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とぷんと水の中に落ちるかのようにしてナナシは暗闇の中に引きずり込まれた。 マイコとギンイロは、サジは大丈夫だろうか。ナナシはエルマーのインベントリを抱きしめたまま、薄目を開けた。 ずっと上の方に、棺型の窓が見えた。そこから覗く外の世界に行きたいのに、その身に絡みついた鎖が動きを阻む。 ここはどこだろう、とっても暗くて怖いところだ。 ゆっくりとその身は堕ちていき、二度目の瞬きをしたときには、突如目玉が熱くなり、耐えられないほどの痛みに苛まれた。 「っ、ぁ、く」 葉擦れの音がする。青臭い香りと、小鳥の声。サワサワと心地よい風が吹いている森の中のような場所に、横たわっている。土の匂いだ。 こんなにも気持ちのいい場所だろうに、経験したことの無い痛みがその身を襲う。 「ひ、ーーーーっ、ぐ、あ、ぁっ、」 痛みにのたうち回るように、その細い手足が土を蹴る。痛い、痛い痛い痛い。ふるふると震える手で顔を覆う。目が開かない。焼け爛れているのだ。 痛い、助けて。エルマー、怖い、そばにいて。 焼け爛れているのに涙は出るのか。塗るつく液体を拭うように、ナナシがその手を濡らす。それは血だと言うのに、ナナシにはそれがわからなかった。 じゃり、パキン。小枝を踏みしめる音がする。エルマーが助けに来てくれたのかもしれない。ナナシは痛みで震えながら、縋るようにその手を伸ばした。 「ああ、失敗だな。」 ため息と共に吐き捨てる。エルマーじゃない。 「ぃ、あ…っ、ぐ、ぐぅ、う、あ、あっ…、」 「結局、これも無駄か。まったく、苦労して手に入れたというのに。」 その首をがしりとつかまれる。喉仏を押し込むように、呼吸を妨げるような力でだ。 「か、ふ…っ、」 「金眼。これを見つけるのに苦労した。あとはこの場所だ。お前、俺にこんなに手間を掛けさせたのに、欠陥品として生まれ直すなんて失礼すぎるだろう。」 「ぃ、いぎ、だ…っ、ぁ、あ゛、あ!」 「ああ、触るな汚らしい。お前も生きたいとか思うのか、あんな事をして?愚かだなあ。周りから酷く厭われているというのに、生きたいのかお前は。」 「じ、にだ、ぐな…え、え゛る、ぁ…っ、」 ぎゅ、ぎゅ、と遊ぶようにして手で締めてくる。声の主は誰だ。聞いたことのあるような気がした。 口の中に酷く苦い液体を注がれる。無理やり口を抑え、吐き出すことを許されなかった。小さな喉仏が動き、飲み込んだのを確認した男が楽しそうに笑う。 「っあ、あ゛ーー!!!あ、あっぎぃ、いっ、」 顔を背け、身をよじりながら腕から抜け出そうとする。喉が、舌が溶けてしまう。その位の酷い痺れと痛み。ごぼごぼと胃の腑が泡立つ。吐きたいのに、首を絞められているので汚い声しか出なかった。その細い手で手首を掴んで離させようとしたとき、男が笑った。 「可哀想。お前に愛されるものは、皆死ぬ運命だなあ。呪われているものなあ…お前は。」 「ぅ、ぐっ…ぁ、あ…」 「忘れた?忘れたのか?都合のいい頭だなあ。ほうら、答え合わせをしてから死ね。」 なにを、何を言っているのかさっぱりわからなかった。緩められた気道を通り、ごぽごぽと口端から泡が溢れる。脳が焼けるように熱い。空気が回らず、ビクビクと体は痙攣した。愛すると呪われる。それは一体何だというのだ。 なんでこんなに鮮明な痛みと、まるで身に降ってきたかのような唐突な出来事が、と思って気がついた。 ああ、そうか。これは記憶だ。 ナナシの一番奥にしまい込んでいた、古い記憶。 ぐるんとナナシの目玉が上を向く。まるでその身を飲み込むように本流のような恐ろしい映像が蘇る。知らない、こんな光景は知らない。目が焼ける。脳が焼ける。体は弛緩し、もう力が入らないというのに。 助けてほしい、助けてくれないなら、この痛みから開放して。はく、と唇を震わした。びくんと指が跳ねる。ああ、死んでしまう。 もしかしたら、これは走馬灯なのかもしれない。 ああ、そばにいきたい。ああ、ああ。 その身に刻むように流れ込む、濁流のような映像。 燃えた街、崩れた教会。硝煙と血と油の香り。タンパク質の腐る臭い。そして人が狂っていく。 泣いていた。みんな泣いていた。友人を、恋人を、家族を奪われた者たちだ。 ナナシは知らない。こんな記憶があったことは知らない。これはなんだ、みんななんで泣いているのだ。 ーーー呪います、私はあなたを呪います!争いごとを厭われた貴方が、何故。 ステンドグラスが割れる。恐ろしいほどの大きな炎が、舐めるように建物を焼く。男は抱きしめていた。人を、死んだものを抱きしめて慟哭をしていた。 ーーーおまえのせいで。 「失敗作は、潔く死ね。」 白い靴が見えた。それしか、わからなかった。 「ああ、あ、あー‥あ、あ、あ、」 喃語のような言葉が聞こえる。もしかして、自分だろうか。 胎児のようにその身を丸めていた。じりじりと暑い日差しがその身を焼く。は、と目を覚ました時、次に目に入ってきたのは鉄格子だった。 「あ、…あぇ、あ…」 舌が縺れる。はくはくと口を動かし、その身を恐怖で小刻みに震わしながら、自分の顔に触れた。 焼けていない。視界が酷く曇っている。辛うじてみえる左目を頼りに、きょろりとあたりを見回した。 市場のようだった。 地べたに並べられたいくつもの鉄格子。中には鶏や犬といった小動物や、食肉用のイノシシ。そして、小型の魔物などが並べられている。 は、は、と小刻みに呼吸を繰り返す。今度は、違った恐怖がその身を支配していた。 「っ、え、う…」 ナナシは、商品のように檻に閉じ込められていた。 知っている、この記憶。 ボロボロの皿に乗せられた乾いたパンと、排泄用の瓶。そして桶のようなものに顔を突っ込んで水を飲んでいた自分の姿が、蘇ってきた。 悪夢から開放されたのに、まだ地獄は続くのか。 こくりとつばを飲み込む。ふるふると震えながら、桶に顔を突っ込んだ。ぺしょりとぬるい水面を舐める。小虫が浮いた汚い水だ。ナナシはこれを飲んで生きていた。 「え、う…」 ひぐ、と喉が詰まる。水面に映った自分の顔は、右目が白く濁っていた。 「なんだあ、人の子なんて珍しい。どこで仕入れてきた。」 聞いたことのある声がした。 肩で呼吸をするように、ひっ、ひっと喘ぐ。知っている、ナナシを買った男の声だ。 「へえ、身元は明かさねえって約束で仕入れたもんでさあ、旦那、詮索は勘弁してくんねえか。」 「フン、まあいい。年の頃はいくつだ。」 「12、3だと思うんですがねえ。まあ、頭がアレなんで言葉がしゃべらんねえんですわ。ほら、」 「ひぅ、っ…!!」 檻の隙間から、棒のようなもので脇腹を突かれた。桶を見下ろしていたナナシの細い体にめり込んだそれに弾かれ、どさりと地べたに転がる。 そうだ、自分はこの棒で悪戯に暴力を振るわれていた。ナナシの体の至るところには、棒の先端と同じ丸い痣が散らばっていた。 「面は。」 「面は悪くないんですが、右目が傷んでてねえ。ほら、お客だ!顔を見せな!」 「ひ、…」 よろよろと地面から起き上がる。痛む脇腹を骨ばった手で押さえると、そっと顔を上げた。やはりそうだ。ナナシが買われた、牧場を営む男がそこにいた。 いやらしく目を細めて、舐めるように全身を見る。ボロ布をまとったナナシが怯えて後ずさりをすると、生意気だと言って棒で再び突かれた。 「ぁう、っ…!」 「おいおい、これから買おうってのに顔は辞めてくれよ。」 「ええ!旦那、かってくださるんで?そりゃあいい!金貨一枚でどうです?」 「なんだ、うちの牛よりも安いじゃねえか。構わん。安けりゃ安いほどいい。」 擦りむいた膝を見ながら、ナナシは大人達のやり取りを聞いていた。そうだ。家畜よりも安く売られた。日差しはこんなに身を焼くのに、ナナシの体温は下がるばかりだった。 怖い。怖い怖い怖い。じわりと股ぐらを濡らす。足の間に広がる水溜りをみた親父が、ニヤリと笑った。 「便所から躾が必要かあ。まあいい。」 「お前!!旦那の前で粗相なんかしやがって!!買ってもらっといて失礼がすぎるだろう!!」 「ぃ、あっ!」 ばき、と背中を叩かれる。目の前が弾けるような痛みに崩折れると、まるで汚れを洗い流すかのように汚い桶の水を被せられた。 ぽたぽたと雫が落ちる。目の奥が熱い。呼吸をするだけで必死なナナシの腕を、無骨なロープで縛りあげた。 地獄の2年間、ナナシの記憶をなぞるかのような悪夢が、その心を蝕んだ。 「ご、ぇ…あさ、…いぃ、っ…あーーーー!!」 じゅ、と肉の焼く音がする。背中を熱せられた火かき棒で何度も打たれ、痛みに粗相をすると更に押し付けるようにして痛めつけられた。 喉を潤すために飲んだ水がいけなかった。 家畜に与えられる水飲み場で、渇きと飢えに耐えかねたナナシが、顔を突っ込んで飲んでしまったのがバレたのだ。 「おまえは、牛よりも価値が低い癖に横取りするなんてふてえやろうだなあ!!」 「ひぐ、ぅ、あ、あ゛ー!!」 頭を腕で守る。ナナシに与えられた水場は、寝床である用具入れの中にあった。しかし空だったのだ。雨が降らない日が続いたせいで、バケツの中は乾いていた。ほんの一口、唇を濡らすつもりだけだったのに。牛の唾液で滑る水が、喉を通った瞬間にもう一口と欲が出てしまった。 「せっかく檻から出してやったのに、お前はどうしてこんなにもだめなんだろうなあ。」 「う、う、う…」 「お前に与えられるものは、俺の金から出ているんだ。ちっとは感謝してくんねえと。」 「ぁ、あ、い…っ、ぁ…」 髪を掴まれながら目線を合わせられる。縺れる舌を必死に動かして、声を出す。 「ありがとうございます、だ。」 「あ、ぃぁ…と、…ぉざ、あ…っ、」 「まともにお礼も言えねえのか!このバカが!!」 「ひぎ、っーー!!」 床に押し付けられ、その巨体が馬乗りになる。つばを撒き散らしながら拳を振るわれ、その細い体を殴打する。けぷりと胃液を吐き出すと、汚いと言って笑うのだ。 せっかく喉を潤せたのに、吐いては意味がない。ぐったりとしたナナシの痛めつけられた背中に、倉庫の汚い土がつく。 ああ、また化膿してしまう。水で洗わなくては行けないのに、しばらく動くこともできなさそうだ。 げひげひと楽しそうに笑う肥えた男が、化け物に見えて仕方がなかった。 自分は家畜以下だ。そうだ、そうだったのだ。 四肢を投げ出して、虚ろな目で地べたを見る。蟻が欠片を持って歩いていた。 そんな程度の食料で腹を満たせるのだ。羨ましい、羨ましい。 ああ、雨の一粒で喉が潤せたら。パンの一欠片でお腹が膨れたら。 喉がこんなに乾いているというのに、涙は出るのだなと、おかしくて少しだけ口元が緩む。 「何笑ってんだ。」 「………、ぇ…ぁさ、」 楽しそうに笑っていたのはそっちなのに、何が気に障ったのか、ぺしりと頬を張られた。 背中の痛みが酷すぎて、頬を張られただけでは動じなくなってしまった自分に、また深く堕ちていく気がした。 その日は、本当に何もなかった。折檻された背中の傷が悪化し、動けなくなってしまった姿を見て、流石にやりすぎたと思ったのだろう。倉庫の積み上げられた藁に寄りかかるようにして、傷からくる熱にぐったりと身を投げだしていた。 水、せめて喉を潤そうと、前の日降った雨を溜めておいた桶を見た。なるべく体を曲げないように、ゆっくりと、時間をかけて起き上がった。 細い体が横たわっていた場所は、血と膿に汚れていた。 背中に、泥が乾いたものと藁が張り付いている。酷い衛生状態のそこを、せめて水で洗い流したい。でもそれをすると飲水がなくなるのだ。だからずっとそのまま。背中は、焼け爛れ、打たれて破けた傷口を晒したまま、骨ばった手で桶の雨水を掬うと、こくりと喉を鳴らして飲み込んだ。 ろくな食事を与えられず、どんどんやせ細った。一週間前に与えられた硬いパンは、寝ている間にネズミに齧られ僅かしか残っていなかった。それでも、まるでお腹を満たしたネズミに感謝をされているような気になって、少しも悲しくはなかった。 あのネズミは腹が膨れていた。きっと子をはらんでいるのだろう。この体の薄い生命力よりも、ずっと強いだろう生き物に、自分を重ねて楽しんだ。 前に、ネズミを食ったことがあった。腹が空いて、どうしようも無かったのだ。親父に頼まれて炭を作っている時に、ふと思い至って死んだネズミを焼いたのだ。 最初は骨にして埋めてやろうとした。しかし、湿気っていたせいで火力が得られず、ただの肉となったのだ。だから食った。 生き汚いなと思った。埋めてやろうとした筈なのに、目の前に晒されたそれを見て、げんきんにも腹がなったのだ。 ひどく筋張り、臭く、まずい。それでも、腹に溜まったおかげか少しだけ元気になれたのだ。 そんなことを思い出して、もしかしたらあのネズミの番だったらと考えて、少しだけ泣いた。 だから次に繋げるならと与えたのだ。その残りのパンを更に千切って、水に浸して口に含む。これでおしまい。あと3日の食料だ。倉庫の格子窓から見えたのは、星空だ。 綺麗だ、ああ、あの人と見たい。大好きな、おひさまの人と。 もう一度名前を呼んでほしかった。それも、忘れてしまったのだけれど。 心が乾いても、涙は出るのだなあ。 自分にまだその感情が、少しでもあることが嬉しかった。

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