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路地裏の男(4)

 しばらく残業なしで帰れる日が続いていたのに、十二月に入るとまた忙しくなった。おまけに中途半端な一泊出張が数日おきに続き、その分社内でのスケジュールが押すという悪循環にはまって、気づけば出張こみの十連勤だ。  ところが年度末に向けて調整のために早く有休を取るように、というお達しもやってきた。会社も勝手なことをいうものだ。日付を数えて同僚と折り合いをつけたあげく、結局彼はクリスマス前に五連休を手に入れた。十連勤明けの五連休、週末と有休三日の足し算である。  中途半端な時期の休みだった。まだ年末でもないから実家に帰省したところで両親しかいないし、誰かと旅行に行くあてもない。一人旅などする柄ではないのだ。しかしゲームと録画したドラマを見て終わるのももったいないから、休みの間に作りかけて中断していたプログラムを完成させる程度のことはしようと彼は思った。あとは近所のまだ入ったことのない飲み屋や定食屋を開拓することくらいだろうか。  近頃やたらと寒かった。  部屋が寒いのだ。エアコンの暖房を入れ、ホットカーペットを入れてもまだ寒い。これ以上ヒーターを入れると電気代も馬鹿にならない。きっと壁が隙間だらけなのだろうと彼は思う。それとも床が地面と近すぎるのか。そういえばこの建物は周囲に密集したアパートより高さが少し低い。  こたつを買うことも考えたが、そうするとひとりではただでさえ出不精なのに、もっと動かなくなってしまうかもしれない。たいして予定のない連休ともなればなおさらだ。  クリスマスの予定も何もなかった。野郎ばかりの忘年会もこの時だけは外されている。もう結婚した友達は家族で過ごすというし、まだ院に残っている後輩はバイトだという。最近は世間でもクリスマスを恋人同士のイベントとする風潮も少なくなってきた気がするから、去年と同じように適当に過ごすのだろう。  そのこと自体はかまわないがなんとなく物足りなかった。  何が物足りないのかと聞かれても彼にはよくわからなかった。自分の人生には欠けているものがあるような気はする。  他人との温かい触れ合いとか、人肌とかだろうか?  満員電車以外で他人と接触することなどまったくなかった。いちばん最近他人に触ったことといえば、隣に住むライブハウスの男くらいだろう。  その男とは仕事がある日は夜中に何度か顔を合わせ、例によって世間話をしていたが、連休になって彼が部屋に閉じこもっていた間はまったく合わなかった。防音材が貼られた隣の部屋からは物音もほとんど聞こえてこない。  一度、歯磨きをしているときに夜中にドアの外で誰かと話している声が聞こえたことはある。平和な雰囲気の声ではなかった。心配になった彼が小窓を何センチかあけて外を除くと、コンクリートの段の上にヒールとスカートの裾がちらりと見えた。どちらの声も低く太く、違和感があった。 「ほんとは僕が嫌なんだろ。もういいよ。この前プレゼントしてやっただろ。あれで処理しろよ」 「はあ?」  どちらも酔っぱらっているようだ。彼は眉をひそめて小窓を締めた。  寒いせいで、部屋にいるとホットカーペットの上で毛布にくるまっていることが増えて、こうなるといっそのことこたつを買った方がいいのかもしれない。布団が敷きっぱなしの二階の部屋も寒く、足がぬくもるのに時間がかかるから、わざわざそこへ眠りに行くのが面倒だった。翌日が仕事ならまだちゃんと寝なければと思えるのだが。  翌日同じように毛布にくるまってホットカーペットの上で本を読んでいると、ドアチャイムが鳴った。  彼は時計をみた。もう夜の十時か。ということは営業だの宅急便だのがやってくる時間ではない。小窓の隙間からのぞくと、ドアの前に隣の部屋の男が立っている。開けると少し上体を揺らし、居心地悪そうな顔で「その……」と口をひらく。 「何?」 「へんなこと聞くけど、前に……貰い物だって渡したのの中に、食い物じゃないやつ、ありませんでした?」 「あ――」  何の話だろうかと思ったのは一瞬で、彼はすぐに思い出した。 「ありましたよ」  男を玄関に立たせたまま部屋の中に取って返そうとして、外から流れこむ冷気に首をすくめた。 「入りません? とりあえず寒いんでそこ閉めてほしい」 「あ――すいません」  男はあわてたようにドアをしめた。バタンと大きな音がした。ぼろいアパート全体が揺れたようだった。彼は棚につっこんでおいた紙袋――あのオナホの袋を探しながらいった。 「上がってくださいよ」 「でも……」 「敷居の戸を閉めないと寒いんですよ」  男は長身をかがめながら部屋に入ってくると、ホットカーペットの上に立った。部屋が急に狭くなった気がした。しかし男の口から出た言葉は「広いですね」だった。 「同じ広さでしょ?」と彼はいう。 「物が少ないから」  自分の持ち物が少ないと彼は思ったこともなかったが、男の部屋にくらべればそうかもしれない。棚の奥から例の紙袋をひっぱりだす。 「これ。返しましょうか」 「いや」  男は驚いたように眼を丸くしたが、何に驚いているのか彼にはわからなかった。 「その――すみません。知らなくて。驚きました?」 「そりゃ、びっくりしたけど、間違えたのかなと思ったから。ただこっちから――オナホでしたよなんて、いうのもなんだし」 「そうだよね。ごめん」  彼は紙袋をホットカーペットの上に置いたが、気まずい感じが部屋中に漂った。男の頭は天井から下がる電気に当たりそうで、彼を見下ろすような形になっている。こんなに背が高かったのか。いや、いつもの革靴を履いていない彼の背が低くなったのか。 「なんか――飲みます?」 「いや、すいません――あの」 「寒いから」  彼はカップにティーバックをほうりこむとポットからお湯を注いだ。 「座って。この上は暖かいから。この部屋なんか寒くて」 「俺の部屋も」  そうなのか、と彼は思った。男はあぐらをかいてすわり、彼はなんとなく正座した。安物の紅茶でも淹れたては温かかった。 「なんか――もめてるんですか?」と男にいう。 「え?」カップの湯気を吹いていた男が彼の眼をみた。 「彼女。昨日ドアの外でその――聞いちゃって」 「ああ。うん。まあ、そうなんですよ。ちょっと前からなんだけど」  男は意を決したようにカップに口をつけた。喉仏が下がって上がる。 「実はその――彼女じゃないんですよ」 「え?」彼はぎょっとした。 「なに、じゃあ――」 「彼氏――っていうか、女装してる」  思いがけない答えだったが彼は不思議にも安堵した。姉とか妹とか母親とか、そんな答えを予想したからだろう。 「えっと――それってあれですか、心と体が一致してないとかいう」 「そうじゃなくて。女装してるだけで男」 「ややこしいな」 「いや、ややこしくはなくて……」男は急に早口になった。 「やっぱりややこしいのか。とにかく男だし、つくものはついてる。最初は知らずに付き合ったんですよ。でも意外に悪くなくて。俺はそっちじゃなかったはずなんだけど、なんか――」  そして急に口を閉ざした。 「いや、すみません。いきなりヘンな話して」  彼は返事に窮したが男の話が不快だったわけでもなかった。世の中にはいろいろなことがあるものだなあ、くらいの感想だったかもしれない。だからこういった。 「まあ、いいんじゃないですか。誰かとそういう……関係になれるのは」 「そうかもしれないけど」男はまた紅茶を飲む。 「先がわからなくて」 「先って?」 「いやほら、ほんとの女だったら、いつまでもこいつと一緒にいるとかの思い切りもつくけど……子供ができたりするでしょう。でもそうじゃないから、ずっと気持ちだけで繋がれるのかな、とか、いろいろきつくて」 「それ――ひどい気がするけど」思わず彼はいった。 「すごく相手に失礼じゃないですか」  その直後、立ち入りすぎたとすこし後悔した。あわてて「いや……ごめん。俺は関係ないのに」とつけくわえたが、男は真面目な顔でカップをみている。湯気はほとんど消えていた。 「いいや。俺は悪い人間なんだと思う」  そう男がいった。  しばらく黙っていた。彼も男も。カップに半分ほど残った紅茶が冷たい。ホットカーペットを敷いた床は暖かいが、部屋の空気はそれほど暖かくないから、すぐに冷めてしまうのだ。 「あれ使った?」  男が急にいった。目線が紙袋の方を向いている。 「いや」と彼は答える。 「好きにしてくださいよ」  おかしな会話だと彼は思った。夜中にこんな寒い部屋で、隣の部屋の住人と顔を合わせて話すこととしては。何を答えるのがいいのだろう。迷った末、彼は正直に話すことにした。 「あまり……興味ないんですよ。好きじゃないんだ。AVとかエロ本とかも。なんか気持ち悪くて」 「へえ」男は平坦な声で相槌をうった。 「俺は寺にはいったほうがいいのかも」  彼の言葉に男は眉をあげる。 「お坊さんだって結婚してる」 「そうか。じゃあ――神父かな」 「クリスマスにはむしろその方がいいかも」  男はふっと笑った。 「すみませんでした。それ――俺、持って帰りますよ」  紙袋を持って男は出て行った。彼は玄関の鍵をしめたが、しばらくドアの前に突っ立ったまま男が隣の部屋の鍵を開ける音を聞いていた。それから部屋にもどってホットカーペットの上で毛布にくるまった。胸の内側がおかしな感じでざわざわしている。朝でもないのに昂ぶりを感じた。ものすごく久しぶりのことだった。彼は毛布の中で右手を動かした。頭に浮かぶのはたった今部屋を出て行った男の背中で、解放されてほっと息をつく。  我ながら意味がわからなかった。毛布の中は暖かく、久しぶりに嗅いだ自分の精の匂いはそれほど悪いものでもなかった。

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