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階段の男(3)

 アパートの階段を上ったとき、急にひんやりした強い風が吹いた。  うすい雲が浮いているだけだった空があっという間に濃い灰色に変わる。雨が降るかもしれない。彼は通路の端の部屋のドアを開けた。扉の内側は涼しい。エアコンをつけっぱなしにしたほうが電気代が安いとわかったからだ。  テレビをつけると高校野球の真っ最中だった。プロ野球はリーグ戦や日本シリーズが盛り上がった時だけみる程度で、こちらにもそれほど興味はなかったが、地元の高校が出場しているので、そのままにしておいた。  彼はスーパーの袋を開けて冷蔵庫に買ってきたものをしまった。コーラ、ビール、豆腐、バナナ、カットして袋詰めにされたサラダ用の野菜、パスタ、ポテトチップス。階段を上ってくる足音が聞こえた。ありきたりの木造アパートで、キッチンの窓は外の通路に面している。  ピンポン、とチャイムが鳴った。  彼は窓から外をのぞいた。あの男だった。チノパンにTシャツという服装で、足元はサンダル。スーツでないせいだろうか、いつもより若く見える。 「ついでにビール持ってきた」  ドアを開けると男はそういって、でも中には入らず、にやっと笑った。ついでというのは何かと思ったが、男はクリーニングのビニール袋もぶら下げていた。駅前の店のロゴがついている。 「昼間なのに?」 「夏休みだ。最近は有給消化しろってうるさいから、二週間もある。暇だし、家は汚いし、どうしようもない」 「バッティングセンターにでも行きます?」 「この天気で?」  男の横から首を出すと空はますます暗くなっていた。ゲリラ雷雨でも来そうな気配だ。 「中で野球みますか」 「高校野球?」 「俺の地元が出場しているんですよ」 「へえ」  クリーニングの袋は仕上がったワイシャツとスーツのスラックスでぱんぱんで、男は玄関口に袋を置くと勝手知ったる足どりでリビングに座った。暑くなってからもう何度か、彼の家でビールを飲んでいるのだ。 「高校野球の醍醐味はこのハラハラさせられるところだよな」  テーブルの上に袋のまま置いたポテトチップをかじりながらテレビをながめ、男は論評する。 「下手な送球、トロい走塁、え、どうしてここで落としちゃうの、みたいなのがいいね。たまらん」 「ひどいですね」 「まったくひどいよ。こんな暑い時期にこんなことさせるなんて」  彼の仕事も夏休みだった。ヨーロッパのバカンスシーズンは発注数が少ない。だから男が昼間からやってきても困らないし、部屋はきちんと片付いている。われながら几帳面な性質で、決まった場所に決まった物が並んでいないと落ち着かないのだ。  アパートは2DKだが、DKと洋間の仕切りをはずしてリビング兼仕事場にして、1LDKのように使っている。インテリアへの強いこだわりはないが、昼寝の場所にもなるソファだけは高級品だった。学生時代に遠方へ引っ越すという知人に譲ってもらったものだ。革張りでスプリングが効いていて、大柄な男が三人並んでゆったり座れる。  男はその大きなソファの右端に座り、彼は左端に座る。最初にこの部屋に男が来た時に彼が勧めるままに男はそこに座り、二人で並んで海外ドラマを見た。二度目以降も、男はソファの右端に座った。彼は男の組んだ足を何気なくみつめる。何か違うという感じがあって、その正体をつきとめようと考えてしまったせいだが、やっとわかった。男は今日は裸足なのだ。足首の上、チノパンの裾から毛の生えた脛が少しだけみえる。あまり見ないようにしよう、と彼は思った。  風が窓に向かって叩きつけるように吹いた。 「雨、来るな」  男がいった。直後、バラバラっと音がして、すぐにザーッと鳴りはじめる。テレビの中はあいかわらずで、アナウンサーが7回の裏を告げている。 「球場は晴れていますね」 「ここだけなんだろう」  男はビールを飲み干して、別の缶を取りに行った。  この夏は二日か三日おきにゲリラ豪雨警報が出ている。降りはじめると熱帯のスコールのような勢いで、気がつくと土地の低い場所には土嚢や水をせき止める板が置かれるようになって、最寄り駅の隅にもこれらの設備が用意されていた。だがマンションなどの住居が並ぶあたりは高台なので、浸水のような被害は一度も出なかった。  激しい雨が降ると水煙で遠くの林がぶわっとかすんだように見える。男は会社が休みで暇だといい、翌日もその翌日も、午後遅い時間に階段を鳴らして彼の家に立ち寄った。男が来たあと、よく雨が降るような気がする。彼は男とビールを飲み、テレビをみる。 「このくらい降れば、きっと上からでもわかるな」と男がいった。 「上って?」 「マンション。部屋のなかにいると雨が降っててもわからないんだ。音も聞こえないし」 「窓のそばにいても?」 「窓か」  男は急に眉をさげて、居心地の悪そうな表情になった。 「汚いから」  彼は男の言葉の意味がわからず、つっこんだ。 「ガラスが汚れても、開ければ見えるんじゃないんですか?」 「窓にたどりつくのが大変なんだ。いろいろ積んである」 「家具でふさいでるんですか?」 「いや、ゴミをなかなか捨てられない」  男はビールの缶をテーブルに置く。 「隣から文句いわれそうなレベルになってる。管理組合とか」 「休みの間に捨てるっていうのは?」 「そうすればいいんだけどね」 「なんなら手伝いましょうか。俺もいまは暇だし」 「やめてくれよ」  テレビ番組がいつの間にか花火大会の中継に変わっていた。例年人でにぎわう、都内の川沿いの花火だ。こことちがってテレビの中では雨は降っていないが、ゲリラ雷雨が心配ですね、と語るアナウンサーの声が聞こえる。カメラに映された風景はごったがえす人々でいっぱいだった。色とりどりの浴衣で景色は華やかだ。 「この辺の花火大会さ」と男がいう。 「秋の?」  彼は聞き返す。このあたりでも花火大会はある。河川敷に観覧席が作られるのだ。他の花火大会とずらす意図があるのか、夏はやらない。 「そう。それが窓から見れる、というのがウリだったんだが」 「マンションですか?」 「そ。窓にたどりつければね」 「やっぱり手伝いますよ」 「やだよ」  テレビの中の空がいつのまにか暗くなっていた。雨が降ると部屋の中は異様に暗くなるから、彼はもう灯りをつけていた。だから、いつの間に日が暮れたのか気付かなかった。  はじまりますね、とアナウンサーやゲストが話している。 「売って引っ越すつもりだった」  男がぽつりといった。 「ローン少し残ってるし、養育費もあるしな。ところがあっという間にゴミが溜まって、売るにしても誰かに見せられる状態じゃないときてる」  ビールの缶がテーブルに並んでいる。涼しい部屋の中でだらだらと飲んでいると自然に量がふえる。彼は顔をあげてちらっと男をみる。ソファの端で、膝に肘をついた姿勢で男はテレビ画面をみつめている。昔をのぞきこむような眼をしていた。 「仕事の帰りに誘われてさ、興味はあったけど、半分冗談のつもりだった。ずっとしてなかったし。セックスレスってやつで」 「どこに」 「二丁目。ハマってすぐばれた。最初はキャバクラにでも行ってるのかと思ったらしい。どっちにしろ最低だけどもっと最悪だっていわれて、当然だよな」  男は自嘲するように小さく笑った。 「許してくれなかった」  かすれて残酷な日本語だった。 「すまん。気分悪くなった?」 「花火、はじまりますよ」  暗闇に大輪の花が開く。ポンポン、ドーンドーン、パラパラパラ……と、花火の大きさによって音が変わる。何分も連続して花火は上がりつづける。光はすぐに消えるのに、落ちることを一瞬やめた雨粒のように残像をみるのはどういうわけだろうと彼は思った。地上を映すカメラに切り替わると、今度は観客の背中が色とりどりの傘におおわれていた。  あちらでも雨が降りはじめたらしい。と、外の雨音が途絶えたのに彼は気づいた。こちらの雨はあがったのだ。男はテレビをみつめたまま動かなかった。彼はソファの真ん中へと腰をずらした。 「ゴミを片づける業者がいるらしいですよ」 「ああ」  小雨の中でも花火は続いている。花火はやっぱり火であって星じゃないと彼はどうでもいい考えをもてあそぶ。空気がないと燃えない。 「そうだな」と男がいった。  内心を口に出したつもりはなかったのに、彼は喋っていたらしい。彼には男が話したような重い荷物はないから、こんな話しかできないのだ。  彼は男が近くにいるのをふいに意識した。うっすらと体温を感じるくらい、近くにいる。 「頼みがあるんですけど」  だから試しにいってみることにした。 「何?」 「触っていいですか」  男ははっとしたように彼の方をみた。眼があった。 「何、それ」 「猫みたいな感じで」 「猫か」  手首に触れると男の体温がまっすぐに伝わってきた。猫のように逃げはしなかった。雨粒に直撃された花火はやはり消えるんだろうか。彼はそんなことを考えている。雨はやみ、部屋は静かだ。

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