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第36話 竜紅人と紫雨 其の一

「──っ!」   竜紅人(りゅこうと)は言葉を詰まらせた。  こんな夜半過ぎに、事後の雰囲気漂う蒼竜屋敷に足を踏み入れた紫雨(むらさめ)を、無粋だと思いながらも、何やら差し迫った話があるのだろうと覚悟をしていた。  だが。  紫雨が淡々と話す内容に、竜紅人は何も言うことが出来ず、ただ床を見つめていた。  言葉を詰まらせながら、蕭蕭(しょうしょう)たる夜雨の音を、竜紅人は両膝を付き、頭を下げたまま聞いていた。  これが春冬(しゅんとう)長雨(ながさめ)であると、目の前の御仁から知らされたのは、つい先程のことだ。  この部屋に入ってすぐに、彼の深翠の瞳が自分を捉えた途端、あまりのいたたまれなさに、両膝を付き、頭を下げた。謝罪の言葉を口にしたわけではない。そして彼もまたそれを望んでいるわけではない。だが紫雨の深翠に自分の姿が映るのは、絶えられそうになかった。  そうやって何も言えないまま頭を下げていると、紫雨は面白そうにくつくつと笑いながら言うのだ。  お前は俺に頭を下げるようなことを仕出かしたのか、と。  この言葉を聞いて思い出されるのは、それまでに香彩(かさい)に対して行った仕打ちだった。  あの夜の事件があったにせよ、ほぼ初めての相手に自分はどれだけ責め立てたのか。最後はもう意識を失い、着替えさせている間も、寝床を整えている間も目覚めることはなかった。このまま下手をすれば昼刻か、もしくは夕刻まで眠り続けるだろう。  香彩に申し訳ないという気持ちはあるが、それを悪いことだとは思っていないし、ましてや後悔などしていない。  紫雨に対して頭を下げたまま、首を横に降るが、やはり心の何処かで後ろめたさがあるのか、あの深翠を見ることが出来なかった。  そんな竜紅人の心情を知ってか知らでか、紫雨は全ての感情を押し殺したようにも聞こえる淡々とした口調で、何故ここにきたのか、その詳細を語ったのだ。  細く絹の糸のようだった雨は、少しずつ強くなってきているのか、屋根を叩く雨の音が大きく聞こえた。  それは春を告げる恵みの雨。  だが竜紅人にとってそれは、覚悟していたことがあまりにも早く訪れ、間近に迫ったのだと教える無情の雨だった。  床に付いた手に、ぎゅっと力を込める。 (……核があいつの胎内(なか)に……) (……桜香(おうか)の光の玉と縁が繋がって……) (……血脈の宿命と『核』によって……)  ──香彩が『力』を失う……。  『力』を『術力』を失わない為には、成人の儀で大司徒(だいしと)が本来持つ『力』を継承させ、四神に『術力』を護らせるしかない。  その成人の儀は。  目の前にいるこの男と香彩が。  契ること。  大司徒(だいしと)の精に宿る四神と護守を、身体を奥深くに放ち、根付かせること。   「あまり刻はないが……覚醒の颶風(ぐふう)が吹くまではまだ猶予がある。だが……あいつを苦しませることになるのなら、早い方がいいと思うがな」 「──っ!」  その言葉に竜紅人は、反射的に頭を上げて紫雨を見る。  ぐっと奥歯を噛み締めた。  分かっていたはずだった。  いずれ明け渡さないといけないのだと。  しかも。  自分の所為で香彩は、唯一無二の『術力』を失うところだったのだ。  『術力』は香彩の所属している世界では、なくてはならないものだ。『術力』があるからこそ、司徒(しと)という今の役職に就くことができる。そして自分を含めた真竜や数多くの人に助けられながらも、自分の地位を確立させてきたのだ。  次代の大司徒(だいしと)だと期待されて。  類い稀なる『力』なのだと、生まれた頃から期待されて。  無意識の内に呼吸をしているように、ごく自然に当たり前に、香彩の中に存在していた『術力(もの)』を奪ってしまうところだったのだと知って、竜紅人は震える。  だが心の深いところの片隅で、どこか昏い悦びを感じていた事実を、竜紅人は認めざるを得なかった。  香彩の『力』を奪ってしまうところだったと、その恐ろしさに震えながらも、奪ってしまえば良かったのだと思う自分がいる。  『核』に光の玉が結び付き、香彩の『術力』を餌にしても、それだけでは身にならない。  擬似ではない()()()発情期の雄竜の熱を浴びて、それは卵殻と成す。  国のことなど考えず、ただ『力』を奪って。  自己の拠り所でもある『力』を失って、茫然自失となる香彩をここへ閉じ込めて、自由すら奪って。  発情期になるまで。  そして発情期になってからも、ひたすら愛でて掻き抱きたい。  やがて『核』が卵殻へ変化する為に必要な熱を、もう充分過ぎるくらい注ぎ込んだのなら。  もうこの男に自分の『御手付(みてつ)き』を渡す必要がなくなるのだ。    そこまで考えて竜紅人は、自分の昏い心を嘲け嗤った。  香彩がそれを望むはずがないのだと、分かっていた。(こえ)を使えば香彩は確かに従うだろう。だがそれはもう傀儡だ。自分の望んだ共にある在り方ではない。  同じ昏い部分を持つ香彩だったが、いざとなれば凛とした真っ直ぐな毅さを見せる。 (……それが分かっているから)  『核』のことも。  成人の儀のことも。  迷いながら戸惑いながらも、受け入れる姿が目に浮かぶのだ。 (……だったら)  だったら俺は。 (……少しでもあいつが傷付かないように、罪悪感を感じないように、動くのみ)  ぎっと奥歯を噛み締めながら竜紅人は、悠然と椅子に腰掛ける目の前の男に向かって、頭を下げる。  床に手と頭を付けて。  小さく嘆息する気配がしたが、竜紅人は構わなかった。 「……先程、眠りについたばかりだ。だから今はやめてくれ、紫雨」 

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