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第41話 苦水

   翌朝、母親に会いに行くと言っていた奏太を残し一人で会社へと向かった。  もうこの先は自分のことだけを考えて生きてほしいと伝えてくると言う。大切にしたい人と一緒にいるから心配はいらないと。  おばさんは今はすっかり元気で働いていると聞いて安心した。俺も一緒に行きたいと申し出たが断られてしまった。  「瑞樹は会社にきちんと行って、突然休んで迷惑かけたんでしょう」  奏太にそう言われると返す言葉がない。いつもなら苦にならない通勤電車が今日はなぜか窮屈だ。地下鉄から歩道に出ると、ふわっと街の匂いがしてくる。ここでは季節を皇居を通り抜ける風が運んでくるのだろう。  「お前、もう具合いいの?」  突然、後ろから声をかけられて振り返った。体調を崩したことになっていたと思いだした。  「ん……ああ、悪かったな急に休んで」  大野が朝から大あくびしながらコーヒーを片手に歩いている。退屈そうな顔が、突然何かを思い出したように生気を帯びた。嫌な予感する。  「なあ、お前知ってた?尾上ってさ……あいつ」  「奏太がどうしたって」  かぶせるように大野の言葉を遮る。  「いや、噂でさ……」  「俺さ、噂話って大嫌いなんだよね止めてくれる」  大野は少しばつの悪そうな顔をすると、肩をすくめて先に会社の入り口に飲み込まれていった。別に奏太のことがニュースになったわけじゃない。けれど、どこからか嫌な話が漏れ出して人を傷つける刃になるのだろう。  その日の昼休み奏太に電話をかけてみた。  「奏太?大丈夫か、お前」  「何、その言い方。会社で何か言われた?」  「いや、別に……」  「瑞樹って俺と違って本当に嘘つけないよね」  くすくすと奏太が笑いだした。うん、奏太は大丈夫だ。  「嘘つけないって……まあ、苦手ではあるけれど」  奏太は楽しそうに笑いながら、大丈夫だよと電話を切った。当の本人が問題ないと言うのだから俺が余計な心配をしても仕方ない。  人の噂なんてすぐにまた新たなニュースが出てきて忘れられる。傷つかないというわけにはいかないだろうけれど、奏太が大丈夫だというのなら俺は信じるだけだ。  それより、俺は自分自身の問題を解決しなくてはいけない。とりあえず母親にも電話を入れる。明日の夜帰る、結婚はできない、好きな人がいる会ってほしいと伝えた。  「どういう事?」と電話の向こうで語気を荒げる母親に、仕事に戻るからと伝え手短に話を切り上げた。もうこれで逃げ道はない。先に進むことしかできないんだ。  金曜日の夜、二人で並んで電車に乗った。お互い何も言わずに前をじっと見つめている。喉が渇いてくっつきそうな気がする。横を見ると奏太が右手で自分の左手の手首をしっかりと握りしめているのが見えた。浮き上がった血管を見て、力が入っているのが解る。平静を装いつつも緊張しているんだ。  けれど緊張しているのは奏太だけじゃない俺もそうだ。母親はきっと半狂乱になって、勘当だと騒ぐだろう。父親は何と言うのだろう。どう考えても良い結果になるとは思えず、重い足取りで自宅へと向かった。  理解してもらえなくてもいい、きっといつかわかってもらえる。そう信じていても勇気が要る。  玄関の前に立つと一度大きく深呼吸をした。そして奏太の手にそっと触れる。大丈夫だからと、声をかけると瑞樹の方が顔色悪いよと返された。  いつもより重く感じるドアを押し開けた。「ただいま」と、声をかけたが誰も返事がない。  「お邪魔します」  奏太の声が届いたのか、リビングのドアが開いた。息が詰まるような気がした。  ドアの向こうから母親が顔を出した。

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