朝、と言うにはずいぶんと太陽が高く上がっている。陽光があまりにも鋭くて、寝不足の目には少々辛い。おまけにすり抜ける風はキンと冷えている。 　隣を歩く神崎(かんざき)は俺が貸した薄いパーカーとスウェットを着ている。俺がもっている服の中で一番デカいものを探し出してきたのだが、彼には少し窮屈そうだ。寒くないのだろうかと見上げると、神崎も俺を見ていたのかぱちりと目が合った。 「な、なんだよイケメン」 「イケメン？」 「あ、いや……」 　いちいち心の声がダダ漏れになるのが俺の悪い癖だ。これだから上司にも目をつけられてしまう。 「眞城(ましろ)、コンビニはこっちで合ってるのか？」 　道を知らないくせに歩みを緩めることもなく、いつも通りの澄ました顔で問いかけてくる。 　昨日、俺たちはセックスした。 　いったいどうしてそんなことになったのか、今考えてもさっぱり訳がわからない。 　爽やかな秋晴れの空気を吸いながら考えることではないよな、と乾いた笑いがこぼれた。どこからか金木犀の甘い香りが漂ってくる。 　俺と神崎直人(なおと)は総合商社に勤める入社三年目の同期だ。同期といっても本社勤務だけで十人はいて、入社研修やその後の課題でも神崎と同じチームになることは一度もなかった。ただ俺は一方的に噂だけは聞いていた。帰国子女の超エリートがいるらしい、と。 　顔を見れば切れ長の目にシャープな顎、高身長でいかにもスポーツをやっていたというような広い肩幅だ。同期だけでなく上司までキャーキャー言っていたのも頷けるほどだ。 　ただし俺は一瞬にして興味を失った。残念、ありゃ見るからにノンケだと肩をすくめながら。 　転機は入社三年目の春、突然異動を命じられたことだった。大して役にも立たない三年目に辞令が出るなんて異例だが、猫の手ならぬ新人の手も借りたいほどの人員不足だったらしい。 　異動先は営業三課。そこは神崎が所属する資材課と隣り合わせの部署だった。そして俺の新しい上司は、ミスを押しつけ手柄は全て横取りするという最悪な男だったのだ。 　昨日は金曜日。 　華金なんてクソくらえ！ 　そう思いながら、評価されないとわかりきっている業務を終わらせて突っ伏していた。ひと気のないフロアに自分の呻き声が響き渡る。人員不足はクソ上司のパワハラ、モラハラで部下が次々と辞めたせいだというのがもっぱらの噂だ。それなのに部長には可愛がられているし、立ち回りが上手いせいで責任を追求されない。今まで何度もひと泡吹かせてやろうと画策したが、すべて十倍百倍になって返されてきた。ニヤニヤと笑う上司の顔が浮かんで一層むしゃくしゃする。呪いの言葉をブツブツ呟いていると、背後から近づいてくる足音に気がついた。 「眞城」 　頭上から降ってきた低い声が誰のものかは顔を上げずともすぐにわかった。 　異動して以来、同じフロアになったこともあって、神崎とはただの同期としてそれなりに会話を交わすようになっていた。とはいえ偶然給湯室で顔を合わせたときに「調子はどうだ？」とか聞く程度のものだ。あくまで偶然。 　それでも神崎の声は毎日隣のエリアから勝手に耳に入ってくる。決して大きくはないのに、低くてよく通る声だ。同僚と意見を交わしたり、電話で取引先とやりとりしたりするときは一層低く冷たさを感じる声色になる。 　だがその時の声はいつもより温かく、どこか気遣わしげだった。飲みに行くか、という言葉に俺は一も二もなく飛びついた。 　飲み屋でのことはもはや記憶が曖昧だ。最初からビール、日本酒、ウイスキーとちゃんぽんしながら愚痴をわめきまくっていたことだけは覚えている。異動した四月から半年、鬱憤が穴という穴から噴き出すようだった。 　神崎は隣に座って静かに飲んでいただけだった。慰めるわけでもなく、愚痴に便乗するわけでもない。涼しげな顔が彼の余裕を表しているようで、無性に腹が立った。同期の中でもエリート中のエリートで、実績を出しまくって社内外から高い評価を受けている。――ただひたすらにこき使われているだけの俺と違って。 　歩くのすらおぼつかない状態の俺に、神崎は黙って肩を貸した。最初は上司への悪態を吐いていたはずなのに、途中から神崎のことを罵っていた。俺の家に着くころにはすでに半分酔いがさめていたが、八つ当たり――そう、八つ当たりと気づいていた――は止まらなかった。 「大丈夫か？」 　神崎は膝をつき、玄関の床に座りこむ俺の顔を覗きこんだ。クソ優等生が、完璧人間のつもりかよ、テメェは何様だ、とかなんとか訳の分からないことを言って神崎の胸倉をつかんだ。 　ムカつくほど整った顔は、それでもまだ平然としていた。神崎が仕事をする姿をいつも横目で見ていたが、彼が焦ったり困ったりするところを一度も見たことがなかった。 　綺麗な顔を歪ませてやりたい。そんなひねくれた欲望がふつふつと湧き上がり、掴んだシャツを力任せに引き寄せてキスをした。 「……じゃ、各々好きなもん買おうぜ」 　コンビニの陽気なチャイムで我に返った。昨夜のことを思い出すと恐ろしくて震えてくる。羞恥がぺろりと舌を出して戻ってきたらしい。俺は神崎とまともに目を合わせられなかった。 　そそくさとおにぎりのコーナーに足を向けると、なぜか神崎もくっついてきた。少し距離をおこうと思ったのに、結局同じ棚の前で並んで品定めをしている。 　ツナマヨに手を伸ばしたのは無意識だった。 「あっ……」 　ぼーっとしていて横から伸びてくる手に気づかなかった。神崎の冷たい指先が手の甲に触れる。弾かれたように手をひっこめると、神崎は少し戸惑ったふうに俺を見た。神崎にとりあえず一つおにぎりを押しつけて自分の分も掴み取る。 　うっかりドキドキしてしまった。 　ちらりと神崎を盗み見ると、もう一度真剣な表情で棚を見つめている。 　改めて見ても顔がいい。もうね、今だから言えるけど、どストライクなんです。鍛えられた首周りにくっきりと浮き出ている喉仏とか堪らない。短髪だけどセットされていないから前髪が下りていて、少し幼く見えるのもギャップ萌えだ。 「おまえもツナマヨ食べるんだな」 「うん」 「……やっぱり一周回ってツナマヨにいきつくよな」 「そうだな」 「故郷に戻ってきた安心感っていうかさ」 「うん？」 「百二十四円って、前はもっと安かった気がするけどなあ」 「そう、だったかな」 　奇妙な緊張を感じているのはきっと俺だけだ。会話が空回りしてしまう。 　コイツはノンケだ。昨日確かめたから間違いない。それなのにどうして俺とセックスしたわけ？ 　ただの同情だとしたら罪作りな男だ。 　勢いで俺からキスをし始めたのに、俺の身体を抱き起こして寝室まで運んだのは神崎だったはずだ。もつれるようにベッドに倒れ込んで、俺は神崎の上にのしかかった。胸の上に手を置いたとき、硬い筋肉の感触にムラムラした。 「食っちゃっていい？」 　俺は間違いなく舌なめずりをしていた。暑苦しいスーツを放り投げて、神崎のネクタイをするりと抜く。神崎が困惑の表情を浮かべたのを見た瞬間、頭の中では拍手喝采が湧き起こった。してやった、と思ったのも束の間、視界がぐるりと反転した。 　困惑するのは俺の番だった。そりゃ本当に食えるなら最高だが、さすがにノンケの同期とどうこう、となれば会社でどういう顔をすればいいかわからなくなる。そんなことを考えられる程度には冷静になっていたというのに、神崎は鋭い視線で俺を見下ろしていた。 　怒っているのか？ 　別に怒らせたかったわけじゃない。 　今なら冗談だと言えるか？ 　内心焦りながらも、なんとか虚勢をはろうと俺は口の端を上げた。 「……おまえ、男とシたことあるの？」 「ない」 　短くはっきりとした返事だった。わかりきっていたのに、少しがっかりしたのも事実だ。 「眞城は……あるのか？」 「そりゃ、俺はもちろん――」 　そう言いながら腿の内側を撫でてやると、神崎はうっと息を止めた。首に腕をかけて「女は？」と問いかける。俺の挑発に神崎は一瞬目を細め、耳元に唇を寄せて低くささやいた。 「……それなりに」 　それなりに、との言葉は嘘ではなかったらしい。 　驚いたことに、神崎はまるで女を抱くようにひどく丁寧に俺を抱いた。 　別に良いと言っているのに慣れた手つきで身体中を愛撫をしはじめた。女と違うことを確認でもしているのか、肌の上でゆっくりと指を滑らせる。乳首が弱いことを見抜くと本当にしつこく摘んでは弾いて舌で弄ってと俺をいじめ抜いた。我慢できなくて自分で後ろをほぐそうとしたのに、その手は掴んで捻り上げられてしまう。初めてじゃないんだからさっさと挿れてくれと叫んでも、指を一本ずつ増やして丹念にほぐしてきた。まさかそれだけで二回もイクはめになるとは思わなかった。 　悔しくて「セックスも優等生かよ」と憎まれ口を叩いたつもりなのに、なぜか嬉しそうに口元を緩めて激しく腰をぶつけてきた。多忙すぎてご無沙汰だったことを差し引いても最高すぎた。長くて大きな神崎のモノは俺のナカを蹂躙し、快楽のポイントを探り当てて執拗なほどに抉ってくる。愛撫といい、神崎はどうもしつこいタイプらしい。――セックスに関しては少々マゾの気がある俺にはこれ以上ないほどの相手だった。 　結局三回戦まで及んで、俺はイキすぎて意識がぶっ飛んでしまったのだ。 　さざなみのように甘ったるい記憶が押し寄せてくる。逃げるようにぶるぶると頭を横に振った。 　急に空腹を覚えて無造作におにぎりを二つ掴む。 「三つも食べるのか」 　神崎が本気で驚いているような声を出した。そういうおまえは、と見てみれば、いつのまにか持ってきていたカゴの中にしっかり三個おにぎりが入っている。 「おまえも三つじゃん」 「いや、眞城は俺より細いし……」 「そりゃあれだけ激しく運動すれば腹も減るって」 　思わず笑って言ったあとで、はたと気づいて口をつぐんだ。俺はまた余計なことを！ 　神崎はそんな俺の焦りも知らず「それもそうか」と生真面目な顔でうなずく。そのまま俺の手の中にあるおにぎりを勝手に奪って、カゴの中に突っ込んだ。 　そのまま店先でさようなら、なんてこともなく、再び二人で俺の家に戻ってきた。目覚めてすぐに窓を開け放ったせいで、部屋の中まですっかり冷えている。 「ケトル借りるよ」 「ああ、うん」 　俺の家に来たのは今回が初めてなのに、まるで何年も通い慣れたような足取りだ。いつも通り何事にも動じず堂々としている。いったいどう育ったらその余裕が生まれるのか。もはや自分とは次元が違いすぎて羨ましいとも思えない。 　キッチンに立つ神崎の、逞しい背中の形が服の上からでもくっきりと見える。俺がつけた爪痕も残っているに違いない。 　なぜ帰らないのか、とは聞けなかった。そしてなんで俺と寝たのかということも聞けずにいる。 　自分の家なのに妙に居心地が悪くなって、いつもは見ないのにテレビをつけた。気だるい土曜の昼間にふさわしいユルユルの情報バラエティ番組が流れている。 「食おうか」 　俺と同じシャンプーの匂いが鼻先をくすぐった。 　一夜限りの関係ばかりだった俺には、セックスの翌朝に二人で朝食をとるというのは新鮮な感動をおぼえた。ましてや狭い部屋で、ちっこいローテーブルを挟んで神崎と座っているなんて現実味がなさすぎる。こっそり自分の腿をつねってみた。うん、めちゃくちゃ痛い。 「いただきます」 　コンビニ飯を前にしても神崎は律儀に手を合わせた。つられて俺も手を合わせる。 「インスタントの味噌汁でもあなどれないな」 　しじみの身を箸で摘んでしげしげと眺める神崎は、会社で見る姿よりもリラックスして見える。 　俺の視線に気づいたのか、神崎はふと手を止める。 「身体、本当に大丈夫なのか？」 「えっ？　ああ、うん。全然平気！」 　まさか神崎のほうから昨夜のことを蒸し返すとは思わず焦ってしまう。コンビニに行くときから今の今まで、普段とまったく変わらない様子で振る舞っていたから忘れたいのかと思っていた。いったいどういう心境の変化だろう。 「でも、起きたときは立ち上がれなかったのに」 「大丈夫だって！　えーっと、ほら俺は慣れてるからさ！」 　経験人数的には慣れていると言っても嘘じゃない。もちろんあんなに良すぎてイキ狂うほどの経験はないが、少々誇張して言ったのはノンケの神崎を安心させるためだ。神崎はまったく納得していないような、それでいてなぜか少し怒っているような顔をして「そうか」とだけ言った。俺は俺で心配されて嬉しい反面、これ以上踏み込めない境界線のようなものを感じて黙ってしまう。 　朝目が覚めたとき、酷い頭痛の中で神崎の顔が見えた。俺はなぜかホッとして再び眠りについた。 　もう一度目を覚ましたときにも神崎はそこにいた。俺を見つめる目は少しだけ心配そうに揺れていて、胸の内がじんわりと温かくなった。 　しつこく寝ておけと言われたのに無理矢理コンビニについて行ったのは……正直に言おう、もう少し神崎と一緒にいたかったからだ。 　こんな朝はもう二度と来ないかもしれないのだから。 「あー……またやっちまった」 　おにぎりのフィルムを剥いでいたのだが、海苔が半分以上フィルムの中に残ってしまっている。注意力散漫だったにしてもひどい有様だ。 　ふと視線を上げると、神崎も同様におにぎりを取り出しているところだった。節くれだった指がそっとテープを引っ張っている。海苔が破れないように慎重にフィルムをめくる仕草が、昨夜俺のシャツを脱がした手つきとそっくりだと思ってしまうのは考えすぎだろう。半透明なフィルムがするりと滑り、海苔が角も欠けずに米の上にピタリと貼りつく。おにぎりが妙に艶っぽく見えるなんて、イキすぎて頭までおかしくなってしまったか。 「相変わらず几帳面だなあ」 　わざと暢気な声を出すと、神崎がふうっと満足げに息を吐いて俺のほうを見た。そのまま流れるようにひょいと俺の手の中にある剥きかけのおにぎりを奪い、たった今丁寧に海苔を巻いたものを手渡した。 「それも同じツナマヨだから」 「は……」 　ハハハ、と壊れたオモチャのように奇妙な声が漏れた。 　一度寝たくらいで恋人面か？　――なんて、今までなら鼻で笑っていたかもしれない。でもどうしてだろう、なんだかこそばゆくてニヤけてしまう。 　この雰囲気、ちょっとくらい鎌をかけてみたっていいんじゃないか。 「なあ、今度から俺のおにぎりは全部おまえが剥いてくれない？」 　神崎は二度、三度とまばたきをした。 　……あれ、伝わってない？ 「あー、えーっと……俺はおまえとこうしてまた朝飯を食ったりするような関係になりたいってこと！　そりゃ昨日のことはおまえにとっちゃ事故みたいなもんかもしれないけどさ、案外身体の相性も悪くなかったんじゃないかなーって。でもまあおまえノンケだし無理には――」 「わかった」 「へ？　わかったって、なにが？」 　じっと見つめられている時間はきっと一秒にも満たなかったはずだが、俺には永遠のように長く思えた。テレビから芸人の笑い声が響く。神崎は小さく口を開き、なにか言おうとしてまた口をつぐんだ。 「……俺も眞城とこんなふうに一緒に過ごすのは楽しい」 「うん？」 「おにぎりも剥いてあげる」 「はあ……じゃあセックスは？」 「したい」 　今度こそ堪えきれずに爆笑してしまった。「する」じゃなくて「したい」だって。神崎はきまりが悪そうに視線をそらした。耳の端が赤いのは見なかったことにしてやろうか。 　テレビでは番組最後の星占いコーナーが流れている。今日の一位は俺の獅子座。今日の運勢を上げるラッキーアイテムは、もちろん――