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第1話 失くした鍵の行方(1/2)

 馴染みのバーで酔っ払って、どこかでアパートの鍵を失くしたらしい。男の一人暮らし、部屋で待つ誰かがいるわけでもなく、俺が鍵を持っていないなら玄関のドアが内側から開くことは永遠にない。  わびしいものだが、四十年ずっとそういう生き方をしてきたのだから仕方ない。浮いた話がなかったわけではない。しかし俺は結婚など出来ない種類の人間だった。  明日不動産屋にでも相談するのは良いとして、とりあえず今夜どうしたものかと、部屋の前でスラックスの尻ポケットをごそごそしていたら、隣の部屋の玄関が開いた。 「どうかしました?」  隣の部屋に住んでいる若い男は、夜の空気にうっすらと酔いも醒めてきた俺をじっと見つめて、にっこりと口を開いた。  引っ越してきた時に必要最低限の言葉を交わしたきりだった彼の名前を、俺は覚えていなかった。 「──えぇと、鍵を」 「鍵、見つからないんですか?」 「多分飲んだ店か道中のどこかで、落としたんだろうな。尻に入れといたんだが、ない」 「尻……」 「ポケットに」  尻付近に視線を落とした彼と俺の間に、不思議な沈黙が訪れた。  名前……なんだったっけなあ。 「小林です。僕これからコンビニに行くんですが」 「え?」  自分の思考が口に出ていたようで、彼は名前を教えてくれた。なんとなく気恥ずかしくなり、白いものがだいぶ混じり始めてきた頭を掻く。 「あーどうぞ、コンビニ行ってきて。俺はネカフェでも行くわ。まあどっか空いてるだろ」 「あの、大森さん」  小林くんが俺の名を呼んだ。そうだ大森と小林で、なんだか木偏同士茂ってるなあ、と挨拶の時にくだらないことを思ったのだった。だが「大」森の俺より「小」林くんの方が少し背が高かった。少しばかり弛んだ俺の体とは違い、今どきの子はスタイルが良くて顔も小さくしゅっとしている。 「僕すぐ帰りますんで、もし良かったら部屋で待っててください」 「は?」 「今夜は冷えます。ネカフェなんて体も休まりませんし」 「──や、俺は」 「ほらほらぁ、物騒なんで留守番任されてください。先日この辺で空き巣事件あったじゃないですか」  小林くんはだいぶ前にあった事件を持ち出して、玄関を開け直すと俺をなかば強引に押し込んだ。 「おいおい」 「お願いしますっ」  空き巣事件があったのは、いつだったろうか。少なくとも今年ではなかった。  鍵を部屋の主である小林くんが持っていってしまったので、俺は勝手にそこを離れるわけにもいかなくなった。本当に空き巣などに入られたら、俺の責任になってしまう。仕方なく靴を脱ぎ、まったく同じ間取りの部屋に上がり込む。  簡素なキッチン、ロフト付きのワンルーム。隠れ家っぽくてロフト付きの部屋を選んだ俺だが、寝ぼけて落ちるのが怖いので下で寝ている。小林くんは……ロフトで寝ているようで、布団がちらりと見えた。下のスペースはあまり物を置かず、小さなローテーブルと小洒落たソファ。壁際の棚に勉強で使う本などが収納されている。  なんというか、俺の部屋と同じはずなのだが、やはり別の部屋だ。当たり前だ。だいぶ年の離れたおっさんと同じような生活をしているわけがない。 「いい匂いがする……」  会社の女性社員の匂いとはまた違う、なんだか心地良い匂いが部屋に染み付いているような気がした。なんだこれまるで俺セクハラ親父みたいだな、なんて自嘲しながら、小林くんの帰りを待つ。  待つのは良い。別に明日会社は休みだし少しくらい寝過ごしたところで問題はない。だいぶ年季の入った腕時計に視線をやり、午前を少し回ったのに気づく。随分と遅い時間にコンビニに出かけていくものだ。まあ俺も、遅い時間の帰宅なわけだが。  ため息が出た。  馴染みのバーにいたバーテンダーの一人が辞めてしまったのだ。何を隠そうそのバーテンダー目当てで通っていたが、実は素顔も知らない。仮面舞踏会よろしく、店員も客も全員素顔を晒さない店だった。  辞めるなら辞めるで、教えてくれたら良かったのに。別にストーカーなんかする気もないし、最後にお別れだけでも言えたらと思っただけだった。  もう会えないとわかると、多分俺はあのバーテンダーをそういう意味で好きだったんだろうな、と改めて思う。バーテンダーは若い男で、そういう性嗜好の人間が集まる店だった。身バレしたくない者にとって、とても居心地の良い場所。俺も人並みにそんな体裁を気にするつまらない男だった。 「小林くん……遅いな」  勝手に人んちのソファに寝そべるのもなんだか憚られて、俺は頭だけソファに乗せると遠慮がちに寝転がった。ホットカーペットがついていて、ほのかな温かさが眠りを誘う。  なんでまたこんなことになったのだったか。そうだ鍵を……失くしたんだった。  通常不動産屋は水曜が休みのところが多いので、多分明日は営業しているだろう。何故水曜定休が多いのかというと、契約が水に流れるというのを連想させるから……ゲン担ぎってのか。誰がそんなこと思うんだ。わからん。  ──酒も入っていてぼんやりした頭でそんなどうでも良いことを考えながら、俺はいつのまにか眠りに落ちていた。

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