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社員寮の男(1)
緑地帯の先で電車の音が響いた。
男はオフィスの建物を出るとき、守衛に軽く頭を下げた。守衛は男の顔と身分証を交互に見て、笑顔で「お疲れ様でした」といった。他の社員と違い、まだ男の顔を覚えていない。
緑地帯は建物の敷地を取り囲んでいた。男は小さな竹林のあいだを縫う小道を歩いて門の外に出た。ここにもつつじの植えこみや、どこかで見たような名前を知らない街路樹が、きれいに刈りこまれて並んでいる。門の外もまだ会社の敷地だというが、ここは通行人の歩道として開放されていた。夕方のこの時間は犬を連れた散歩の人が通る。すぐそこに見える駅から歩いてくる高校生たちや、買い物袋をさげた女性や、自分と同じようなサラリーマンも。
なめらかに舗装された道路の片側にフェンスが立ち、その向こう、半地下に掘り下げられた土手のあいだを、銀と緑に塗られた電車が走っていく。男がこの街に来たのは先月末だ。その時はまだ、近くの学校の校庭でも桜が咲いていなかった。今はとっくに新緑になって、土手に植えられた植物も鮮やかな緑色をしている。男が線路を横切る橋に立つと、空は青い夕闇に塗られて、名前のわからない星がひとつ光っている。
線路のうえには空があるな、と、男はなんとなく思った。そう思ったあとで、空なんてどこにでもあるのに、おかしな話だ、と思った。
線路沿いに駅の方角へ歩いたが、男は駅には入らず、交番を通りすぎて、まっすぐのびる商店街をぶらぶら歩いた。この駅の周辺は、付近でもお洒落な街として知られていて、著名な建築家の設計によるという洒落た外観のマンションや市立の劇場、高級スーパーが並び、女子大や高校もあって、若者も多い。
転勤になってこの街へきてからしばらくのあいだは、男は物珍しさも手伝って、駅の周囲を探検がてら、よく歩いた。だいたいの街のつくりを把握すると飽きてしまったものの、そのころには社員寮の最寄りもたったの一駅しか離れておらず、しかも簡単に歩ける距離だとわかってしまった。さすがに都会だな、と男は思った。田舎の一駅とは話がちがう。
それがわかってからは、電車に乗るのが馬鹿馬鹿しくなり、男は毎日の通勤を徒歩に変えた。独身寮はこぎれいだが、入寮者には近い所属の者はいないようで、おまけに大半が営業系らしく、ほとんど顔もあわせない。部屋に戻っても、特に面白いわけでもないテレビ番組をみるか、でなければ仕事のことを考えているだけだ。
気候のよい今は、散歩する方がまだましだった。男は寮から会社まで、ルートを何種類かみつけだした。線路沿いから騒がしい国道へ抜けるルート、高級そうなマンションと一戸建ての間を通る、街路のきれいなルート、赤ちょうちんと路地を抜けていくルート。あえて遠回りをするルートもみつけた。石段と細い坂道をのぼり、斜面沿いに立った民家の横を抜けて下り、小さな川沿いを歩いて、踏切を渡っていくのだ。
このルートの途中にはスーパー銭湯もあった。付近には大きなマンションもあって、近隣住民で賑わっているようだ。はじめて前を通った時は何も考えずに通り過ぎたが、二度目に通りかかったときは気になって引き返し、三度目にはじめて、中に入った。
スーパー銭湯は見た目より案外広く、露天の湯も気持ちがよかった。味をしめて二度目に行ったのは、退社が遅くなった夜中のことだ。岩盤浴のコーナーの横には、ゆったりテレビをみたり、漫画を読める温かい床のフロアがあると聞いて、そこも試してみることにした。
転属したばかりで男の仕事はまだ余裕があった。いずれ忙しくなってくれば、こんなところでのんびりする気分にはなれないかもしれない。
岩盤浴は湯船より空いていた。熱い小石の上にタオルを敷き、薄暗い中でしばらく横になる。平日だからかもしれないし、男湯だからかもしれない。透ける布越しにもうひとり、横たわっている影がみえる。小石が鳴る音がかすかに聞こえる。
じゅうぶん汗をかくと、ソファのある温かい床の空間で、男はしばらくぼうっとしていた。ここはもっと明るく、音を消したテレビ画面が動いている。フロアには漫画喫茶並みの本棚の列があったから、ひさしぶりに何か読もうと思ったもの、どれを読めばいいのか迷った。
棚の前でぼんやりと背表紙をみていると、隣にふっと気配がした。長い指が、男がまさに眺めていたタイトルを抜き取った。
「あ、すいません」と人懐こい印象の声がいった。
「これ読むつもりでした?」
「あ、いや……」男は驚いて口ごもった。
「見ていただけなので」
「どうも」
隣に立った男はすっと首をすくめるようにしたが、軽い会釈のつもりだろうか。シャンプーと、岩盤浴の中で嗅いだハーブの香りが漂い、長い指と同じくひょろ長い手足と、薄い作務衣に覆われた背中が大股に歩いて、奥のソファへ行った。
うしろ姿をみつめている自分にはっとして、漫画の棚に向きなおる。適当な題名を選んで抜き、しばらく読んでみたものの、あまり興味をひかれなかった。
外に出ると火照った肌に風が涼しい。銭湯に長く居すぎたのだ。細い坂道を歩いていると背後で足音が聞こえてくる。斜面沿いの住宅街は古めかしい家が並んでいて、街灯も門灯もちらちらとまたたいていた。足音はだんだん近くなり、道幅がわずかに広くなったところで、気配がすっと男を追い越した。銭湯のシャンプーの香りがして、長い手足の影は見間違えようもなく、あの漫画本を抜いていった彼だった。
同じ方角なのか、とぼんやり考えた。すたすたと歩く背中を眺めながら、わざとゆっくり歩いて帰った。
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