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9-3 ドキドキ≠恋?=解けない方程式。

 当てはまった〝恋〟する感情の条件。それは、まるで考えもしなかった可能性の示唆。  いや、だって……嘘だろ? それじゃあ、何か? オレは九重に〝恋〟してる……ってことなのか? それも、昨日今日の話じゃなくって、もっと前からってことになる。  走る動揺に、どっと汗が噴き出した。一気に顔に熱が上がる。  はぁあ!? 無い!! 無いだろ!? そんな、まさか!! 「トッキー、どうかした?」  五十鈴センパイの問い掛けで、パッと現実世界に引き戻された。ヤバい。変な間を設けてしまった。慌てて笑みを取り繕う。 「い、いや!? 何でも!?」  五十鈴センパイは、じっと窺うように見つめてきた。見透かすようなメタリックブルーの眼差しが、顔に突き刺さって痛い。  それ以上どう誤魔化せばいいのか分からずに狼狽えていると、センパイは不意にこんなことを言い出した。 「……確かめてみる?」 「え?」  次の瞬間、センパイに引き寄せられて背後から抱き締められた。 「せっセンパイ!?」 「あったかいね、トッキー」  耳元に、掠れた甘い声が囁きを落とす。吐息が脳髄まで揺らす感覚に、ぞわりと首を竦めた。  間髪入れずに、今度はセンパイの手がオレの胸元に滑ってくる。服の上から心臓の辺りをそっと撫ぜるようにして、長い指先が這った。 「っ……センパ、なにを」 「ねぇ、トッキー……ドキドキする?」 「どっ……ドキドキって」  そりゃ、こんなことされたら……。 「好きな人にハグされたら、ドキドキするらしいよ。トッキーの心臓……どうかな?」 「えっ!?」  好き!? いや、だって、センパイが……え? オレ、センパイにドキドキしてる? これ、好きってこと?  いや、それはおかしいだろ。だってオレ、九重にもドキドキするし、四ノ宮のあざとい表情にもときめくし、タカから告白を受けた時だって、めちゃくちゃ意識して……。  は? え? オレ何? 誰にでもドキドキすんの!? そんなの、ただのビッチじゃん!?  衝撃を受けて固まっていると、ふっ、と後ろからセンパイが笑う気配がした。 「!?」 「なーんて、トッキー素直過ぎ」  言いながら、オレの頭をぽんぽん撫でて、センパイがゆっくりと身を離していく。オレは困惑して目をぱちくりさせた後、ハッとしてセンパイを軽く睨み付けた。 「さては、また揶揄ったな!?」 「いや? 恋愛ドラマとかでも、よくこうやって検証してるじゃん。好きな人以外ならドキドキしないって言うけど、これだけ密着してたら普通は緊張して鼓動も速まるもんだよね。こんなんで分かったら苦労はしないし、あれ眉唾もんだよねー」 「むう……」  そういうもんなのか。でも、そうか。密着して、ドキドキ……。そうだよな、それだな。  一瞬、九重のことを好きなのかもとか思って焦ったけど、それはアイツの距離感がいつも近いからなんじゃね?  四ノ宮とタカもそんな感じじゃね? うん、オレがビッチなわけじゃ……ないよな? てか、大体にして相手は皆男じゃねえか!! しっかりしろ、オレ!! 有り得ねえだろ!? 「……何か、ますますよく分からなくなっちまった」  結局、〝恋〟って何だ? 「そうだねぇ。おれもまだ初心者だから、よく分からないや」  センパイから、意外な一言が出てきた。 「え? センパイ、そういう経験豊富そうなのに」 「そんなこともないよ。おれ、これまで人を本気で好きになったことって、無かったから。でも最近ね、もしかしたらこれがそうなんじゃないかなって、思い当たる節があるんだ」 「へぇ~!」  てことは、センパイの初恋か!? 「何かロマンチックだな! 誰々!? 学校の人!?」  好奇心のままに身を乗り出して問うたら、センパイに腕を掴まれた。猫みたいな悪戯っこの瞳が、真正面からじっと見据えてくる。 「……誰だと思う?」  煽るような視線の中に、ほんの刹那真剣な色味が混ざった気がした――次の瞬間、ぷんと鼻先を異臭が掠め、思わずそちらを見遣る。 「あっ!! 〝おはぎ〟がオシッコしてる!!」  しかも、トイレシートの敷いていない壁部位に引っ掛けている。このダンボール、もうダメだなこりゃ。  慌てて近くにあったペーパーを引っ掴んで処理に掛かるオレの背後から、センパイの小さな溜息が聞こえてきた。 「脈アリかナシかって、こういう時に測るのが正解だよね」 「え?」 「んーん、何でも。猫に負けたなーって」  ? どういう意味だ?  その後、センパイとペットショップに行き、新しく〝おはぎ〟に金属製の小屋を買った。    ◆◇◆  九重の待つタワマンに帰宅したのは、その更に後だ。結局、今日も何だかんだ遅くなっちまったな。アイツ、どうしてるかな。  多少の罪悪感と謎の緊張感に強張った指先を、玄関の扉に近付けたその時、ガチャリとドアが内側から開かれた。直後、素早く内部に引き込まれる。気付けば熱い腕の中、聞き慣れた声が耳元で定型文を告げた。 「――遅い」 「こっ九重!?」  まるで、いつかのプレイバックだ。 「お、おまっ! 何で起きてんだよ!? 寝てなくて大丈夫なのか!?」  うわぁ、心臓がヤバい。めっちゃドクドクゆってる。これは、あれだ。いきなりこんな近距離で密着してるからだ。センパイの時と同じだ。うん! 「もう大分良くなったし、明日には登校出来る」 「嘘つけ! 何かお前まだ熱っついぞ!! ちゃんと安静にしてろよ!」 「誰かさんの帰りが遅いせいだろう」  拗ねたような物言いに、胸がきゅっとなった。  ……何だよ、寂しかったのか。仕方のない奴だな。 「心配させたのなら、悪かったよ。会議の後の撮影会がちょっと長引いた」  何となく五十鈴センパイの所に行っていたことは話しにくい。コイツ、センパイのこともやたら警戒してるからな。言ったら機嫌損ねそうだ。  しかし、九重はこれでも怪訝げに眉根を寄せた。 「撮影会?」 「水泳大会用の、広報写真。とりあえず、離れろ。お前がそうやってくっつくから訳分かんないことになるんだぞ」 「何の話だ?」 「何でもない!」  赤くなる顔を隠すように逸らしながら、九重の腕の中から身を剥がす。けれど、それすら許さんとばかりに、再び腕を掴まれて阻まれた。 「待て、何用の写真だって?」 「え? 水泳大会……」 「まさか、水着じゃないだろうな」 「……そうだけど」  予想外の食い付きに目を丸くするオレに、九重は舌打ちを漏らした。 「回収だ」 「え? 何で?」 「何でもだ」 「はぁ!?」  直後、唐突にワイシャツの前が開かれた。力任せに引き裂かれたシャツ。千切れたボタンが宙を舞う。 「お、おい九重っ!! いきなり、何す――」  言葉の最後は、息を呑む音に変わった。九重の熱い唇が、露にされたオレの肌の上に落とされたからだ。  柔らかい弾力が押し付けられ、次に割れ目からぬらりと赤い舌が覗く。肌の上を這っていく濡れた感触に翻弄されていると、今度はそこに軽い痛みを得て、背筋にピリリと電流が走った。九重が歯を立てたのだと、気付いたのは後から。  文句を言おうと口を開くも、同時に強く肌を吸われ、つい甘い声が飛び出してしまう。それを封じるように慌てて手で口元を覆った。  最後にリップ音を立てて九重の唇が離れていくと、後には小さな赤い華が咲いていた。ギョッと目を瞠る。鎖骨の下に、くっきりはっきり。見る人が見ればそれと分かってしまうような、鬱血による赤いキスマーク。 「ッ……あ、痕! 付けんなって!」 「お前の肌を見ていいのは、俺だけだ」 「な、何言っ……意味わかんねぇ!」  確かに、九重ならオレの水着撮影とか止めるんじゃないかとは思ってたけど……まさか、ここまで過剰反応するとは。これから水泳の授業だって始まるってのに、肌晒さないなんて不可能だろ。何言ってんだ。  意味わかんねぇ……のに、もっと意味わかんねぇのは、その言葉を何故か嬉しく感じている自分が居ることだ。  はぁあ!? 嬉しい!? 何で!?  愕然と固まっていると、再び九重の頭が胸元に沈み込んだ。ハッとして、間一髪唇のスタンプを掌で遮る。 「分かった!! 分かったから、ストップ!!」  これ以上、痕付けられたらマジで困るって!!  制止された九重はまだ不服そうな様子だったが、やがて小さく息を吐いた後、「まぁ、分かったんなら、いい」と捨ておき、身を離した。  そのままリビングの方へふらふら向かっていく背中に(やっぱ、まだ熱っぽいんじゃねえか、無理しやがって)オレは困惑の瞳を向けた。  何なんだよ、もう……心臓保たねえ。  胸元を手で押さえ、内心愚痴を零す 。ふと、今のコレは〝恋〟のときめきとは別物だよな? と自問した。――答えは、やっぱり出なかった。

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