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第26話 【2年前】(11)

 コンコンという控えめなノックは、やけに大きく部屋に響いた。午前中、タケに予告されていたから、驚きはしない。ただ、鬱陶しい人間関係はどこに行ってもついてまわるのだという、諦めにも似た気分がレンの中にあった。  ドアを開けると、そこにはやはりタケがいた。 「その、入ってもいいか?」 「どうぞ」  タケは白いビニール袋を提げて入ってくると、部屋を見回した。広くはないワンルーム、怜はベッドを奥に置いていた。手前の空間は基本的に何もない。ただ今日は、前の住人が残していった折り畳みのダイニングテーブルと、付属の椅子を出しておいた。  タケは普段の様子とは違い、どこか緊張した顔でビニール袋をテーブルに置く。  サキのグループは少し変わっている。それぞれが宿舎で個室を与えられていて、誰かと話したい者は「たまり場」と呼ばれる空き部屋に行くのが習慣だった。「たまり場」はいくつもあって、気の合う者は自然と決まった部屋に集まる。誰とも話したくない者は自室から出てこない。  リーダーのサキ自身が自室にこもって本を読んでいるようなタイプだから、他のグループより内向的な者が多い。だからこそ出来上がった暗黙のルールのようなものだった。  このルールだと、それぞれのプライバシーは保たれ、誰かの個室に入ることは少なくなる。相当仲がよくなければ、誰かの部屋に入るということはあまりない。  誰かの部屋に個人的に入ると噂になりかねないのは確かだが、裏返せば、立場の弱い者の部屋がたまり場に使われ、経済的、性的に搾取されることもないということになる。レンにとってはありがたかった。 「座ってください」  怜が促すと、タケは神妙な顔で椅子に座った。向かい合ってレンも座ると、タケはビニール袋の中からビールとポテトチップスを取り出した。  単なる愚痴だろうか。そうであればいい。  レンは心中密かに願った。面倒な話はごめんだ。 「そういや、明日から外だっけ?」 「AからCの警備ですね。しばらく外回りか……」  他愛ない話をしながら、タケはビールを一缶レンに渡してきた。本当はあまり飲みたくない。だが断るのもトラブルになりそうで、レンは仕方なくビールを受け取った。2人で缶を開け、軽く突き合わせて口をつける。  アルコールを体に入れるのは久しぶりだ。酔いが回るのを用心して、レンは一口飲むと冷蔵庫からチーズを出した。 「外回りになると、1か月以上図書館に戻れないからな~」  タケがポテトチップスを咥えて椅子の背もたれに寄りかかった。 「銃の手入れも面倒ですしね。トラップ設置って終わったんでしたっけ?」 「ん~、明日第2から引き継がないとわかんないな」 「そうですか」  人手は足りていない。グループの非正規メンバー、まぁ言うなれば日雇い労働者は大量にいるのだが、トラップの設置場所の情報を彼らにすべて教えるわけにもいかなかった。 「あ~、おれも第1に移動になんねぇかな」  タケはビールを飲みながら、ぼんやりと言う。第1は図書館の周囲や屋上にいることが多い。遠出や土木作業をしない代わりに、メンバーに要求される能力や機動力は桁違いに高い。 「第1は、自衛軍や警察アガリの人が多いって聞きましたけど」 「あぁ。チームリーダーと第1はほとんどそうなんだよな。おれも狙撃の練習しようかな……」  自分もポテトチップスをつまみながら、レンは頬杖をついた。 「狙撃って、この間サキさんが屋上でやったのを見ましたけど」 「そう。狙撃をモノにして第1に入れば、サキさんと話すチャンスも増えるだろ? もしかしたら色々教えてもらえるかもしれないし」  狙撃……。この間のサキを思い出す。スコープを覗き込む、射抜くような眼差し。ゆっくりとトリガーに指をかけ、まったくの予備動作なく敵を撃ち抜いたあの姿。  背中がざわめく。あの目で見られながら、もう一度サキに抱かれたい。茫洋たる大海のような眼差しが一瞬で変わる瞬間。その強烈な意志に貫かれ、甘い屈服に浸りたい。  さまよいだしたレンの考えを読んだように、タケが呟く。 「サキさん……ほんとかっこいいんだよな」 「そうですね」  タケがちらりとレンを見た。 「なぁお前、サキさんとなんかあったか?」 「……いえ、特に何も」  まさか、もうセックスしましたとは言えない。昼間、タケの目を盗むように書庫で交わした口づけのことも。 「なんか、お前もサキさんが気になってるって感じがしたんだけどな」  タケはビールを飲み、缶を置くとその縁をなぞった。 「このグループに入った奴は、みんな一度はサキさんに憧れる。でもあの人、誰にもなびかないし、特定の奴と親しくなったりもしないだろ? 誰でもシャワーを借りていいっていうのも、あの人の策略なんじゃないかと思って」 「策略?」 「あぁ。あの人の部屋に突撃しても、いつ誰が来るかわからないだろ? だから長居できない。ほんと、ガード固いんだよ」  なるほど、と思った。じゃあ、あの夜自分がやったのは、かなり無謀なことだったというわけだ。  そう、無謀にもほどがある。あの日、レンはとにかく自分の渇きを我慢できなかった。実のところ、自分から誰かの所へ忍んでいったのは初めてだ。最初にサキに会った日、予感はあった。自分はこの人に抱かれるだろうと。それが例の襲撃の夜、現実になった。  自分ではどうにもならない、突き上げるような欲望を感じたのは初めてで、レンはそれでもひとりで処理しようとは思ったのだ。たまり場に顔を出して、付き合いで少し飲んだアルコールは、毒のようにレンを苛んだ。自室に戻っても苦しくて、気がつけばレンはサキの所へ行き、生まれながらの娼婦のようにサキを誘惑した。 「実際さ、サキさんって何考えてるのか、わかんないとこあるじゃんか。けっこう前なんだけど、大っぴらにサキさんに言い寄った奴がいて、そいつは結局ここに居づらくなったんだよな……」 「その人はどうなったんです?」 「サキさんがエトウさんに口をきいて、グループを移ってった。今は町田の方にいるらしい。エトウさんの統括エリアってけっこう広いから。今は神奈川辺りまで広がってるんじゃなかったっけ」 「ふ~ん」  聞くともなしに聞く。実のところ、サキが誰とも寝ない、親しくならないという話は、このグループに来てから数回聞いていた。誰か女性の恋人あたりが千葉にでもいるんじゃないかと言った者もいたが、それは何の根拠もない推測だったことが後で判明している。 「だからさ」  ビールを一口飲むと、タケは缶をぼんやりと揺らした。 「サキさんとどうにかなれるって、あんまり期待しない方がいいって……言いたくて」  奥歯に何か挟まっているような言い方だった。レンは揺らぐ缶に書かれた文字を見ながら、ふと思った。  つまり……つまりサキが自分と寝たのには、どういう意味がある? レンの頬に不意に血が上った。昼下がりの図書館で見た、サキの目。唇に触れるサキの吐息と、かすれた声。 「どうにかなれるって……」  もしかして、サキと自分との間には、すでに何かが起こっているのか? その考えに気を取られ、レンはタケに対して上の空になっていた。 「だからさ、その」  ビールで喉を潤すと、タケは意を決したようにレンを見た。 「おれ埼玉の方に知り合いがいて」  その瞬間、レンはいきなり撃たれたような気分になった。 「埼玉……」  茫然とタケの顔を見る。絶望が喉に詰まり、声が出ない。タケは今、何の話をしていた? 「お前、その、埼玉でけっこう大変だったんだろ?」 「何を聞いたんですか」 「あれだ、ほら、さいたま市のグループが内部分裂して、仕切る奴がいなくなったんで高遠が乗っ取った話。リーダー2人が、その、レンっていう奴を取り合って殺し合いまでやったっていう噂」 「は?! 殺し合い? そんなことになってたんですか?!」  素っ頓狂な声を上げたレンに、タケの方が驚いた顔になった。 「え、知らないのか?」  自分が思っていたのと違う結末になっているなんて、レンには考えも及ばないことだった。 「知りませんよ。確かに……2人には言い寄られましたけど、そんな……ひどい結果になったなんて聞いてない。それにオレ、二股みたいなこと、してません。嫌だったから、さいたまにいた時は全員を突っぱねた」 「つまり……?」  おそらく父親の仕業だろうとレンは気づいた。奴は自分をエサにしたのだ。引っ掻き回すために利用されたとは思っていたが、そんなところまで利用されていたなんて。 「オレは誰とも寝なかった。おかしいと思ったんだ。だんだん2人ともしつこくなったから。両方とも『向こうとは寝てるんだろう』って言って……結局、両方からレイプされそうになったんで逃げてきた」  そう、自分としては、深刻になる前に逃げ出せてほっとしていたのだ。まぁ……リーダー2人に言い寄られ、保身のために数回体は許したが、それを大っぴらに言うわけにはいかない。レイプよりはマシ、という状況だった。絶対に誰にも言わなかったのに、それが内部抗争の火種になったのか? 「あ~、お前見てると、わかる気がする。落とし甲斐のある美人ってやつ? お前をモノにしたい奴、うちのグループにもけっこういるぞ」 「は?? 別に誰にも言い寄られてません」  むっとして、レンは腕を組んだ。 「別に美人でもないし」 「いや、そうか? なんか……その、気をつけた方がいいとは思うけど……自覚ないのか?」 「自覚?」 「いっつも誘うみたいな笑い方してんの。ふんわり漂う色気っつうか、なんかこ~、説明が難しいんだけど。腰つきとか、立ってるだけでエロいっつうか」 「なんですかそれ」  体のラインが綺麗だと言われたことはある。最初にレンを仕込んだ『政府』の男は、肌を撫で回すのがしつこかった。思い出すと鳥肌が立ってきて、レンは腕を組んだまま身をすくませ、込み上げる不快感をやり過ごそうと唇を噛んだ。  あの男は3年ほどレンを囲っていた。性格は悪くなかったと思う。普段は優しくて、不自由はなかった。ただ、レンに対する執着はひどく、脱走するたびにレンは数人の警備に捕獲され、泣いて許しを乞うまで快楽漬けにされた。  もっと若い他の少年に彼の興味が逸れたおかげで、レンはさいたま市のグループに移った。それが1年ほど前の話だ。死んだという風の噂は、さいたまに入ってほどなく聞いた。その噂を聞いても、レンに特別な感慨はなかった。 「別に誰も誘ってないし、エロいとか言われても……」 「ふ~ん。じゃあお前としては、リーダー2人を煽ったりしてないって?」 「してませんよ、そんなひどいこと。逆にそういうの、嫌いなんで。だんだんギスギスしてきたから、グループの中でこっちにいたことのある人がいたんで、口をきいてもらって、それでここに来ました」  しげしげとタケに見つめられて、レンは居心地が悪くなった。今のいままで、自分はグループを壊滅させた人間だと思われていたのか? タケもよくそれで普通に接していてくれたものだ。 「……そんな、男を手玉に取る奴だと思われてたんですか? オレ……」 「いや、すまんこの話を聞いたのが昨日だから、それで、その、確認したくて」  昨日か。ほっと息を吐く。一瞬、タケも父親とつながっているのかと思った。  いや……、もしタケが父親のスパイなら、逆にサキとの仲をけしかける気がする。埼玉でもそうだった。数人が色々言ってきたのを思い出す。結局自分はダシに使われたのだ。  父親とレンとのつながりだけは、どういうわけか最後までバレなかった。つまりそれは、父親のほうでも誰にも言っていないということだ。  まぁだからこそ、こちらに逃げ出すことができたのだが。  そこまで考えて、レンはぎくりとした。あいつは、さいたま市の2人を「殺し合い」という形で葬り、まんまとすべてを手に入れた。自分は用済みだと思ったが……ここへ手引きされたんじゃないか?  自分がサキに心惹かれたこと自体が何かの罠のような気がして、レンは眉をひそめた。嫌な予感がする。名ばかりの父親は自分を駒として操っているのだろうか。  だとしたら、自分の行動はひどく愚かだ。  考えてみれば、埼玉を逃げ出したことについて、父親は何も言ってこない。もしかして……考えれば考えるほど、自分が軽率にサキに近づいたのは失敗だった気がした。 「お前……ほんとに向こうじゃ誰とも、その、そういうことになってなかったのか?」  レンと同じように、タケも何かに気を取られている様子だった。じっとビール缶を見つめている。  喉を潤したくて、レンは無言で頷くとビールを飲んだ。つられるようにタケも飲む。まるで競争のように煽ると、脳がくらりと揺れた。タケは相変わらず何かを呟いている。 「マジか……じゃあ、サキさんとも……」  どうして自分はあの夜に限って我慢ができなかったのか。今まで、自分から誰かを求めたことは一度もなかったのに。よりによって、自分はなぜ肝心なところで、サキを潰しかねないことをした? まるで……まるで父親の敵をたらしこむスパイそのものじゃないか。  ぞっとした時、タケの手が伸びた。 「サキさんとも別にどうにかなろうとは思ってないってことか……?」  その質問に答えず固まって考え事をしているレンの心の中を、タケなりに推測したらしく、彼は慰めるようにレンの手をぽんぽんと叩いた。  逆だ。自分はサキと、どうにかなったことに恐怖している。  脚を開き自分からサキにまたがった夜が、どす黒い陰謀に飲みこまれていく。 「じゃあさ……その」  タケがレンの手を取った。 「……おれと付き合わないかって、思って」  ぼんやりとタケの顔を見る。酔った頭で最悪のことを考えているレンの顔を、タケはのぞきこんだ。  いい人だ、と思う。この人は自分の意志を確認してくれている。サキさんを軽率に誘惑した自分とは大違いだ、とレンは思った。 「付き合うって……」  おうむ返しで答えると、タケはゆっくりと立ち上がった。テーブル越しに手を伸ばし、レンの頬に触れる。 「……お前見てると、なんか……おれもその、チャンスもらえないかっていう気になるんだよ。なぁこのグループの中なら、おれが他の奴から守ってやるから、さ」 「守ってもらうとか、そういうの別に、いらないと思います。さいたまでも無責任に煽った奴はけっこういたけど。オレは今のとこ、誰とも寝る気ないし」 「いやその、寝るっていうか、おれと付き合わないかって話。ここに来た時から面倒みてやってるし」  タケに触れられても、レンは何も感じなかった。ただ、サキにこれ以上近づいてはいけないという決意だけが心の真ん中に据え付けられ、それを包む何か柔らかい感情のようなものの表面に、硬い鱗がパキパキと広がっていくイメージに、レンは囚われていた。  だから、タケが控えめに唇を重ねてきても、レンは自分が何をされているのかわからなかった。温かく弾力のあるものが押し付けられ、湿ったものが唇を割って入りこんできても、頭のどこかで他人事のように観察しているだけだった。  自分は何をしてるんだろう。  途中で思いついたのは、それだけだった。レンはタケの胸をゆっくりと押し、顔を離した。ためらいながら言う。 「ありがたいんですけど……今は誰とも付き合う気はないんで……」 「なんで」  タケは身を引くと、椅子に座って頬杖をついた。目が覆われ、その表情は伺い知れなくなる。 「だって別にサキさん狙ってるわけじゃないんだろ? さいたまの時みたいな派閥争いも、ここならないし……。守ってやるって言ってんのに」 「……すみません」 「なんでだよ」  面倒なことになりそうだ。レンはやっと気づいた。サキのことに気を取られていたが、もしかして今、自分は2人きりの空間でタケに関係を迫られているのか?  レンはガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。 「あの、ちょっとミヤギさんに仕事のことで話しておかないといけないんでした。すみません、今夜はこれで」  ミヤギの名前に、タケがぎくりと固まったのがわかった。ここで変なことをすれば、確実にグループから追い出される。そのことに思い至ったらしい。 「あ、あぁすまん……」  タケはしぶしぶ立ち上がった。レンは突っ立ったまま、タケを見送る。彼はドアのところでもう一度振り向き、何かを言いたそうにした。どうして自分は、今夜この男を部屋に入れたのだろう。後悔と、そして自分のすべての軽率さに心の中で毒づきながら、レンはじっとタケを見つめた。  悪いのはタケじゃない。何も考えずに行動した自分自身が、きっと誰かを追い詰めている。  少しの申し訳なさをこめて頭を下げると、タケが溜息をついた。 「考えておいてくれ……おやすみ」  それだけを言い残し、タケは自室へ引き上げていった。

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