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あの夜の秘密
ツカサはもう、布団の中に潜り込んでいた。
目だけを布団から出し、こちらを見つめている。度のきついレンズがはまった丸い黒縁のメガネには、少し長い前髪が掛かっていた。入浴の後、完全には乾かせなかったのか、湿り気を帯びた髪が何本かに纏 まって、烏の濡れ羽色に煌めいている。普段は肩くらいまであるのだが、今はそれが枕を隠すように広がっていた。
音にならないため息が、俺の口からこぼれる。
「他の二人はどうしたんだ?」
高校の修学旅行で旅館に泊まっているが、四人で一部屋を使っていた。そう広くもない部屋には、四人分の布団が部屋いっぱい、横一列に敷かれている。
消灯時間になっても、同じ班の二人が帰ってこない。俺は、電灯のスイッチに手をかけながら、ツカサにそう尋ねた。
「太良 くんたちの部屋に行ってるんじゃないかな」
少しトーンは高いが不思議と柔らかい声で、ツカサが返事をした。
「もう消灯時間だってのに」
「多分、夜通し遊ぶ気だよ」
他の部屋に遊びにいった二人とは、特に仲が良い訳ではない。この部屋は、仲良いもの同士の班分けの結果、あぶれたものが寄り集まった場所なのだ。
いや、正確に言うならば、俺はあぶれたのではないのだが。
「先生に怒られても知らないぞ」
「今日は最後の泊まりだから、先生も見て見ぬ振りだと思うよ」
ツカサが布団から顔を出した。ツカサが寝ているのは一番奥の布団だ。
「まあ、俺はどうでもいいけど」
口ではそう言ってみたが、本心は違っている。しかしそれをツカサに知られたくはない。
「ボクはその方が嬉しいかな」
そう言って、ツカサは軽く微笑んだ。そうなんだと思ってから、ふと、『その方』とは何のことなのかと疑問に思った。
ツカサの可愛らしいピンク色の下唇が、蛍光灯の光をてらてらと反射していて眩しい。
「どうしたの?」
「へっ? あ、いや、その」
俺の視線に目ざとく気づいたようだ。
「乾燥するから、リップを塗っているんだ」
ツカサは、聞いてもいないことに答えると、布団の中から右手を出し、少しずれてしまったメガネを中指で直した。外で遊ぶことが少ないのだろうか、細い手首は透き通るように白い。それが再び布団の中へと消えていった。
「メガネ、掛けたまま寝るのか?」
コンタクトレンズをしている者が多い中で、ツカサはそれに変えることもなく、中学の頃からメガネをし続けている。
「寝るときに外すよ」
何故かツカサは、嬉しそうにそう答えた。
「もう、寝るときだけど」
「んっと、そうだね」
しかし、その言葉とは裏腹に、ツカサは俺をじっと見続けるだけで、メガネを外そうとはしない。
「電気を消すぞ。良いのか?」
「うん、いいよ」
その言葉に、俺は電灯のスイッチを切った。
「ちょっと、暗すぎるか」
窓はカーテンが閉められていて、外の光は入ってこない。いや、そもそも宿の周辺には何もなく、漏れ入る光も無いだろう。
スイッチは入り口のところにあったのだから、自分の寝床まで手探りで行かなければならない。
「ボクは大丈夫だよ」
暗闇からツカサの声が聞こえた。
「お前は大丈夫かもしれないけどな」
網膜に残る部屋の残像を頼りに、四つん這いで部屋を進む。三つ数えた布団へと行きつき、中へともぐりこんだ。
隣りで布の擦れる音がする。ツカサが何かをしているのだろう。きっと眼鏡をはずしているに違いない。電気を消す前にすれば良かったのに。
「ユウは、暗いのが怖いの?」
「馬鹿言え。トイレ行くのに不便だってだけだ」
そっか、という小さなつぶやきが聞こえた後、隣りから聞こえる音は、小さな呼吸音だけになった。湿り気を帯びた空気が、ツカサの喉、そして舌の上をそよぐように通過し、唇を抜け、部屋へと吐き出されている。そう思うと、体の中が少し熱くなる。寝返りを打ち、ツカサに背を向けた。
消灯時間と言っても、実際まだ眠れるような時間ではない。かといって、今日見たお寺の仏像や、古びた建物を思い出したところで、何の気紛れにもならないだろう。意識しない意識が、背中へと向けられてしまう。
「ねえ、ユウ」
突然、ツカサが声を掛けてくる。心なしか、声が近くなったような気がした。
「どした」
「何か、願い事ってある?」
「何だよ突然」
真っ暗なのだから何も見えないのだが、俺は体をツカサの方へと向ける。
「いいから」
「願い事なぁ……」
挙げたらきりがない。かといってすぐに思いつくものでないのが、願い事だったりする。
「特にないな」
「ないの? じゃあ、ユウは毎日が楽しいんだね」
「別にそんなんじゃないよ。こんなものだと思ってるだけだ」
また、そっかというつぶやきが聞こえた。
「ツカサはあるのか?」
「うん、あるよ」
「どんな?」
そう尋ねたのだが、ツカサはふふふと笑っただけで、答えない。
「あのね、願い事が叶うおまじないがあるんだ」
「おまじない?」
「うん。やってみない?」
その突然の提案は、ツカサのどこか甘さを含んだ声の音色のせいだろうか、とても魅力的に感じた。しかし同時に首をかしげてしまう。もう部屋の中は真っ暗なのだ。一体何をしようというのだろうか。
それに、少し恥ずかしかった。
「一人でやれよ」
「二人じゃないとできないんだ」
二人でするおまじないとはどういうものだろう。
そういえば、中学生の頃に、こっくりさんだのチャーリーさんだの流行った記憶があるが、高校生になってからは、そのようなものに興じている友人を見ることは無くなった。
「二人でって、どんな?」
誘惑に負け、そう尋ねてしまう。
「手を」
布団の中を何かが動く音が聞こえた。そして、右手を掴まれる。まるで心臓まで掴まれたような感じがした。
「お、おう。手をどうするんだ?」
「繋いで」
そう言われ、ツカサの左手であろうものを握る。
暗闇にも目が慣れてきたのか、ツカサの顔の輪郭が見えた。俺の手を握り返してくる。
「それで、どうするんだ?」
正直なところ、手を繋いですぐに後悔した。握り合った手が、少しずつ汗ばんでくるのを感じたからだ。気持ち悪いとは思われないだろうか。
心臓がメトロノームの様に音を刻む。遊錘が少しずつ下がっていくようだった。
「目をつむって、心の中で願い事を言うの。それでね、相手が何を思ったかが分かったら、それを言い合って、もしそれが合っていたら」
「合っていたら?」
「その願い事が叶うんだって」
なるほど……って。
「超能力者じゃあるまいし、そんなもの分かるわけないだろ」
思わず笑いがこぼれる。ツカサは時々変なことをいう癖があるのだが、その大半はどこかオカルトめいたものだった。そのせいなのか、クラスで少し浮いた存在になっている。
「いいから、やってみよ?」
「分かったよ」
言われたように目を閉じる。
「いくね。せぇの」
ツカサの言葉に合わせ、俺は心に秘めていた、誰にも、もちろんツカサにも言ったことのない願いを心の中でつぶやいた。
と。
突然、ツカサが「ひゃっ」という声を出し、手を振りほどく。その拍子に、手が何かに当たる音と、それに続いて、その何かが壁にぶつかる乾いた音がした。
「あ、しまった」
ツカサが声を上げる。
「ど、どうした?」
「メガネが」
「ちょっと待ってろ」
俺は布団から出て、部屋の入口へと行き、電灯のスイッチに手を置いた。
「電気、つけるぞ」
「えっ。ちょ、ちょっと、ユウ、待って、ダメだよ」
「なんで?」
「な、なんでも」
「なんでもって、これじゃ探せないだろ」
「待って」
ツカサがなぜ電気をつけるのを待てと言うのか、俺には分からなかった。どの道暗いままではメガネは探せないだろう。
俺は、スイッチを押した。蛍光灯の白い光が、部屋の中を満たす。眩しくて一瞬目を細めたが、瞼の隙間から、ツカサが布団の上にしゃがみ込み手で顔を覆っているのが見えた。
「どうした?」
「み、見ないで、ユウ」
「な、なんで?」
「だって」
ツカサの瞳が、両手の指の間から俺を覗いている。
「だって?」
「恥ずか……しい……」
何とも言いようのない数秒が過ぎていった。ふと我に返る。すると俺も何だか恥ずかしくなってしまった。
「ちょ、ちょっとそのままでいろ。お、俺が、メガネ、取るから」
メガネは部屋の隅に落ちていた。枕元に置いていたものを、手で弾き飛ばしてしまったのだろう。出来るだけツカサを見ないように歩き、丸い黒縁メガネを手に取ると、ツカサの方へと差し出した。
「ほら」
顔を天井へと向ける。
「あ、ありがとう」
ツカサは左手で顔を隠したまま、右手でそれを受け取ると、顔を伏せる。顔を隠す長い髪の下で、メガネをかけていた。そしてメガネの奥から上目遣いで見上げたが、横目で見ていた俺と目が合うと、その途端、顔を真っ赤にして、また俯いてしまった。
「で、電気、消すぞ」
「う、うん」
なぜだとか、どうしてだとか、俺に考える余裕はなかった。小走りでスイッチを消しに行き、また真っ暗になってしまった部屋の中、布団へと戻る。
息が荒くなってしまった。少し落ち着かせようと、音を立てないように深呼吸をする。
ツカサは何も話さない。何をしたわけでもないのに、どこか気まずい時間。それが、二人の呼吸音と共に過ぎていった。
と、俺の腕に、ツカサの手が触れた。思わず身体が跳ねる。
「ね、ねえ、ユウ」
「な、なんだ」
またしばらくの沈黙。触れられている部分が熱い。
横を見てみるが、まだ目が暗闇に慣れていないのか、何も見えなかった。ただ、少し熱を帯びた呼吸音だけが唯一、俺の五感を刺激している。それが、少し近づくのを感じた。
「ユウは」
また少し、気配が近づく。俺の中のメトロノームの音が、ツカサに聞こえてしまいそうだ。
「ボクのこと」
もう、ツカサの熱を感じるくらいになっていた。無意識に左手を伸ばす。指がツカサの体に触れた瞬間、音のない声が頭の中に響いた。
「ち、ちがっ」
思わず言葉が口をつく。しかし、目の前にツカサのメガネが見えた瞬間、言葉も息も出なくなった。
その奥にある瞳に吸い寄せられるような感覚。ツカサの鼻が俺の鼻に触れる。湿り気を含んだ吐息が唇にかかり、俺は、そのまま目を閉じた――
「なんだ、真っ暗じゃないか」
いきなり部屋の扉が開かれ、声が発せられる。そして電灯がつけられた。
「な、なんだじゃ、ないだろ。も、もう消灯時間過ぎてるぞ!」
入り口に立つ二人の闖入者に向けて、俺はそう抗議の声を上げる。横を見ると、ツカサは、自分の布団の中に潜り込んでいた。
「悪い悪い」
そう言うと二人は、それぞれの布団へと入る。
「電気消せよ」
「あ、ああ、悪い」
そして部屋は再び真っ暗になった。
※
「あの時は焦ったよなぁ」
天井を見上げながら、俺は思わずそう口にする。
「うん、そうだね」
「でも、なんで俺の気持ちが分かったんだ?」
横を見ると、ツカサの瞳が黒縁眼鏡の奥から俺を見つめていた。
「ユウの声が聞こえたからだよ」
「そんなわけあるかよ」
恥ずかしくなって、また天井を見る。ツカサはただ、ふふふと笑い声を漏らした。
「願い事、叶った?」
「まあ、そうだな」
ツカサに覆いかぶさる。右手でメガネをつまみ、そっと外した。
ツカサが顔を赤らめる。
「ユウ……恥ずかしいよ……」
そんなツカサの耳に口を寄せ、かわいいよと囁くと、ツカサは一つ身じろぎをした。
「そういやあの時、ツカサは何をお願いしたんだ?」
ふと気になって、訊いてみる。
「実はね」
「おう」
「何もお願いしなかったんだ」
「は? どうして?」
「だって、ユウの心の声が聞きたかったから」
そう言うとツカサは、俺の手を握りしめた。
《了》
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