を傾げる竹内。いきなりどうしたんだと言いたげな視線に微笑んでみせ、小淵は下に一つの約束を書いた。
『いつか、竹内が歌えるようなノド、作るよ』
白いページの文字を眺めていた彼が、弾かれたようにこちらを見る。今日、何度目だろうか。その目は零れ落ちそうなほど見開かれていた。
「歌いたいって気持、捨てなくたっていいんじゃない?」
黒目を薄い膜が覆う。波打ったそれは、街灯の明かりを跳ね返して、膨れ上がった。
「だから、それまで、できればそれからも一緒にいてくれないか」
まろやかな頬を決壊した涙が零れ落ちていく。それから、彼は崩れるように微笑んだ。
fin
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