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第18話 【2年前】(7)
コンコン、と棚をノックする音に、サキは顔を上げた。自分の手元以外は真っ暗な書庫、狭い通路の向こうに誰かが立っている。懐中電灯を向けると、馴染みの顔がいた。棚に肩を預け、サキを面白そうに見ている。
「今日は939か。『司書』は読むのが速いな、相変わらず」
「そうか? 気が向くままに移動してるから、順番じゃない。飽きたら途中でも移動するしな」
長身のエトウが立つと、通路は封鎖されたも同然だった。その通路の一番奥には、壁にくっつけてマスクの段ボール箱が積み上げられている。その前に適当な段ボールを敷き、サキは通路にはまるようにして座っていた。サキだって身長が高い。それが子供のように丸くなったまま、エトウを見上げている。
その姿を見ることが許されている者は数少ない。通常は書庫の入口で誰かが呼ぶと、サキが自分から箱を持って書庫を出るからだ。書庫の中がどうなっているのかをすべて知っているのはサキだけだったし、本を分類するための十進分類表を細かく知っている者も、他にはいない。電力を節約するため、書庫の電気は基本的に一切つけない。
両脇の棚をしげしげと見ながら、エトウは訊いた。
「939は?」
「アメリカ文学だ」
ふぅん、とエトウは気のない返事をした。
「何読んでるんだ」
「メルヴィルの『白鯨』。鯨の話だ」
「鯨? 鯨って……海の?」
「そうだ」
「鯨が主人公なのか」
「まぁ……昔白い鯨に足を奪われた船長が、復讐のためにその鯨を追うのさ。太平洋を巡って、捕鯨をしながら」
「見つかるもんなのか?」
「現実は知らん。物語では、最後に見つかる」
「そりゃすごい。復讐できるのか」
サキはニヤリと笑った。
「できるわけない。船長も乗組員も、全員海の藻屑で、イシュマエルという語り手だけが生き延びる」
「無駄な話だな」
「そうか? 無駄な脱線ばかりの話だが、そこが面白いんだ」
何が面白いのか、エトウにはわからなかった。
「読み終わったのか」
「長かったけどな。翻訳者の後書きを読んでるとこだった」
『司書』という通称で呼ばれているサキは、この時代には珍しく、よく本を読んでいた。
「で? 鯨に夢中な薫くんは、俺の報告を聞く時間はあるのか?」
それを聞いたサキは声を上げて笑うと、本を傍らの棚に戻した。
「悪いな、翔也。本の話なんて、誰も聞いてくれないもんだから」
「気にするな。ここにいるのがお前の仕事だろう?」
サキは答えず、懐中電灯をことんと床に置いて腕を組む。
「それで? 襲撃の裏は誰だったんだ」
「お前が思った通り、タカトオだった。奴は埼玉県全体と中央線北側を掌握し終え、ついに南側……こっちに進出してくるつもりだ。特にここにはお前がいる。まずお前の出方を見るつもりだったらしい。奴の目的はお前への個人的な嫌がらせか、あるいはこっちのエリアを手に入れたいのか。どっちが主な目的なのかはまだはっきりしない」
「両方だろうな。俺を叩き潰して、最終的に関東全域を思いのままに支配する気だ。あいつは、ついに俺を簡単にねじ伏せられるところまで来たと踏んでる。だから行動を起こした」
「まぁ、昔のこと抜きに南側全域を狙ってるとしても、お前を最初に狙うだろうな。お前さえ攻略できれば、あとはチョロい」
「買いかぶりすぎだ。俺はそこまで強くはないよ」
「どうだか。それに奴とお前とは……」
サキは棚から体を離し、うつむいた。
「その話はやめてくれ。もう昔の話だ」
「復讐はうまくいかない?」
「海の藻屑になるのがオチだ」
エトウは溜息をついた。サキ──『司書』は中央線界隈では有名だ。グループは高度に統率され、襲撃でもう何年も死者を出していない。チームワークが桁違いに強く、復興事業もかなり進んでいる。サキのところで働きたい。それは仕事のない者たちにとっては憧れだった。
中央線北側のタカトオは、南のサキやエトウとは反対に、逆らう者には容赦しない。恐怖で全員を支配し、4年で広大なエリアを支配下に収めた。タカトオのところで働く者は、自分が使い捨てになることを覚悟しなければならない。1両も電車が通らない線路は、境界線の役目だけを果して人の運命を分けている。
そしてタカトオとサキとの間には、昔からの因縁がある。サキの両親と弟が死んだ時、エトウはショック状態のサキの面倒を見てやった。2人が大学3年生の頃だ。あの時サキの家族を死に追いやったのがタカトオであったことを、戦後エトウも聞いている。
身を屈めると、エトウはサキの向かいにどかりと座った。正面からサキの顔を見る。
「復讐については何も言わない。ただ向こうは確実にお前を狙ってきている。……ここは守らないと。こっちから人員を回そうか?」
「そんなことしたら、お前の方が手薄になるだろう?」
エトウは顔をしかめた。確かに、いざという時に使える人員は余っているわけじゃない。
「だが……お前の安全は最優先事項だ」
その言葉に、サキは棚に寄りかかった。
「いや、俺はいざとなればここに籠ればいい。それに全員に指示を出して、防衛の強化を始めてる。トラップとバリケードの設置はまぁ……進んでる方だと思う。俺よりむしろ、各グループを回って束ねているお前の安全の方が優先されるべきだ。……なぁやっぱり、俺も表に出た方が」
「それは言わない約束だ。いいか、これは俺の方から言い出したことだ。俺が全体のトップとして表に出る。お前は書庫の奥にこもって、ここから全員を守る」
エトウの言葉に、サキが溜息をついた。
「わかってる。だが、お前に何かあったら」
「それが俺の仕事だ。いいか、余計なことを考えるな。薫。お前はこの書庫に籠って、マスクの在庫の番をしながら本を読んでいればいい。あまり外をうろつくな。それがお前の仕事だ。それに……できれば昔のことなんて考えないでいてくれた方が、俺としては助かる」
じっと、サキはエトウを見つめた。そうだ。これは6年前に話し合って決めたことだ。
「翔也、お前には恩がある。だからいずれにしても、俺からタカトオに仕掛けることはしない。お前のサポートに徹して、この拠点を守る。心配するな」
サキがそこまで言った時、書庫の別な場所で何かがカタリと鳴った。靴が金属の棚に当った音だ。エトウもサキも同時に身をこわばらせる。
「……」
2人は見つめ合ったまま、しばらく動かなかった。サキが無言で腰に手を伸ばす。グロックを抜き、音を立てずにエトウに渡す。
彼は体をひねり、真ん中の通路をのぞきこんだ。大きな扉の陰で、誰かが静かに立ち去る気配。暗闇の奥で意識を研ぎ澄ます2人から逃げるように、その気配は廊下の果てにたどり着き、消えた。
「聞かれたか?」
サキの問いに、エトウが廊下をじっと見たまま低い声で答える。
「たぶん、でも肝心なところは話していないだろう?」
「あぁ……まぁそうなんだが。問題は、俺たちの話に聞き耳を立てている奴が、このグループの中にいるってことだ」
「そうだな。どうする? 薫」
通路のこちらに体を戻すと、エトウはサキの向かいで再び胡坐をかき、ひじを突いてサキを見上げた。
「何もしない」
それだけ言うと、サキは立ち上がった。
「腹が減ったな。翔也も飯を食っていくだろう?」
「俺が差し入れた飯なんだがな」
サキはその言葉に明るく笑い、エトウを乗り越えて書庫を出ていった。
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