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第166話 『東京』にて(11)
怜は目を覚ますと同時に呻いた。吐き気に襲われ頭を動かせない。意志とは関係なく呻き声が漏れ、息が浅くなる。
頭をカチ割られたみたいに痛い……んじゃなくて、ほんとにカチ割られたんだっけ。
口を開けると、涎が頬を伝って流れ落ちた。脂汗でシャツがぐっしょり濡れている。
これ、頭を動かしちゃいけないやつだ。
誰かに硬い物でブン殴られたのは覚えている。その直前の薫さんの怒鳴り声も。
薫さんが撃ったのは影武者。それなら、自分を殴った奴が誰かはわかりきっている。
何とか身を起こそうとしたが、動かそうと思っただけで頭に激痛が走った。
頭蓋骨、割れたかな。
痛みのせいで考え事どころではないが、怜はなんとか目を開け、周囲を確認した。
3畳ほどの小さな部屋だ。3方が素っ気ないコンクリートブロックで囲まれ、正面の壁は鉄格子になっていた。もろに監獄だ。ヒンヤリと湿気た床はリノリウムで、全体にカビ臭かった。知らない男の顔がひょいと鉄格子の向こうからのぞき、すぐに消える。見張りのようだ。
あ~、オレの目が覚めたって、あいつに報告する気だな。
苦労して頭をもたげ、ずるずる這って鉄格子に向かう。壁に寄り掛かって座ると、吐き気がこみ上げてきた。
ただ吐くのはもったいないから、あいつが来たら顔に吐いてやろう。
そう思いながら、もう一度横になる。角度を変えたおかげで、鉄格子の向こうがさっきよりはよく見えた。
とはいえ別に変わったものはない。目の前を広い廊下が横切り、斜め奥には会議用テーブルとパイプ椅子が置かれていた。退屈そうな男がひとり、所在なさげに座っている。さっきのぞいてきた男だ。なんだかオフィスのような雰囲気だった。
見張りはひとりじゃないんだろうな。
怜は頭痛に耐えるために、薄目でさらに様子を伺った。廊下の奥からかすかに話し声が聞こえる。けっこう人数が多そうだ。特に目的があるわけではなく、普通に雑談をしているようだった。
上を見ると、カメラがこちらを睨んでいる。なるほど、あの退屈そうな男は他の仕事ができない無能と見た。本命はカメラで監視している方だ。
武器はすべて取り上げられていたし、ジャケットは脱がされて肌寒い。白かったシャツは薄汚れてゴワついていた。
やれやれ。御大層に戦車まで持ち出してきたのに、結局あいつ、めちゃくちゃオレの読み通りに行動しやがったのか。
高遠は怜を他人に殺させることはできない。怜を実際に自分の足元に転がして勝ちを確認しなければ気が済まない。
まぁ正解を出しても、別に嬉しくはないんだけど。
ぼんやりと部屋を見渡す。一回吐いておきたいけど、ここトイレがないな。
誰かを監禁するにしては不完全だ。それなのに、別に臭いわけではない。床には何かを引きずった形跡があり、乾いた血がこびりついていた。怜はのろのろと手を上げて、ズキズキ痛む場所にそっと触ってみた。
大きなタンコブができてはいるが、出血はしていない。激痛をこらえて骨に触ってみたが、陥没はしていなかった。
怜は微かに笑った。オレが死んだら、あいつが考える最高の舞台は台無しだからな。ドラマチックに薫さんとやり合うなら、薫さんの目の前でオレが死ななきゃ意味がない。それに、関係ない邪魔者がいるのも、あいつはお気に召さないだろう。
なんていうか、思った以上にあいつバカだな。
溜息をつきながら、少しずつ考え事を進める。
ここにトイレはない。オレは出血していない。なのに床には、以前ここを使った形跡がある。
なんでトイレがないんだろう。もう一度、リノリウムの床から壁を注意深く見る。コンクリートブロックの向こうはどうなってる?
頭をそろそろと下ろして、カメラに顔が見られないように斜めになる。コンコンと叩いてみると、籠った音が小さく返ってきた。
う~ん、なんか……分厚いな。
逃げるのは無理そうだと判断して、怜は起き直った。なんとなく引っかかる。トイレがないのに監禁に使うなら、トイレはどこだろう?
「あの~、トイレに行きたいんですけど」
声を出すと、さっきの男が眠そうな顔で立ち上がった。無言のまま近づいてくると、カメラに向かって指をくるりと回す。カメラの上にあったライトが青く点滅するのを確認してから、男はポケットから鍵を出した。
なるほど、トイレに連れて行ってくれるわけね。
だが、目論見は外れた。廊下の奥が騒がしくなったかと思うと、ドアが開く音がする。複数の足音がして、高遠が姿を現わした。
「なぜ鍵を開けようとしている!」
叱責に、見張りの男は焦った顔をした。
「いやその、トイレに行きたいって言うもんスから」
「私の許可なく動かすな! 他の者とは違うんだぞ。見ろ、逃げる気まんまんなのが顔に出ている」
まだ逃げようとはしてないんだけどな。怜はそう思って笑いそうになった。なるほど、以前は高遠がこちらの考えを言い当てるのを怖いと思ったが、実際にはハッタリや思い込みを自信満々に言うことで、「そう言われると、そういう感じがする」とこちらに思わせていたわけだ。
そんなこと言われたって……という顔の見張りに向かって、怜はわざと表情を作ってやった。あなたの気持ちはわかりますよ。一方的に怒鳴るボスなんて、ほんと嫌ですよね。あなたはちゃんと仕事をしているのに。
怜の顔をちらっと見ると、見張りは椅子に戻っていった。
高遠はそんな怜を睨みながら、自分で鉄格子の鍵を開けた。部下のひとりと一緒に入ってくる。
「成長したつもりか。怜」
「つもりじゃなくて、成長したんだ。退化したあんたと違って」
「……その物言い……」
「薫さんに似てきたって? 当たり前だろ、あんたと違って薫さんに大事にされてるからな」
高遠の目が怒りで細くなった。それを見ながら怜は冷静に考える。
こいつ、ちょっと太ったんだ。宣戦布告の動画をオレは見てないけど、薫さんは見たんだな。情報って、ちゃんと出てきた時に知っておくっていうのが大事なんだ。
「その薫とお前は、もう二度と会えない。残念だったな」
「少なくとも、死体になれば会えるんだろ? オレを殺せば、あんたはお望みどおり薫さんに地獄へ送ってもらえる。よかったな」
「ずいぶん口が軽くなったものだ。薫と良い仲になって、浮かれているのか」
「別に? 浮かれてるんじゃなくて、あんたを煽ってるんだよ」
高遠はそれに乗らず、背後の部下に指先を振った。部下が頷き、怜に近づく。手にはトランシーバーのような機械を持っている。
「何する気だ?」
部下は答えず、怜の体をひっくり返した。忘れようと努力していた頭痛が、再び怜の体を捕らえ、怜はうめいた。部下は機械を怜の体に当て、何かを探すように動かした。
「まずは、薫の目と耳がないかを調べる。話はそれからだ」
ピーピーと警告音が響き、部下が怜のジーンズに手を伸ばした。
「ありました」
「やはりな。薫のことだ。飼い猫には絶対に鈴をつけると思った」
部下は怜の腰からGPSタグを外すと、さらに全身をくまなく探っていった。靴のところで再び警告音が鳴る。怜はとっさに部下の顎を蹴り上げた。その勢いを使って一気に立ち、入口に走る。高遠についてきていた部下は残り3人。
ひとりの股間を蹴り、身を翻して次の奴の目に指を突っ込む。最後のひとりが殴ってくる。身を屈めてかわし、腕を掴んで転がす。走り抜け、ドアに思い切り体当たり!
ドアを抜けると同時に怒声が響き、一気に大量の人間が怜に覆いかぶさった。
肋骨が折れる! 歯を食いしばった怜は、あっという間に腕をねじり上げられ、うつぶせに拘束された。頭痛に顔をしかめながら視線を上げる。
走り抜けた廊下では、怜に転がされた男たちがもがいていた。椅子の上によじ登った最初の見張りが、怯えた顔で怜を見つめている。高遠がゆっくりと鉄格子の向こうから出てくる。その奥から、GPS探知機を持った部下が顎を押さえて顔を出す。
「言っただろう? 油断するなと。まったく……」
GPSの部下は歩いてくると、両手両足を押さえつけられている怜に近づいた。靴が再び警告音を出す。怜はめちゃくちゃに暴れたが、人数が多すぎた。
部下は無表情なまま怜の左靴を脱がせ、あちこちいじっていたが、やがてかかとに仕込まれていたタグを見つけて取り出した。つかつかとやってきた高遠にそれを渡す。
「ありました」
「くそ……」
思いきり悔しそうな顔になった怜を、高遠がせせら笑う。
「お前のその戦闘能力は、殺すには惜しいがな。まぁ致し方あるまい。わかっただろう? 油断するな。トイレに行きたがった時は、鎖で両手両足を拘束してから連れていけ」
見張りの男がコクコク頷く。怜はそのまま5、6人に引きずられ、独房に戻された。
「靴返せよ!」
無情に閉められた鉄格子の向こうから、高遠が怜を冷たく見下ろす。
「残念だな。ここはGPS信号が遮断されている。発信機など、あってもなくても変わらないのだが、お前の精神的な拠り所は奪っておかねば、何をするかわからないからな。衛星からも、ヘリでの目視からも、薫はここを見つけられない。怜。そこで頭を冷やせ。お前にはまだやってもらうことがある」
部下が近づき、高遠の耳元で何か囁く。「時間です」という言葉が怜にはかろうじて聞き取れた。
「少し用事があるが、終わったら本格的に始めよう」
勝ち誇った視線で怜を一瞥すると、高遠は部下を連れて監獄から引き揚げていった。
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