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裏切りと妄執

「うちの店に菓子を食べにきていた子が、王子様なんて知らなかった」 ぽつりとマーカスは言った。マーカスの父親が料理人であることをオーベリウスはぼんやりと思い出した。 「食べ方が下手くそで食べかすが床にポロポロ落ちて、行儀悪いって怒ったらそんなこと初めて言われたって目を丸くしてた。 手で掴んで齧り付いて食べるなんて、したことなかったんだろうなあ」 マーカスは王子に寝物語を聞かせるように思い出を語った。 それがきっかけでよく話すようになり仲良くなったこと、こっそり城から抜け出していたことがばれ会えなくなったが、手紙のやりとりだけは許されたこと、そのかわり他言無用だと言われたこと。 手紙の頻度が減り、王子が病にかかったことを風の噂で知ったが一庶民の自分には何もしてやれない。 「だから、宮廷魔術師になろうと思ったんです。そうすればずっと、助けてあげられるから」 マーカスはオーベリウスに振り返った。 「ありがとうございます先生」 紫の目は、愛に溢れていた。 「ふざけるな」 オーベリウスから獣の唸りに似た声が発せられた。 オーベリウスの両の手はマーカスの細い首にかかり、猛禽の爪の如く食い込んだ。 「そんな理由で、宮廷魔術師に?」 夜毎やってくる囁きが響き始める。 やはりお前は無能なのだと。 出てくるなと念じつつも、頭の中で自身が唱える呪詛が後から後から湧き出てきて、囁きと混ざり合っていく。 ささやかな友情のために。そのためだけに、智に身を捧げてきたというのか。その崇高で純粋な想いに比べて、ただただ欲のために宮廷魔術師を目指して来た自分はなんと浅ましいことか! そして、自分のようになりたいと語ったのはそのためだったのか。 目的を果たせば師は用済みなのか。これからは、愛しい者と生き栄光の道を征くのか。 私を置き去りにして。 裏切り者め!裏切り者め!裏切り者め! 「お前っ・・・!お前さえいなければ・・・!」 劣等感も無力感も憎悪も、この世の悪しきものを煮詰めたような感情を感じることもなかった。 オーベリウスの中では今、地獄の釜のように黒い感情が煮えたぎっている。 ぎりぎりと歯を食いしばり、目を血走らせ、いたいけな少年の首を締め付けるさまはまさに悪鬼の如しだ。 マーカスの顔にはただただ戸惑いが浮かんでいた。憎しみや恐怖は欠片も見当たらず、なんで、どうして、という純粋な疑問だけをオーベリウスに語りかけてくる。 この後に及んで、まだ答えを求めるというのか。死の間際に瀕しても、探究をやめないのか。 オーベリウスは弟子からの問いかけに答えてやった。 「私は君が嫌いだ」 マーカスの目が一瞬だけ見開かれ、そこから光が消えていった。瞼が静かに閉じられて、眦から一粒の涙が溢れ頬を伝う。 それきりだった。 マーカスの身体から力が抜け重力と体重がオーベリウスの手に一挙に押し寄せる。 支えきれなくなった身体は王子のベッドに投げ出された。首にはネリネの花のような赤い跡がくっきりと刻まれている。 王子は微睡から覚める。青い目がオーベリウスを映す。オーベリウスから血の気が引いていった。

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