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猫の嫁取り

 そのニュースを、僕は卓弘と過ごしているときに見つけた。  スマートフォンの画面から卓弘に目を移すと、卓弘はフローリングの床にペタリと座り込んで、ぼんやりとベランダの向こうをながめている。  やわらかそうなこげ茶のクセ毛と、まぶしそうに細められた目。ちょっと笑っているように見える口角と、細い顎。そこから伸びる首は長くて、肩幅は広いけど身幅は薄くて。  鹿野卓弘はモデルみたいな、そして猫みたいな青年だ。  そして僕はどちらかというと筋肉質で。だけど卓弘よりもすこし背が低くて、髪は黒くてまっすぐで、頬のあたりはまるみがあって、年よりも下に見られる。  僕こと水沢幸助は、ヤンチャという言葉が当てはまる、卓弘いわく犬みたいな男らしい。  視線を追うと、いまにも降りだしそうな、ぶ厚く重たい灰色の雲が広がっていた。開いている窓からは、生ぬるいよりすこし暑い湿った空気が室内に入り込んで居座っている。  なにもしていなくても、勝手に薄い膜みたいな汗が毛穴からにじみ出る梅雨の、よくある天気と空気だった。けれど僕にとっては、衝撃的な日になった。 『ドイツで同性婚が合法化されました』  ピコリンと画面の上部に表示されたニュース情報。それは僕にとって、うれしくてうらやましいものだった。――卓弘はどうだろう。これを知ったら、どんな反応をするのかな。  友達として3年。  恋人として5年。  ざっくり計算すれば、そのくらい一緒にいて、傍にいることが当たり前になっている。結婚なんてどうせ無理だからと、僕は卓弘に冗談でも「結婚」という単語を向けたことがない。卓弘も冗談めかしてすら言ったことがない。  この国は、そういうものに厳しい国だから。  だからちょっと、いや……わりと本気で、ドイツに移住したいなって思ってしまった。  このニュースを見せたら、卓弘はどんな反応をするだろう。  うらやましがる?  興味がなさそうにする?  俺たちもしようかって言う?  そのどれもがありそうで、聞きたいけれど聞くのが怖い。 「なあ、卓弘」 「ん~?」  気だるそうに卓弘が返事をする。目は空を見たままだ。 「なんか、飲む?」  そのために僕はキッチンに来たのだった。そして冷蔵庫を開ける前に、あのニュースが配信された。  ニュースと、それを知った卓弘の反応はどうなるかなと考えながら、当初の予定通りの言葉をかけた僕に、卓弘は頭をゆらゆら動かした。どうしようかなと考えているときの仕草だ。 「水」 「なんだ、それ」 「じゃあ、なんでもいい」 「わかった」  とりあえず喉の渇きがなくなればいいという注文に応えるために、グラスに冷えた麦茶を注ぐ。自分の分をまず飲んで、おなじグラスに麦茶を足して卓弘に持っていく。こうしたら洗うのはひとつで済むだろうって、前に卓弘に言われてからそうしている。卓弘はけっこうな面倒くさがりだ。 「ほい」 「ん」  グラスを差し出すと、卓弘は首を伸ばして目を閉じて、口を半開きにした。 「流し込んだら、むせるんじゃね?」 「むせないように飲ませろよ」  ニヤリとしながら薄目を開けた卓弘に、ドキリとする。 「しかたねぇなぁ」  あきれてみせても顔が熱いから、僕の心は卓弘にモロバレしてる。  麦茶を口に含んで、そっと卓弘の薄い唇に僕の唇を押しつけて、流し込んだ。 「ん……んんっ、んぅうっ?!」  ぜんぶ飲ませたら後頭部をわしづかまれた。かと思うと卓弘の舌が僕の口内に入り込んで、好き勝手に暴れはじめる。  口内を蹂躙されながら、グラスを落としちゃいけないとがんばる僕を、卓弘は愉快そうに目を光らせて観察している。  その目はズルいと思いつつ、卓弘の舌に応えながら膝をついて顔の高さを近くした。 「ふっ……んっ、ん……んぅっ、う……はぁ、んっ」  僕から水分を奪いたがっているんじゃないか。  そう思うくらい卓弘のキスは執拗で、深くて、激しくて。湿度と気温とは違う熱が、僕に汗をかかせる。 「んっ、たくひ……っふ」  もうそろそろやめてくれと、言いたいのに言えないのは卓弘が唇を開放してくれないからじゃなくて、本心ではキスをやめたくないからだ。だけど、やめてほしいフリはする。そういう僕を卓弘は見透かしていて、いたずらっぽく目の奥を光らせると、Tシャツの中に手を入れてきた。 「んっ、ぁ……卓弘……っ、う、ん」  飲みきれなかった唾液が口の端から流れて、顎を伝う。それを追いかけた卓弘の唇は、めくられたTシャツの下に移動した。鎖骨に歯を立てられて、強く吸われて、卓弘の痕をつけられる。薄着の季節はあまり痕をつけるなって、何度言っても卓弘は聞いてくれない。  自分の好きなように、つけたい場所に卓弘のしるしを残す。  迷惑なのにうれしくて、僕は強く卓弘を叱れない。卓弘はそれをわかっていて、僕が本気で怒らないギリギリのラインを攻めてくる。 「あ、ぁ……卓弘」  チロリと舌先が、卓弘に吸われなくても赤い場所に触れた。チュクチュクと唇で甘えられて、ジンワリと甘い痺れが生まれて広がる。触れられていない場所が――意識とは関係なく反応をしてしまう場所の根元がムズムズしはじめると、触っていないのに卓弘はそれを察知し意地の悪い顔をする。  その顔がどうしようもなく愛おしくて、僕の胸と欲望に素直な部分がドクンと脈打った。 「っ、卓弘……も、やめ……麦茶こぼれる」 「こぼさないように注意しとけばいいだろ?」  しれっとそんなことを言う。卓弘に触れられた僕がどうなるか、なにもかも知っているくせに。 「汗くさいだろ」 「幸助で塩分とミネラル補給」 「できるわけ、ねぇだろっ」  冗談めかして頭を軽く叩いてやると、笑った目のままムウッと唇を尖らせる。  ああ、好きだ――。  どうしようもなく、卓弘が好きだ。  この情動を卓弘は僕に与え続ける。それが怖くて幸せで、どうしようもなく卓弘から離れられないんだと思い知らされる。 「幸助」  甘えた声で呼ばれると、もういけない。僕は卓弘にすべてを許してしまう。 「ったく。このクソ暑いのに、よくシたくなるよな」  悪態をつきながらグラスの麦茶を飲み干して床に置くと、卓弘はニンマリしながら僕を押し倒した。  硬い床はすこしも冷たくなくて、艶っぽく見下ろしてくる卓弘の瞳が熱くて、これから僕は卓弘に愛されるのだと認識すると鼻の奥がツンとした。 「えっ」  卓弘の目がまんまるになる。 「えっ」  僕も驚いて目を見開いた。  目じりから耳へと、重力に従って液体が流れていく。  眉間にシワを寄せた卓弘が僕を観察している。僕はまっすぐに、その視線を受け止める。  卓弘の唇が目じりに落ちて、舌で涙をぬぐわれた。 「本気のやめろじゃないって、思った」  ためらいがちな謝罪を含んだ声音に、うんと僕は首を動かす。 「卓弘」  卓弘の頬に手を添えて、鼻の頭にキスをする。 「いやじゃない。そうじゃないんだ」 「じゃあ、なんだよ」  どうしようもなく卓弘が好きだと自覚した瞬間、さっきのニュースを思い出して胸が熱くて痛くて苦しくなっただけなんだ。 「大丈夫だから」 「それじゃあ、わかんねぇよ」 「いいから……抱けよ」 「泣いた理由を、まず言えよ」  ブスッとした卓弘の不器用な気遣いにクスクス笑う。わけのわからない卓弘は下唇を突き出した。 「なんだよ。笑ってごまかすなよ」 「そうじゃない」 「じゃあ、なんだよ」  どうしよう。  自分でも感情にあてはまる言葉が見つかっていないのに、卓弘を納得させられるわけがない。卓弘は気まぐれで好き勝手しているように見えて、その実きっちり相手を把握しているんだから。  だから、適当にごまかすなんてこともできない。 「あ、ええと」  僕が言葉を探す時間を、卓弘はいつもくれる。それがどれほど優しいことか、僕は知ってる。大切にされている証拠だってことを、僕は卓弘から教えられた。 「ちょっと、思い出して」 「なにを」 「ニュース」 「ニュース?」 「さっき、スマホに入ったんだ」 「どんな」  簡単に説明ができるものなのに、僕の喉はそれを拒絶する。察した卓弘が僕から離れて、僕のスマートフォンを開いた。通知一覧を確認する卓弘を観察する。  どんな反応をするんだろう。  卓弘は「うん」とも「ふん」とも取れる鼻息を漏らして、ふらっと寝室に入った。去り際の横顔からは、なにを感じたのか読み取れなかった。  起き上がって追いかけたい気持ちと、このままじっと待っていたい気持ちにはさまれて、僕はどんよりと重たい雲に視線を投げた。  寝室でなにかしている物音を、聞くともなしに聞きながら、はっきりしない空に眉根を寄せる。  薄暗く重たいのに、白い部分がやけにまぶしくて目に痛い。  そうしていると卓弘の足音が僕の傍に戻ってきた。 「幸助」  肩をつつかれて卓弘に顔を向ける。仕草で座れと命じられ、体を起こしてあぐらをかいた。 「手」 「手?」  うん、と卓弘が右手を出してくる。その手のひらに右手を乗せると、違うと言われた。 「反対」  よくわからないまま言うとおりにする。よしよしと頬をゆるめた卓弘が、僕の薬指を持ち上げて――。 「え」  銀色に光るそれは、卓弘がたまにつけているシルバーリングだった。僕の左手薬指におさまったそれを見て、卓弘がニンマリする。 「俺のな」 「は?」 「だから、幸助は俺のだって言ってんだよ」 「なんだよ、それ」 「考えろよ」 「考えろって……あ」  卓弘の目じりがわずかに赤い。これって、もしかして――。 「婚約指輪のつもりか?」 「違ぇ」  半眼でにらまれた。 「じゃあ、なんだよ」 「決まってんだろ。結婚指輪だよ」 「はぁ?」  すっとんきょうな声が出た。 「プロポーズなんて、毎日してるようなもんだろが」 「えっ。そうなのか?」 「そうなんだよ。なんだよ……幸助は違うのかよ」 「いや……えっ? えぇ」  どんどん卓弘が不機嫌になっていく。思考が激しく駆けめぐる。毎日プロポーズしているようなもんって、それってなにを指して言っているんだ? 「あ」  もしかして。 「僕の飯、ずっと毎日食ってたいとか、なんか、そういうアレ……卓弘、そんな気持ちで言ってたのか?」  ただ単に、うまいって遠まわしに言っているだけかと思ってた。  フンッと不機嫌に鼻を鳴らした卓弘が、僕の左手を持ち上げて指輪に唇を押し当てた。 「制度としては、この国はまだまだだろうけどさ……けど、俺はそのつもりだから」 「え」 「結婚がだめなら、養子縁組とかしてさ……そんで家族になればいいって考えてる」 「……卓弘」 「子どもがほしいんなら、引き取って育てればいい」 「そんなこと、考えてたのか。――いつから」 「もう、ずっと前から」  知らなかった。  真剣な卓弘の視線に胸がギュウッと絞られて、目の奥が熱くなる。 「泣くなよ」 「だって、しかたねぇだろ」  うれしすぎた僕の返事はケンカ口調の涙声だった。 「ったく」  苦笑交じりに吐き捨てた卓弘が、僕の頭をグシャグシャ撫でる。ゆっくり肩に引き寄せられて、僕は卓弘にしがみついた。 「幸助も俺と結婚したがってるってわかって……よかった」  心の底からの安堵に、僕はますます泣き止めなくなった。 「天気雨が狐の嫁入りってんなら、降りそうで降らない天気は、犬の嫁入りってところか」  冗談めかして僕の背中をポンポン叩く卓弘は、照れくさくて仕方がない顔をしているだろう。それを見たいのに、卓弘のぬくもりから顔を上げたくなくて、僕は卓弘の肩をうれし涙で濡らし続けた。  それを言うなら、どっちつかずな態度ではぐらかす、素直だけれど素直じゃない猫のほうが曇りっぽいだろう。だからこれは、僕にとっては猫の嫁取りだ。  そう心の中で言いながら、僕は子どもみたいに泣きじゃくって、よろこびを卓弘に伝えた。

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