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第37話 蒲田にて(18)
「おい、入口がないぞ。怜 はどうした」
隙間風の吹き込むブルーシートをかき分けスーツ姿の木島が入ってくると、沢城がひどい顔で振り向いた。食堂はいつもと同じように、食事をする労働者が出入りしている。その中に堂々と入ってきた木島に、辺りは静まり返った。
「あ~、今日ってそういや金曜日でしたっけ……」
沢城が嫌そうに呟く。夜8時、全部片付けて何とか夕食のラッシュに間に合わせたものの、従業員の雰囲気は重かった。
「怜はどこだ」
「2階にいます。今日はやめておいてくれませんかね」
沢城は木島の前に立ちはだかった。魂が抜けた顔の怜を見ていた者は他にもいる。手が空いている従業員が数人、沢城の加勢をするように近づいてきた。
「何があった」
「……」
お互いが顔を見合わせる。ここで当事者の名前を──怜の名字を含めて──出すのはまずい。
「事情を話しますから、こっちへ来てもらえませんかね」
沢城は仕方なく、厨房の更に奥にある倉庫へ木島を連れていった。
「で? 何があった」
沈黙など許さないという口調の木島に、沢城は諦めた。怜ならともかく、自分のような人間が木島に盾突いても無駄だということは経験上知っている。厨房の方から、心配そうな従業員が数人のぞきこんでいた。
「……昼間、ちょっと襲撃がありまして」
「襲撃? ここに?」
「やって来たのが、その、江藤さんなんすよ。それで怜さんと食堂で乱闘になって」
「なるほど。それで?」
尋問みたいだ、と沢城は思った。こいつに逆らうとただでは済まない、そういう迫力が木島にはある。
「江藤さんが怜さんを吊るし上げて、『一週間以内にこの食堂を出ていけ』って言ったんです。怜さんひとりが出ていけば食堂は無事だけど、陣を張るなら燃やすって言い残して行きました。あの、怜さんが高遠さんの息子だって、あんたは知ってたんすか?」
「元々、私は父親である高遠周に紹介されて怜に会いに来た」
「……なるほど」
沢城の口が歪んだ。
「このシマをどうする気です。あんたは何を企んでる」
木島が肩をすくめる。
「私はただの見物人だ。江藤と高遠が再び抗争状態に突入しても、私には痛くも痒くもない。勝った方にライセンスペンダントを与える。それだけだ」
「怜さんは?」
「あの子がどうするかは、あの子が決めることだ。違うかね?」
「そうじゃない。あんたは怜さんとどういう関係だ」
「それを君に言う必要はない。怜は部屋か? 連れて行く」
沢城は、思わず一歩踏み出した。
「怜さんは今動ける状態じゃない。おれは、東京を出ていくために必死で稼いだ金を全部強盗に盗られて死にそうだった時に、怜さんに拾ってもらった。怜さんに何かするなら、あんたを通すわけにはいかねぇ」
木島の目が細くなった。沢城の言葉を鼻で笑う。
「忠犬というわけか。あの子とはもう寝たのか?」
「は?! えっ? あんた怜さんと……」
「忘れろ」
それきり、木島は沢城に背を向けた。
「おい! だから怜さんは動けないって!」
沢城が木島の肩に手をかけた瞬間、木島の腕が動いた。一瞬で沢城の首を押さえ込み、足払いをかけて床にねじ伏せる。
「お前に決定権はない。あれは私のものだ」
力一杯もがいても、木島はびくともしなかった。冴え冴えと冷え切った目に、沢城は息を呑む。
「怜のことは私が処理する。江藤のこともな。食堂はしばらくお前が指揮を取れ」
傲然と言うと、木島は沢城を床に転がしたまま身を起こし、そのまま厨房を抜けていく。誰も止めることができない。
沢城は首をさすりながら起き上がり、木島の後をついていった。何とか隙を見て止めないと。その焦るような義務感が沢城を動かしていた。
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