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第102話 馥郁たる土の香 其の一
何故だか今日は妙に疲れた気がする。
夜遅くに政務を終え、なんとか私室に辿り着いた療 は、目の前にある寝台までの道のりが、酷く遠くに感じていた。
陰陽屏に行って、香彩 に夢のことを視 てもらったこと以外は、ほぼ通常通りの業務だったというのに、やけに体が重く感じるのだ。
(……確かに寧 を治すのに『力』を使ったけど)
それは療 にとって、極些細な『力』の使い方だったはずだった。身体の奥底にある『力』の奔流の、ほんの一部を曝け出しただけ。
(なんだろう? この……黒くて重い感じ)
どうにも我慢ができなくなり、療 は近くの長椅子に座った。手摺りに縋るようにして身体を傾けると、重く感じていた身体が少し楽になった気がする。
そうなると考えてしまうのは、先程の竜紅人 と香彩 のことだ。
(……どういう状況にせよ、桜香 が還ったんだから、想いは通じ合ったんだろうけど)
あのふたりの危なかしさは、一体何だろう。
特に竜紅人 に至っては竜形の所為か、真竜の本能をあまり制御出来ていないように見える。
普段の竜紅人 であれば、部下を前にして竜の聲など使わないはずだ。そしてあの状況でそんなことをしたら、香彩 の性格上、どんな反応をするのか分かっていたはずだ。
(──嫉妬のあまり、分別を見失ったか)
療 は大きくため息をつく。
友人として香彩 の戸惑う気持ちもよく分かる。
ずっとそういう対象ですら入っていなかった人物に、一夜限りの夢だと激しい感情をぶつけられたのだ。そしてそれが嫌ではなかったことに、酷く動揺し、無意識の内に身体を震わせていた。
そして同じ真竜として、竜紅人 の気持ちもとてもよく分かる。
真竜は自分の御手付 きをとても大切にする。御手付 きはやがて番 になるからだ。真竜は長いその一生に、たったひとりを愛し抜くといわれている。御手付 きという名の鎖で相手を縛り、やがて真竜に発情期が訪れた時に、相手の項に噛み付いてその牙を食い込ませ、己の神気を注入して相手を己の物と、番 とするのだ。
相手がまだ御手付 きの場合、真竜にとって心も身体も一番不安定の状態だ。発情期が訪れるまで決して側を離れようとせず、相手を慈しみ、そして愛す。
本来ならばまさに蜜月の期間だ。
離れることすら許したくないこの期間に、他の男に接吻 を許し、いずれその男に身を捧げる自分の御手付 きに、嫉妬で身を焦がすのは仕方のないことだ。
(……仕方ないけど分別を失くすこととは、また別問題だから)
次に何かあったら、香彩 の気持ちを受け入れつつも、しっかり『力』で竜紅人 を縛り付けようと療 は思う。
(──だって大司徒 が司徒 を抱くって知らなかったら、多少の同情も出来たけど)
知っていて香彩 を好きになったのだから、そろそろ覚悟を決めるべきだ。
再び大きなため息を、療 がついたその時だった。
「──え……」
急に目の前が暗くなる。
さっきまで見えていたはずの、寝台や卓子 や椅子やらが見えない。
だが療 には何故こうなったのか自覚があった。
(……また、落とされた……っ)
もう何度目になるのか分からない、誰かの意識下の空間だった。
何もない、ただ真っ暗な空間の中、療 はひとり放り出される。
やがて聞こえてくるのは、女性のすすり泣く声。
その姿は見えない。
療 は嫌というほど知っていた。この後、女性の声がどんな風に変わるのか。
(……聞きたくない。嫌だ……っ)
だがどんなにそう願っても、この世界は無情にも動きを止めることはない。
耳を塞いでも聞こえてくるその泣き声は、やがて無惨な断末魔に似た悲鳴へと変わる。
療 はその場で蹲った。
過去なのか、それともこれから起こり得る未来なのか分からないが、ただひとつ言えることは、この声は神桜の……紅竜のものだと言うことだ。
やがて尾を引くように続いていた、女性の悲鳴が止む。
それと同時に、いつも感じるものよりも、更に濃い土の香りが辺りを占める。
「──……っ!」
まるですとんと落とされたかのように、いきなり視界が現実 に戻ってきた落差なのか、くらりと目が回った。片手で頭を押さえながらも、療 は辺りを警戒する。
いつもの自分の私室だった。
意識下に落とされたのは、きっとほんの僅かな時間だというのに、とても嫌な冷たい汗が、額と背中を伝う。
療 は自分の身体を自身で抱えるようにして、芯からくる寒さに耐える。手先足先の感覚はない。無意識の内に体が震え、口唇が噛み合わなかった。
この時期の夜は、昼の暖かさに比べれば確かに寒いと感じるが、ここまでではないはずだ。
やがて療 はこの寒さが、自分自身が感じている寒さではないことに気付く。
寒さを『感じさせられている』と言った方がいいだろうか。
夢の中で感じた濃厚かつ昏い土の香りが、療 の体を借りて寒さを表現しているかのようだった。きっとどこかで誰かが……あの夢に関わりのある誰かが感じている寒さなのだ。
しばらくして、体温は徐々に戻ってきた。
冷たいと感じていた手足の感覚が、急激に戻ってくる様子は、どこか気味が悪い。そして背中に貼り付いた衣着と、冷たい汗がやけに気持ちが悪かった。
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