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第87話 【2年前】(64)

 空は晴れていた。太陽は少しずつ西へ向かっていたが、気温はまだ高い。  高台にある宿泊所の玄関前広場から、レンは北を見渡した。中央線は奥に霞んでいて、ところどころ煙が上がっている。視界の真ん中を川が横切っていて、両側は戦前のままの街並みが色あせて残っていた。街の中には広めの緑地が、手入れされないまま今も点在している。灰色の煙で視界が悪い場所はあちこちにあって、レンは煙の出所を見極めようと目を細めた。作戦はもう数時間続いていて、レンはすでに、自分がこの宿泊所と戦場とを何往復したのかわからなくなっていた。  なにも知らずにこの光景を見れば、戦前と変わらず平和に見えなくもない。朽ちかけてはいても建物は残っており、時折、ひび割れたアスファルトを車が通り抜ける。車が貴重品になり、渋滞が都市伝説のように扱われるようになっても、人々はまだどこかからガソリンを調達し、部品を取り換え、東京の外から車を持ち込んでくる。  公立マーケットの老人たちは、懐かしそうに言う。昔、中央線は高架じゃなくてね。開かずの踏切って知ってるかい?  レンは長野にいたとき電車を見たことがあった。戦前の都心では、10両以上もの編成が数分おきに走っていたんだそうだ。そんなに電車を走らせないといけないなんて、一体どれほどの人間がいたんだろう。  ぼんやりとそんなことを考えながら、レンは中央線南の一帯を眺めていた。広々としたこの区域、見渡す限りがサキとエトウの共同統括下にある。風景と、そうした「支配圏」といったものを、レンはこれまで意識して結び付けたことはなかった。  ここで生きている人々、流れていく物資。それらを管理し全員に行き渡らせるために、サキたちはシステムというものを作り上げている。『政府』から支援物資が来れば一覧にし、ルールに則って分配する。食糧を他の地域から仕入れる人々がいて、それを運ぶ人々がいて、公立マーケットなどで売る人々がいる。車はそうした流通を担う大切な手段とされていた。  統治というのは、そうした人々の考えや動き、仕草を具体的に想像できるかどうかが大事なんだろうか、とレンは思った。何が足りなくて、何が必要なのか。サキは暗い書庫に陣取っていながら、そうしたシステムをよく見極めている。この区域は確かに貧しいけれど、タカトオのところのような荒んだ雰囲気はなく、誰もがそれなりに何かの仕事を見つけ、その日食べる物を手に入れ、お互いに分け合う。そういう人間らしいやり取りが、ここでは自然に行われている。畑をやる者もけっこういて、そうした人たちは尊敬されていた。  突然、どこかで散発的に銃声が響いた。じゃり、と土を踏みしめる音がして、レンは振り返る。宿泊所の記録係との引き継ぎを終え、タケが車に戻ってきたのだ。その後ろには交代した看護師もひとり、ついてきていた。 「今の音、どの辺だ?」 「たぶん、あそこですね」  レンは指差した。川の向こう、建物の間に見える緑地のひとつから、細い煙が新たに上がっている。 「さっきロケット砲が発射されて、それから銃撃戦がありました。まだ続いているので、おそらく次はあそこです。ミヤギさんが指示を送ってくる前に、戻りましょう」  レンは白いバンの運転席に乗り込み、エンジンをかけた。タケが助手席に乗り込み、看護師も後部の広い空間に黙って乗り込む。  どこかで再び、乾いた爆発音が鳴る。  この空のどこかに父親がいる。それは確かだ。でも、父がいようといまいと、ここは自分が生きていかなければならない場所なのだ。  薫さんは図書館の上で何を見据えているんだろう。  自分より遥かな未来を見通す男。彼を信頼し、多くの者が命を賭ける。自分もだ。彼がいなければ、レンは父親に屈服して人生を終えるはずだった。  ショルダーホルスターからベレッタを抜き、スライドを確認して戻す。もはや無意識にできるようになってしまった仕草を、レンは突然不思議に思った。撃つと決めた時にためらわなくなったのは、いつからだろう? 自分はこの街で、生き抜いている。  隣でタケが同じように銃を確認する。左肩が固定されているので、膝の上でやりにくそうだ。それでもきちんと武器の状態を見ると、タケはそれを膝上に置いた。向こうの作戦区域に戻ったら、さっきまでと同じようにレンは運転に集中し、タケは助手席で警戒する。 「そういえば」  タケがぼそりと呟く。 「サキさんも……エグいよな」  言っている意味がわからず、レンはタケを見返した。 「お前の首の後ろ、それやったのサキさんだろ」  よくよく考えてから、はっと気づいて手を回す。夕べの噛み跡! 「も、もしかして……」  タケは後部座席の荷物の中からタオルを出した。 「いつ言おうか迷ってたんだ。首に巻いとけ」 「え、みんな気づいてたんですか?」 「ヘリから降りてきた瞬間に全員気づいたと思うぞ? どうせサキさん、わかっててやってんだろうけど」 「うわ……」  タケは溜息をついた。 「あの人、けっこう独占欲強いんだな。おれが入る余地なんて最初からなかったって感じか」 「すみません」  レンは車を発進させた。のんびりした坂道を、バンはゆっくり下り始める。 「……でも、なんでオレなのかなって思います。他にも有能な人はいっぱいいるのに」  考えるより先に、言葉はレンの口から出ていた。タケはずっと自分を見てくれていたし、いつも相談に乗ってくれた。この人と付き合った方が精神的に楽だったんじゃないかとさえ思う。  タケは背もたれに寄りかかり、考え事をしている様子で答えた。 「どうだろうな。好きになるのに有能かどうかは関係ないんじゃないか? サキさんもずっと気を張ってる人だから、お前みたいなのと一緒だと、ほっとできるんだと思うけど」 「オレみたいなの?」 「野心が全然ないだろ? お前。サキさんと付き合ったからって、それを利用して地位を上げようとか思わない」 「え? サキさんと違ってオレは何にもできないのに、サキさんと付き合っただけで地位は上がらないんじゃ。他の人にレイプされることは、確かになくなると思うけど」 「そういうとこだろ」 「?」  レンのきょとんとした顔に、タケが苦笑いをした。 「権力を笠に着たりしないお人好しなとこが、お前のいいところだ」  そうなのか?  褒められている感じがしなくて、レンは口を閉じた。やっぱりみんな、そう思うんだ。オレがぼけっとしていて、薫さんの横にいても無害な人間なんだって。  どこかでまたロケット砲の爆発音が響き、振動がずしんと腹に届いた。レンは余計な考えを振り払うようにアクセルを踏み込み、戦場となっている平野へ向かって坂道を下りていった。

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