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ボールの世界 #8

 クララが傷つかないよう、なんとか両肘に上げた状態で倒れ込んだ。  見ればやはり、一匹のハツカネズミが雪雄の右足首にかじりついている。走った時に一瞬だけズボンと靴下の間の素肌を晒してしまったのだろう。このネズミはその一瞬を逃さなかった訳だ。皮膚に食い込んだ前歯が絞られるように痛む。 「糞ッ。離れ……あっ!?」  はたと気づけば、白いネグリジェの小さな少女は少し離れた先に倒れ伏していた。  手から放り出されてしまったようだ。 「クララ!」 「……たわ」  青褪めた雪雄が噛みついたネズミもそのままに助け起こすと、クララは聞き取れないほど小さく何かを呟いた。 「ごめん、クララ。俺がもっと気をつけてりゃ……!」 「殺ってやったわ!!」 「…………なんて?」  何かの聞き間違いかと思ったが、意気揚々とクララが指差した先には――目元にスリッパを叩きつけられた王ネズミが仰向けに倒れていた。  なるほど。倒れた時の勢いでスリッパがすっぽ抜けたか。  なんともいえない気持ちで苦笑いが漏れ出た。 「二人とも、本当に一緒に行かないの?」 「マジで気にしなくていいから。ほら楽しんで来いよ」 「俺たちは先を急いでいるからな」  薔薇モチーフの緞帳の前で、雪雄と一星は手を振っていた。  上がった緞帳の先では白薔薇が一面に咲き誇る雪景色が広がっている。  名残惜しげにこちらを振り返るクララは、くるみ割り人形から姿を変えた美しい王子とともに雪の国とお菓子の国へ旅立つところだった。  白薔薇の花冠の上には花の精が、降りしきる雪の合間には雪の精たちが、オーロラのように煌めくドレスを靡かせ舞い踊っている。 「天使のこと、残念だったわね」 「いいんだよ。途中からそんな気はしてたし」  大騒動の後、当然ながら天使はネズミ王の王冠から姿を消していた。流石のディープスリーパーもあれだけ騒がしくしていれば何かの拍子で跳び起きたのだろう。 「また見つけるさ。クララに怪我がなくて良かった」  自然と笑みを浮かべていると、横から一星がギリギリ頬をつねり出す。 「あでででっ。なにすんだよ!」 「何が怪我がなくて良かっただ。ネズミに血が出るほど齧られといて。作戦会議の時にあれだけ素肌は見せるなと言っておいただろう」 「別にいいだろ。雪の精が治してくれたんだから!」 「何がいいんだ。ネズミに噛まれたら普通はこんなものでは済まないんだぞ。分かっているのか」 「わかった、わかったから!」    二人の口喧嘩にくすくす笑ったクララは、花の精に「一緒に行かない代わりに」と語りかけた。笑顔で頷いた花の精は、雪の精と相談しながら空中に何かを生み出し始める。  雪が寄り集り、形を成したのは――擦りガラスの花弁を纏う、二輪の氷の薔薇だった。  クララには余りに大きすぎるサイズだが、周りの介添えもあって薔薇はきちんと受け渡しに成功する。 「ありがとうな」 「俺も貰っていいのか」 「もちろんよ。怪我させてごめんなさいね、ユキオ。囮を買って出てくれてありがとう、イッセイ。天使を捕まえられるよう私も祈っているわ。がんばってね」  愛らしいクララの顔に満面の笑みが彩った瞬間、シャン! と鈴の音が鳴って暗転した。  瞠目する間もなく、あのスノードームが目の前に現れる。 「またか」  一星がぽつりと呟く中、スノードームは再び映像を映し始める。  前回とは違い、今度はデパートの中庭にあるクリスマスツリーが浮かび上がった。まばらに客がいる中、学生時代の雪雄は一人でツリーを見上げていた。  周囲の客が声を上げて喜んでいるのに対し、雪雄はただ静かに立ち続けている。  雪雄の片目から音もなく一筋の涙が滑り落ち――瞬きをする間に、視界が赤く染まった。  リンゴのように真っ赤なオーナメントボールの前に戻ってきたことを知り、雪雄の肩から力が抜ける。  隣からもの言いたげな視線を感じながら、手にした氷の薔薇を見てふと笑みを零す。 「次、行くか」 「……そうだな」  聞きたいことがあるだろうに何も聞かず寄り添う一星に、少しだけ胸が熱くなった。

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