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第170話 『穴』にて(2)

 どこか清々しい気分で、怜は硬い床に転がっていた。  高遠のバカは、どこまでいってもバカだ。部下が来るまでテーブルの下敷きになったままだったくせに、今は部下に当たり散らしている。  銃声からしばらく経っても指示が来なかったことで、高遠の部下たちは不審に思って恐る恐る部屋に来た。怜にしてみれば、連中も高遠ものんびりしている。どうしたらいいか判断するのに部下たちは時間をかけ過ぎだし、怜を舐めてかかって緊急事態にどうするか決めていなかった高遠もどうしようもない。おまけに、一応助けに来た部下に八つ当たりするなんて、呆れるばかりだ。  怜はおとなしく拘束され、今は高遠の部屋の隅にいた。後ろ手に手錠をはめ直され、足は鎖で壁につながれ、鎮静剤を打たれている。  あの監獄だと何もできなかったのだから、高遠に言いたい放題言える場所に移動できたというのは、かなりの進展だ。  長年の鬱憤を晴らしたことで、怜はかなり気分が良くなっていた。鎮静剤のせいかもしれないが、とにかく笑いたくて笑いたくてしかたがない。  くすくす笑っている怜を、高遠も部下たちも、怪物を見るような目で見ていた。その光景が面白くて、怜は笑いが止まらなくなった。 「……いい加減にしろ」  高遠の恫喝に、怜は目に涙を浮かべて見返してやった。 「だって面白いんだから、しょうがないでしょ」  こめかみをピクリとさせる高遠が、もう笑えてくる。ひとしきり笑うと、怜は疲れ切って静かになった。  頭がぼんやりする。薬のせいで頭痛はだいぶ楽になったけど、今度は細かい考え事ができない。  まぁ……いいか。ここまで来たら、物事はなるようにしかならない。  薫さんは今、どうしているだろう。  怜は薫の顔を思い浮かべた。優しい目でオレを見る薫さん。あともう一回、会えたらいいんだけど。  自分の人生の一部分を隠していたことについて、怜はかすかな罪悪感を覚えた。でも、薫さんはきっと、気にしない。すべては高遠に復讐するためだったし、こうやって言いたいことが言えるように導いてくれたのは、他ならぬ薫さんなんだから。  どんな時も、あなたはオレのそばにいて、ありのままのオレを愛してくれる。だからオレは、今この時も死ぬことを怖がっていないし、復讐がやり遂げられなくても後悔しなくなってる。  薫さんのお母さんや、オレの母さんみたいに、オレもなれると思う。その希望がオレを支えている。だから、高遠が何をしてきたって平気。お前なんか、オレの人生の大事な人じゃない。そう言えるのがどんなに幸せなことなのかを、オレは今考えてる。  ねぇ。薫さん。  あなたも、高遠のことなんか気にしなくていい。あなたが思い出すのは、オレのために買うプリンだ。そして、朝ごはんに作るスクランブルエッグだ。  眠くなってきた。  前は他人が近くにいると眠れなかったんだけど、今は眠れそう。薬のせいかな? どうでもいいや。  怜はうつらうつらし始めた。周囲の音がもわもわと遠ざかる。  そういえば、夕べから全然寝てない。今は何時だろう。どこもかしこも窓が全然ないから、時間がわからないんだけど。  空が見えないのって、変な気分……。  どれだけ、そうして転がっていただろうか。  突然乱暴に蹴られて、怜はのろのろと目を開けた。高遠が自分を見下ろしている。 「お前にやってもらうことがある」 「……めんどい」  ガンと腹を蹴られて、怜は呻いた。 「もう~、まだ何かあるの?」 「動画を作る。お前が私の息子として『東京』を統一したのだと、全国に流してやる」 「くっだらない。オレ抜きでやれよ」  鼻で嗤うと、再び腹に蹴りを入れられる。  かつての高遠は怜をどう利用するか考え、致命傷は与えてこなかったのだが、今はもう、後先考える気はなくなったようだった。暴力はエスカレートし、腹や背中や頭、ところかまわず爪先や踵が打ち込まれた。  丸くなって頭を守りながら、怜はこっそり周囲を確認する。部下のひとりが撮影しているのが見えた。録画されてるのを気にしないなんて、高遠はいよいよ余裕がなくなってきたなと怜は悟った。当然だ。怜が本性を出したのだ。高遠にとって、もはや怜は利用価値のある弱い息子ではなくなった。対等な敵同士となった以上、手加減すればやられる。 「私を甘くみるな。お前が屈服するまで、今度は手を抜かない」  宣言通り、高遠は力一杯怜の腹を踏みつけた。息が詰まり、怜は痛みに身をよじった。胃液がこみ上げてくる。うつむいて酸を吐くと、喉が焼けて口の中がねばついた。  それでも、怜は高遠をあざわらった。 「あは……あんた、マジで単細胞……げほっ、こんなさ、薫さんとオレとが『東京』をひとつにするのに……ごほっごほっ……駆け回ってる間、穴倉みたいなとこに閉じこもって、動画配信やってるなんて、あはは、それで、日本のトップになるって、ごほっ」  そうさ。あんたとオレは、同じ『穴』の底にいる。『東京』の一番深いところにある、死体と悲しみだけでできた『穴』、そこでオレもあんたも死ぬんだ。  ほんと、あんたはどうしようもない。息子に負けたのがそんなに嫌かよ。日本全国に勝ちを主張しないと気がすまないなんて。自己顕示欲とプライド、それらへの異様なこだわり。高遠は、長年自分の妄想の世界に生きて、何が正常かわからなくなっているらしい。 「あはは、おもしろ……『穴』の底に入り込んで、自分の国を作ろうなんて……おもしろすぎ……げほっ」  高遠は、怒りに任せて馬乗りになり、胸倉を掴んで顎を殴り、腹に思い切り拳を入れてきた。  怜は吐き気を我慢しなかった。高遠の顔に向かって胃液を吐きかける。ぎゃっという悲鳴のような声に満足して、怜は床に長々と転がった。口はもう止まらなかった。 「こんなの、あはは、『穴』の中で日本のトップだって……『穴』なんだから、ミミズかゴキブリの王様にしかならないのに……あはは、あは」 「黙れ。黙れ!」  激昂した高遠にさらにドカドカ蹴られ、ついに肋骨が折れたらしい。激痛が襲ってきたが、怜は笑い続けた。 「殺せよ。あんたがオレをいたぶるのは……自分が負けた腹いせだ」  高遠はついにキレた。怜の頭を持ち上げ、力任せに床に叩きつける。拉致された時のたんこぶに再び衝撃が与えられ、怜は気が遠くなった。  それでも、怜は笑い続けた。お前の負けだ。『穴』の中でしか威張れないミミズ野郎。薫さんに見てもらえない、ちっぽけなネズミ。抵抗できない相手しか殴れないクズ。  朦朧とした頭で、怜は天井を見上げる。  あとは……何が言えるだろう?  特にないか。  ボロボロにされ、静かになった怜を、高遠は荒い息のまましばらく見下ろしていた。 「……私がいるのは、『穴』の中ではない。もうすぐ……もうすぐ私はこの地から日本を統治する。あと少しなのだ。だが確かに……私はこだわり過ぎるところが良くないのかもしれない」  高遠は、不意に静かになった。 「一人息子は、私と共に働く気がないのだな」  妙に感傷のこもった言葉が降ってきて、怜はうっすら目を開けた。  親子は沈黙の中で互いを見ていた。  もしかして高遠って、オレが息子として自分の考えに同調することを、心のどこかで期待していたんだろうか。  こいつなりの歪んだ方法で、親子関係を築こうとしていた?  そう言われてみれば、こいつは2年前も結局オレを部下たちの慰み者にはしなかった。マンションの自室にオレを連れてきて、ダイニングテーブルで話した。今回も……。 「アホらしい」  怜は呟いた。親なら、親らしいことしろよ。一度もオレを愛さなかったくせに。弱い息子と嘲って、徹底的に利用したくせに。  高遠は、オレに弱い息子でいて欲しかったんだろうか。自分のために働き、自分がトップに立った時に後を引き継ぐ息子。  想像してみたが、怜には何の感傷もわかなかった。自分に奉仕する存在を息子だと思う、その発想自体が歪んでいる。親なら子供の自立を喜べよ。あんたは結局、家族にも想い人にも依存しかしてない。  激痛の中で深呼吸をする。  覚悟を決めろ。オレはもう二度と薫さんには会えないかもしれない。それでも、あなたはオレのそばにいる。  母さんとばあちゃんのために、オレは目的を達するだろう。薫さんのために、オレは高遠を仕留めるチャンスを作るだろう。  目を閉じて、怜は最後の引き金を引いた。 「あんたみたいなミミズを親にもった覚えはない。『穴』の一番底で、勝手に死ねよ」

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