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第28話 【2年前】(13)

 1週間、レンを見ていない。  サキはそのことを考え、顔をしかめた。第3は今、境界線近くの作業に出ている。そのことを事務室のボードで毎度確認している自分もどうかしているし、「何日」というのを数えているのもおかしい。  避けられているというのが、最初に浮かんだ考えだった。シャワーを借りに来ることもなく、事務室にも立ち寄らない。そうなると、サキとレンとの接点はほとんどなくなってしまうのだ。2日に一度は外を全部回ってチームリーダーたちと話してくるのだが、その時もレンは姿を現さない。  他の者には抱いたことのない感覚に、サキはいらついていた。どうしてレンが見えない。誰かにいじめられ、閉じこもっているんじゃないだろうか。次に出てきたのがその考えだった。自力でそうしたことは排除できそうな気がしていたのだが、グループの中では若い方のレンが、トラブルを持て余している可能性はゼロじゃない。  とにかく一番の問題は、サキがそうして常にレンのことを考えている、ということだった。  今まで誰にも、こんな感情を持ったことはない。  レンの目が見たかった。湖の底に射し込む光のような──曖昧に揺らいでいるのに澄んでいる目。  事務室で夕食を食べた後、サキはこの後どうするか迷っていた。宿舎に戻っても、自分を見ている目がある。レンを探しにうろうろするわけにはいかない。  何か本を漁ろうかとも思ったが、どうせ読む気にはならないだろう。かといって仕事をする気にもならない。日が暮れて遠出もできない時間。  事務室のボードで明日の予定を確認すると、サキは仕方なく、図書館内の巡回を始めた。時々、自分で施設を見て回る。ガラス窓が割れていないか、開放空間の本が乱雑になっていないか。戦前から置かれている消火器をどうするか。壊れている場所や侵入者の形跡はないか。蛍光灯は? そうした細かい所をチェックするのだ。  屋上の警備と話してから、サキはそうして、大半の者が宿舎に引き上げた後の図書館をさまよった。  2階の閲覧室横を通り、書架を回る。全集類のそばを、人目を忍ぶカップルに気づかぬふりで通り過ぎる。大研修室の窓をチェックし、AVブースや自習室を見て回る。  1階に下りると、サキは巡回を続けた。グループ研修室、規則正しく並ぶ書架。その奥、壁と書架との隙間のような場所に点在する自習スペースの方へ向かう。  一番奥の角からほのかな光が漏れているのに、サキは気づいた。ここ数年、その隠れ場所のような小さな隅に人がいたことはない。  不審に思い、サキはそっと近づく。  書架の角から顔を出し、サキは動きを止めた。  レンが、本を眺めていた。手元に寄せたスタンドに、横顔が浮かび上がっている。  寂しげな顔だった。泣いているのかと思うほど深く沈んだ色の瞳が、じっとページを見ている。椅子の上で片膝を抱え、丸くなって壁に寄りかかるような姿勢だった。  指先が、本の写真をそっと撫でる。睫毛が瞳を守り、数度またたく。唇が、書かれている文字をそっと囁く。声にならない声で。雑に切った髪の襟足から、甘いうなじが見えていた。そこから、少し日に焼けた首筋がTシャツの中へ続いている。  サキに見られているのに気づかぬまま、レンが小首を傾げた。本の向こうに遠く懐かしい情景を見つめている目で、レンは物憂げにページをめくる。眠くなってきたのだろう。ゆっくりと顔が下がる。静かに目が閉じる。  じっと立つサキの視線の先で、レンの頭がかくんと落ちた。はっと身を起こし、顔を上げた拍子に、レンはサキに気がついた。 「サキさん……」  こちらを向き、驚いたように見開かれた目を、サキは見つめた。一瞬、怯えが走ったように見えたのは気のせいだろうか。  サキは足を踏み出し、レンの方へ近づいていった。途方に暮れた顔で、レンは座っている。驚かさないように細心の注意を払って、サキはゆったりとした動作でデスクに手をつき、穏やかに聞いた。 「……何の本だ?」  レンは静かに答えた。 「料理の本です。野菜の切り方とか、なんかそういう細かい作業の説明を写真と一緒に読むと面白くて」 「そうか」  サキは目を細めた。  ほんの微かにレンの口元に浮いた笑み。実際に料理をするところを思い浮かべたのだろうか。ページの上で、指先が揺れた。 「いい本だな……写真と一緒なら言葉も理解しやすいし、自分が料理するところを考えるのは楽しいんじゃないか?」 「えぇ……でも、サキさんが読んでるような難しい本じゃない」  サキは手を伸ばし、本を持ち上げた。ぱらぱらとめくる。家庭料理の基本的なもののレシピが順に説明されていた。 「難しいものだからって良いとは限らない。大事なのは、お前自身が読んで楽しいと思うこと、そして書かれていることをちゃんと理解できることだ。お前が料理に興味を持ったのなら、この本はお前にとって大事なものだ」  サキは、さっき開いていたページを再び開きレンに返した。種はずっと撒き続けてきた。チームの者たちは、こうして少しずつ自分が読めるものを見つけ、できることを思い描き、自分の人生を考え始める。 「向こうの大通りに、ちっちゃな定食屋があるだろ? 戦前からやってた人が戻ってきて、あそこで頑張ってる。今度一緒に行こう」  サキがそう言うと、レンはわずかに嬉しそうな顔をした。もっと隠さず笑えばいいのにとサキは思う。元々感情が薄いのか、それとも感情を露わにすることに慣れていないのか、レンの表情はいつも曖昧だ。  レンだけではない。人々の表情は乏しくなった。誰もが家族を亡くし、明日の食糧と寝る場所を探している。心の一部をえぐり取られた者は、傷を誰かと共有する術を持たない。喉は詰まり、言葉は出てこなくなった。  デスクの横の壁に寄りかかり、サキは開いたページを穏やかに見下ろした。ポテトサラダの写真だった。懐かしい思い出は、いつも食べ物と共にある。 「……俺が大学生の頃、いつも弟と2人だった。両親とも医者だったんで、空爆が激しくなると中央軍事病院に召集されたんだ。両親が行ってしまうと、俺は大学で勉強しながら弟の面倒をみた。弟はまだ中学生で……。学校から帰ってくると、よく一緒にカレーとポテトサラダを作った」  レンは黙って聞いていた。 「料理は楽しかった。簡単なのでいいんだ。本も料理も、難しいものなんか必要ない。スーパーの惣菜でもいい。弟と一緒に学校であったことを話しながら食べるだけで、それはご馳走になった」  まだ両親が生きていて、弟が一緒だった日。両親は毎日必ず兄弟にメッセージを送ってきた。『ご飯は食べた?』『薫、陽哉はもう寝たのか?』父も母も、軍事病院の中で兄弟の存在を支えにしていた。  結局、日常を壊したのは戦争だった。タカトオを憎んだところで、家族は戻ってこない。諦めることでしか前は向けない。 「サキさん?」  黙り込んだサキの顔を、レンは見上げている。 「あぁ……お前の部屋のコンロって使えるのか?」 「一応。でもそのうち東京を出て、ちゃんと暮らせる所に戻るべきなのかもしれませんね」  サキは頷いた。いつか、こんな殺伐としたところではなく、人間がまだまともに生きている場所へ行ったほうがいい。レンも、自分も。 「将来のことを考えるのはいいことだ。そのうち、お前が作ったものを食べさせてくれるといいな」 「だいぶ先のことだと思いますが」  レンが微笑んだ。  触れたら、レンは逃げるだろうか。そう思いながら、柔らかくほころんだ口元を見つめる。デスクの横、レンが見える場所でゆっくりと床に座り、胡坐をかく。レンと話せた、それだけで心が緩む。少しでいい、あとちょっとだけ、このままの時間が続いて欲しい。 「お前は、どんな料理が好きなんだ?」 「子供の頃、祖母が作ってくれたコロッケとか……唐揚げとかが好きでした。あとは何だろう、角煮かな」 「そうか。どこに住んでたんだ?」 「長野です。戦争なんか全然実感がなくて、いっつも山の中を走って遊んでました。サキさんは?」 「俺は……ここから3つぐらい隣の駅のところに実家があったんだ。小学校から大学まで、この図書館に通って本を借りてた」  レンが頬杖をつく。ひどく優しい目が、サキの視線と交わる。 「そうか……だから」 「あんまり他の奴に言うなよ」 「どうして?」 「実家が見たいとか、変なことを言われたら困る」  くすりとレンが笑う。 「そうですか? サキさんが子供の頃って……想像つかないな」 「別に想像しなくたっていい。本ばっかり読んでる、面白くもない子供だ」  穏やかな沈黙が流れた。レンの今にも寝そうな目を見ていると、サキも眠くなる。重くなってしまった体を叱りつけて、サキは立ち上がった。 「疲れてるんだろう? その本は宿舎に持っていくといい。ここで寝たらだめだ」  手を差し出すと、レンはぼんやりしたまま、サキの手を取った。 「ほら、立って」 「はい……」 「はい、じゃなくて、立つんだ。一緒に宿舎に戻ろう」  レンの目が閉じ、頭がぐらりと傾く。とっさに、サキはレンを抱き留めた。温かい体がぽすんとサキの胸に落ちる。 「ここで寝たらだめだって……」 「……はい……」  やれやれ。サキはレンの体を持ち上げると、自分が椅子に座った。それからレンを横抱きに抱え上げ、頭を胸にもたせかける。  レンの体から力が抜けた。無意識だろう、頬をサキのTシャツに摺り寄せ、レンは穏やかな顔で寝息を立てている。 「レン」  耳元で囁いてみる。レンは「ん」と鼻にかかった声を上げただけで、起きる気配がない。  仕方ない。ものの30分も寝れば、多分、移動するだけの意識は戻るだろう。  胸の上に、レンの温もりがある。髪を撫でると、サキはその額にそっと口づけた。どうしてなのかわからない。レンの重みはひどく嬉しくて、こうして肌をくっつけ、熱を共有しているだけで自分も眠くなってくる。  30分だけ──それだけでいい。充電させてくれ。  サキはそうして、レンと一緒にうたた寝をすることを自分に許した。

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