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新垣の家

「小谷、おはよ」  ギリギリで登校してきて教室に入り、自分の席に向かう途中で新垣に声を掛けられた。新垣の席には数名の男子生徒が群がり、机いっぱいにノートが広げられている。恐らく新垣のノートを写しているのだろう。度々見かける光景で特に珍しいものではない。 「あれ、風邪ひいた?」  小谷の顔を見て、新垣が目を丸くする。今朝、少し咳が出るのでマスクを着用してきた。 「ちょっと咳が出るだけ」  最近急に冷えたもんな、と新垣がポケットを漁りながら言う。お大事に、と言いながら飴をひとつ、小谷に手渡した。  教室のど真ん中の最前列に腰を下ろすと、ちょうどチャイムが鳴った。荷物を机の横に引っ掛け、貰った飴に目を落とす。誰かからもらった物をそのまま横流ししたのだろう。レモンのイラストが描かれた可愛らしいパッケージで、裏には占いのようなものが記載されている。  “大吉 気になるあの子と急接近! ラッキーアイテムは猫”  のど飴ではなさそうだ。少し皺になったパッケージを破り、マスクを少しずらして飴玉を口の中へ放り込んだ。甘い味と、人工甘味料の香りが口いっぱいに広がる。担任の教師が教室に姿を現し、飴が入っていたパッケージは制服のポケットにねじ込んだ。担任は出席だけ取ると、簡単に朝礼を済ませて教室を出て行った。  大吉なんて大嘘だ。朝は大したことはないと思っていたが、時間の経過と共にだんだん身体が重く、しんどく感じられるようになってきた。しかし、出席日数のこともありなかなか言い出せず、本当に無理だったら保健室に行こうと思いながらも、タイミングを見失い続けてきた。昼を迎える頃には、動くことさえ億劫になっており当然食事を摂る気にもなれずに机に突っ伏していた。 「小谷」  重い身体を動かし、顔を上げる。すぐ近くに、新垣が立っていた。 「なんか食った?」  新垣の問いに、首を振って答える。お前調子悪いだろ、と新垣が小谷の額に手を伸ばした。新垣の手はいつも温かいが、今日はぬるく感じた。サラサラしていて、気持ちがいい。 「保健室行くか?」 「……うん」  付き添われて保健室へ向かう途中、授業中ずっと辛かったことを新垣に吐露した。それから、ここまで来たら最後まで授業を受けようか考えていたことを話した。新垣は苦笑いで無茶しすぎだと言った。やせ我慢をしていたが、本当はずっと横になりたいと思っていた。新垣が声を掛けてくれてよかった。  保健室に行って熱を測ると、38.2度あった。ベッドに寝かされ、新垣は、送っていくから待ってろよ、と言い残し教室へ戻って行った。  新垣が出て行ってから時間が経つのが長く感じられた。保健室駐在の先生は白いカーテンで仕切られた向こう側にずっといたが、たまに物音がするくらいで、時計の秒針が響いて聞こえるほどに静かだった。スピーカーのチャイムの音がやたら大きく、昼休みが終わった、授業が始まった、と他人事のように聞いていた。眠ろうと目を閉じるが、慣れないところでは眠れないほど神経質であったため、寝返りを打つばかりで寝付けるはずなどなかった。頭が痛く、教室では我慢していた、痰が絡んだ咳をした。背筋を這う寒気に身体を震わせ、奥歯を噛みしめて、ただ時間が過ぎるのを待った。  ずいぶんと長い時間待っていた気がする。ようやく新垣がふたり分の荷物を持って保健室まで迎えに来た。 「小谷、具合どう?」  新垣が心配そうな表情で小谷の顔を覗き込みながら額に手を置いた。答える気力もない、というのが正直なところだった。 「帰ろっか」  新垣が小谷の手を取り、ベッドの上に座らせる。皺になるため脱いでいた上着を着ている間に、新垣が何やら先生と話をしていた。 「肩貸そうか?」 「いい。いらない」  保健室を出て、その足で昇降口へ向かった。荷物は全て新垣が持ってくれた。一度はようやく帰れると安堵したものの、足取りが重く、自宅までがものすごく遠く感じた。長い廊下を歩き、昇降口まで来るので精一杯だった。途中、新垣におんぶするかと聞かれたが、それも断った。靴を履き替えたところで、あとちょっとだよ、と言われた。腕を取られて新垣が指さす方を見ると、一台の車が止まっていた。 「母さんが迎えに来てくれた」  新垣は自分の手柄のように話すが、小谷は一瞬頭が真っ白になった。車にはいい思い出がない。オメガとして初めて発情期を迎えた時、車の中でレイプされた。これが初めての性交の経験だった。しかも、車種は違うが、黒塗りの軽バンで形が似ていた。  だが、そんなことは新垣の知る由もない。グイグイと小谷を引っ張っていき、車に乗せようとする。ドアに近づくと、いきなり後部座席のドアが開いた。運転席に女性が乗っており、身体を捻ってこちらに顔を向けている。 「小谷くん? 初めまして、新の母です~」 「あ、はい。初めまして……」  そういうのいいから早く乗って、と新垣が急かした。ここまで来たら後に退けない。運転手が女性だったことも安心材料になった。ステップに足をかけ、車内に身体を滑り込ませた。ドアが閉められ、一瞬二人きりにされると、やはり不安は大きかった。すぐに反対側のドアが開いて新垣が乗り込む。新垣が隣に来るだけで、ほっと息が付けた。車が滑らかに発進した。 「新、可愛い子じゃない! 小谷くん、こういう時ひとり暮らしだと大変でしょ?」 「ちょ、母さん!! 絡むなよ」 「え~ケチなこと言わないでよ」  可愛いと言われた以外は、特におかしいところはなかったと思う。だが、ずっとこのやり取りが引っ掛かっていて、車がアパートとは逆の方向へ進んでいることにしばらく気付かなかった。気付いた時には、車窓から見える景色は見慣れぬ高そうな一軒家が並ぶ住宅街だった。こっそり新垣に耳打ちする。 「今どこに向かってんの?」 「俺ん家」  平然と新垣が言う。てっきり自宅に送ってもらえるのだとばかり思っていたが、言われてみれば行き先を聞いていなかった。降ろして、と小声で新垣に訴える間に、一軒の駐車スペースに入り車が止まった。降りていいよ、と新垣が言ったが、そういうことではない。新垣が荷物を持ってさっさと車を降りてしまう。後に続くより他なかった。  新垣の自宅は、ベージュを基調とした二階建ての一軒家で、2台の駐車スペースの他に芝生が敷き詰められた小さな庭があった。玄関の周りには、植物を植えたプランターが飾られている。  玄関の鍵を開けるお母さんの後ろで、新垣の袖を引っ張り荷物を返して欲しいと言った。新垣は言うことを聞いてはくれなかった。  玄関のドアが開くと、白い大きな毛玉が落ちていてそれに釘付けになった。それはゴロリと転がって身体を起こし、二つの目がこちらを見つめた。 「ただいま、みーちゃん」  新垣のお母さんが真っ先に近寄り、しゃがんで頭を撫でた。白い体毛に、黒い顔。飼い猫の中では比較的大きい方ではないだろうか。 「あ。聞いてなかったけど、猫アレルギー大丈夫?」 「うん、多分ないと思う」  新垣が素知らぬ顔で聞くので、怒っていたことを忘れて普通に返事をしてしまった。わざとらしい新垣の作り笑顔を見て、しまった、と思った。  肩を組まれ、引っ張られるようにして玄関に足を踏み入れた。お邪魔します、としか言えなくなってしまった。そのまま猫を避けて玄関を上がる。まず洗面台で手洗いうがいをしてから、二階の新垣の部屋に通された。  手渡された新垣のパジャマを借りてそれに着替え、促されるまま新垣のベッドで横になる。大きいパジャマもベッドも、新垣の匂いがする。窓が開けられ、枕元にはティッシュとゴミ箱が置かれた。 「寒かったら閉めていいからね。何か欲しいものある?」 「新垣、いつもより楽しそう」  質問を無視して指摘すると、新垣が一瞬苦い表情を浮かべる。強引に事を運んだことに負い目を感じているようだった。 「だって、ようやく小谷が家に来てくれたから」  他意はないのだろう。これまで何度も誘われては断ってきたことがあった。小谷が何も言わないでいると、怒っていると解釈したのか、騙し打ちみたいになったのはごめんだけど、と居心地悪そうに付け加えた。 「いや、それはもういいよ。新垣のお母さんが言ってた通り、こういう時ひとり暮らしだと何かと大変だし。迎え来てもらったのもありがたいと思ってる」  慰めなどではなく、まぎれもない本心だった。 「小谷……」  新垣がほっと表情を緩めた。小谷としても新垣が腫れ物に触るように扱われるのは不本意だった。 「それより、俺のこと何か喋った?」  小谷の問いに、新垣の緩んだ表情が再び固まる。反射的に小谷の目がきつく細められた。観念したように新垣が息を吐き出した。 「付き合ってるって家族に話してある。それからずっと連れて来いってうるさくて。あ、でもオメガとか番いとかは言ってない」  やはりそうかと思う。新垣の母親とは初めて会ったが、向こうは自分のことをよく知っているように感じられた。小谷が感じていた違和感の正体はこれだったのだ。それから、新垣のお母さんがやたらはしゃいでいるように感じられた理由もこれでわかった。あの時の新垣のお母さんは恋バナをしている女子と同じテンションだった。 「家族は何て?」 「母さんはあんな調子で、姉ちゃんは面白がってたな。父さんはまず会ってみないと何も言えないって。別に反対してる感じではなかったけど」  家族に何か言われても別れるつもりなんてなかったから安心して、と新垣が言う。ひとまず、新垣の大切な人に拒否反応がなくてよかった。番いである以前に男同士であり、同性間においての恋愛関係に対する世間からの偏見の壁は厚く、高い。そこさえクリアできれば、後は当事者間の問題だと思っていた。  当事者間の問題というのは、新垣と小谷の間のこと。アルファとオメガの、番いの関係のこと。アルファの新垣はともかく、オメガの小谷は新垣がいなければ生きてはいけない。別れるつもりなんてないと新垣が言ってくれる間は安泰だ。 「小谷が前におじいさんとおばあさんに会わせてくれただろ? それと一緒だよ」  何か持ってくるね、と新垣が部屋を出て行った。ドアが閉まり、階段を降りていく音が聞こえなくなると、部屋はシンと静まった。時折出る咳が部屋に響く。  初めて来たはずなのに、新垣の部屋はすごく落ち着いた。窓から入る風は冷たいが、新垣の布団は温かかった。枕に頭を預けたまま新垣の部屋を見回す。これといって目をひくものはないが、学習机の上も本棚も、パジャマを借りるときに見えたクローゼットの中も、きちんと整頓されていた。参考書と一緒に本棚に入っている漫画やファッション雑誌、ベッドの脇に積んである週刊誌やゲーム機、携帯の充電コードに生活感を感じる。  小谷が新垣を祖父母に引き合わせたのは、誰かに新垣が自分の番いであることを周知させたかったからだ。誰に認められなくても新垣さえいればそれで構わないと思っていた。新垣に対する独占欲と自慢したい気持ち、新垣が自分のものであることを他人に認めてほしいという欲が顔を出した。それが満たされたとき、こんなに幸せなことは他にないと思った。  いつの間にか眠っていたようだ。起きた時には部屋が真っ暗になっていてびっくりした。手探りでスイッチを探し、部屋の明かりを付ける。新垣の学習机の上のデジタル時計を見ると、時刻は午後8時を回っていた。  誰かが部屋に入ってきたようで、開いていたはずの窓が閉められ、暖房と加湿器が付けられていた。そういえば、一度新垣が来て顔を触られたような気がする。部屋の真ん中に、来た時にはなかった小さな卓袱台が置いてあり、ペットボトルのスポーツドリンクとゼリー飲料、バナナと体温計、替えのマスクが置いてあった。  身体を起こし、少し窓を開けた。乾燥した冷たい風が、火照った頬に当たり気持ちよかった。用意してもらったティッシュで鼻をかんで、マスクも新しいものを使わせてもらった。  ベッドから降りて部屋を出る。廊下に出ると寒さが足元から這い上がってきた。廊下の明かりはつけっぱなしになっていた。一階から話声が聞こえる。斜め前のドアがトイレだと予め新垣が教えてくれていたので、借りることにした。  用を足してトイレを出ると、階段を上がってきた家の人とばったり会った。 「あっ、小谷くん!!」  新垣の姉だろうか。ビジネススーツに身を包み、ウェーブのかかった胸まである長い髪が印象的だった。顔は、新垣と瓜二つだ。新垣を女性にしたらこんな感じなのだと思う。お姉さんも新垣も、お母さんとはあまり似ていないから父親似なのだろうか。 「はい、お邪魔してます」 「新の姉で結って言います! よろしくね」  新垣の姉が小谷の両手を握る。いくら手を洗ったとはいえ、トイレから出て来たばかりで焦ったが、新垣のお姉さんは全く気にしていない様子だった。お母さんといいお姉さんといい、新垣の家族は社交性が高くて驚かされる。新垣と同じで手がとても温かかった。 「コラ、結!!」  声がした方を見ると、新垣が階段の下から叫んでいた。 「嫌な予感がしたから来てみれば。こいつに変なちょっかい出すなよ」 「失礼な。ただ挨拶してただけよ」  新垣が階段を上がってきて、小谷と姉の間に割って入った。これと似たやり取りを、夕方に一度見たような気がする。 「小谷が穢れるから触るなバーカ。シッシ」 「あんたってほんっと可愛くないわね」  廊下にお姉さんを残し、新垣に肩を抱かれて部屋に戻ってきた。窓が開けっぱなしだったので、せっかく温かかった部屋が冷えてしまっていた。すぐに窓を閉める。 「お姉さんと仲悪いの?」 「別にそんなことないよ」  新垣が平然と言う。傍から見れば、思春期の男子高校生が年上の姉と対立していても何ら不思議ではない。思い返してみれば、お姉さんは本気で相手しているというよりもあしらっているような感じだった。 「新垣、お姉さんとそっくりだね」 「それ、姉ちゃんの前で言うなよ? すっげぇ嫌そうな顔するから」  新垣が顔をしかめて言うので、苦笑いで返事をした。もっとも、マスクをしていたのでうまく伝わったかは微妙なところである。 「ちゃんと化粧するとか、もっと女らしくすればいいんだよな。仕事ばっかりで男作ろうとしないし、帰ってきたらソファにふんぞり返ってビールかっ食らって、オッサンかよって」  ひとしきり姉への愚痴をこぼした後、それより、と新垣が話題と声色を変えた。 「そろそろ起こそうと思ってたんだ。体調はどう? ご飯食べれそう?」  新垣が小谷の額を触り、首筋を触る。 「だいぶ良くなったと思う。ご飯も入りそう」 「熱も少し下がったみたいだし、顔色も良さそうだな。一応熱測っといて。お粥作ってくる」  再び新垣が部屋を出て行った。慌ただしい奴だ。スポーツドリンクの近くにあった体温計を腋に挟んだ。ずっと横になっていたのでまた寝る気分にはなれず、ベッドの上で胡坐を搔き、壁にもたれかかった。目に付いた週刊誌を1冊手に取り、ページをめくった。最近は全然漫画を読まないので、見たところで内容がさっぱりわからない。そのうちに体温計が鳴る。37.8度。昼間よりは下がっている。 「小谷、ドア開けて」  しばらくすると、階段を上る音とドアの外から新垣の声がした。ベッドを降りてドアを開けると、お盆で両手が塞がった新垣が立っていた。半歩下がって道を譲る。卓袱台の上にお盆が置かれた。お盆に乗っていたのは、卵粥と水が入ったコップだった。卵粥からは白い湯気が立ち上っていた。  ドアを閉めてお盆の前に座ると、新垣がじっと小谷を見つめた。食べ辛さを感じつつ、お椀と木のスプーンを手に持つ。 「いただきます」  少なめにスプーンですくい、少し冷まして口に運ぶ。おいしい、と言うと、新垣がパッと表情を明るくさせる。 「それ作ったの、俺なんだ」  そうだろうなと思った。それでも、純粋に新垣が自分のために何かをしてくれることが嬉しかったし、自分の一言で喜んでもらえることも嬉しかった。  ずっと寝ていたし、あまりお腹は空いていないつもりであったが、そういえば今日は昼から何も食べていなかった。残してもいいと言われていたが、あっという間に空にしてしまった。 「今日風呂どうする? やめとく?」  無意識に時計に目をやると、午後9時になっていた。 「入りたいかな。寝てる間に汗もかいただろうし」 「そう? じゃあ付いてきて」  新垣が空になった食器を乗せたお盆を持って先導する。新垣に続いて部屋を出た。1階に降り、まず新垣がダイニングキッチンに入ってお盆を置いた。廊下から部屋を覗くと、お母さんはソファでテレビを見ており、風呂上りらしいお姉さんはパジャマ姿で夕飯をとっていた。新垣の話を思い出してビールの缶に目が行ってしまった。  新垣が戻ってきて廊下を奥へ進む。引き戸を引いて脱衣所に入り、ガラスの戸を開けると浴室になっていた。 「俺が使ってるシャンプーはこれ、リンスはこれ。ボディソープはこれだけど、好きなの使っても大丈夫だよ」  聞けば、家族それぞれで好きなものを買ってくるらしい。ボトルがたくさんあったが、それでもきちんと棚に収まり、鏡の前が清潔に保たれるくらいにはお風呂は広かった。  風邪引いてるんだからすぐに出ろよ、と念を押して新垣は一旦風呂場を出て行った。着替えと、下着は新品の物をもらうことになった。ついでに歯ブラシも新品の物を出しておいてくれるらしい。新垣と同じボディソープで身体を洗っていると、新垣が着替えを置きに脱衣所へ入ってきてすぐに出て行った。  髪と身体を洗うと、湯船に身体を沈めた。足が伸ばせるほど広い浴槽、溢れそうなほどたっぷり入った温かいお湯。床下暖房が入っているのか足元は温かく、蛇口を捻るとすぐにお湯が出て来た。体育座りでしか入れない浴槽、水道代節約で半身浴程度の湯しか沸かさない。いつまで経ってもなかなかお湯にならない蛇口。小谷の住むアパートの風呂とは大違いである。  まだまだ入っていたかったが、新垣にすぐに出ろと言われてしまったので仕方なく風呂から出た。タオルを借りて身体を拭き、新品の下着を身に付けて新垣が用意してくれたサイズ違いの服に着替える。洗面台で歯を磨きながら、至れり尽くせりでまるで旅館にでも来たみたいだと思う。  ドライヤーで髪を乾かし新垣の部屋へ戻る途中、猫と目が合ってダイニングキッチンの前で足が止まった。お姉さんがソファに寝転び、お腹に猫が乗って携帯を見ていた。お母さんの姿は見当たらなかった。お姉さんが小谷の視線に気付き、新なら2階だよ、と教えてくれた。 「ありがとうございます」 「おやすみー」 「はい、おやすみなさい」  誰かの家に泊めてもらうのは、小学校低学年の時以来だろうか。人様のプライベートを垣間見るのは、なんだか悪いことをしているみたいでソワソワする。  一応、新垣の部屋に入る前にノックをした。はーい、と新垣が間の抜けた返事をする。ドアを開けると、新垣が机に向かっていた。 「遅かったじゃん」 「そう?」 「あとちょっとで見に行こうかと思ってたよ」  大袈裟な、と心の中で呟いて新垣の背後に回り込んだ。手元を覗くと、数学の問題集を解いていた。 「ちょっと待って。あと2問だけ」  手を動かしながら新垣が言う。そういえば、宿題出てたっけ。  影を作ってしまうので一歩後ろに下がった。 「新垣はもう風呂入ったの?」 「うん。小谷が寝てる間に」  あっそう、と相槌を打ちながら、無自覚に襟足から覗く骨ばった項に目がいった。小谷の項には、番いのしるしである新垣の歯型がくっきりと刻まれている。新垣の項は、まっさらで綺麗だった。  どれくらいの力で噛んだら、歯型が付くのだろう。吸い寄せられるように、無防備な新垣の首筋に噛み付いた。 「痛った! え、なに!?」  新垣が素早く椅子を回転させ、手で項を庇った。噛んではみたものの、歯ごたえは感じなかった。 「首、見せて」  なんだよ、もー。そう言いながらも、新垣は背中を向けて少し頭を下げ、項を見せてくれた。噛んだところの皮膚はほんのりと赤く形になっていたが、これではすぐに消えてしまうだろう。 「なんか、みーちゃんみたい」 「みーちゃん?」  首を傾げる小谷に、うちの飼い猫だよ、と新垣が言った。玄関で寝そべる姿と、新垣のお姉さんの上で寛ぐ顔の黒い白猫の姿を思い浮かべた。 「うちのみーちゃん、構ってほしいとき手とか足とか噛んでくるんだよ。さすがに項は噛まれたことないけど」  新垣が椅子を回して小谷の前に立つと、小谷の足が地面から浮いた。一瞬何が起きたか分からなかったが、腰に腕を回されて抱き上げられていた。とっさに新垣の肩にしがみつく。後方に数歩動かされ、ベッドの上に押し倒された。新垣が小谷の上に覆いかぶさり、顔を近づけてくる。とっさに手で新垣の顔を押し返した。 「え、なんで。ひどっ」 「新垣……一応俺風邪引いてるんだけど」  新垣が小谷の手を退かし、こめかみにキスをした。 「じゃあこっち」  身体ごと顔を背けると、新垣が後ろから抱き枕かぬいぐるみにするようにぎゅっと抱きしめてきた。 「はぁ~小谷可愛い。超可愛い」  ふぅ、とひとつ息を吐く。新垣の過剰なスキンシップと愛情表現には慣れそうにない。 「勉強は終わったの?」 「まだ。だけど、もういい。明日やる」  やれやれという雰囲気を醸しながらも、まんざらでもない、というのが小谷の正直な感想だった。決して新垣の邪魔をするつもりはなかったのだが、ふたりきりなのに新垣が自分の方を見ないのは面白くなかった。 「小谷めっちゃ暖けー」  ぐりぐりと額を背中に擦り付けながら新垣が言う。 「そりゃ、風呂から上がったばっかりだからね」 「このまま寝るか」  新垣が突然身体を起こし、足元に畳んであった掛布団を引き上げた。枕元のスイッチで照明を消し、すぐに部屋が暗くなった。新垣が再びベッドの上に横になり、後ろから小谷の腹に腕を回した。 「えっ、一緒に寝るの?」 「だって、ベッド一個しかないし」  さっきまで我が物顔で占領していたが、これは新垣のベッドであることを思い出した。恥ずかしくなってすぐにベッドから出て行こうとしたが、新垣に抱き締められて動けなかった。 「どこ行くの?」 「ごめん……! 俺、床でもいいよ。それか、今から帰る」 「待って待って! どうしてそういう話になるの」 「だって、風邪うつしたら嫌だし」 「大丈夫だよ。俺身体丈夫な方だし、それに小谷の風邪なら本望って言うか」  新垣が一旦言葉を切り、意地悪な言い方してごめん、と謝った。 「お客さん用の予備の布団あるんだけど、このまま小谷と寝たくて言わなかった。小谷がベッドから出るって言うなら俺が予備の布団出して床で寝るけど、どうする?」  この聞き方も、十分意地が悪いと思う。別で寝ると言ったらまるで新垣をベッドから追い出すようなもので、実質選択肢はないに等しい。 「……うつっても知らないからね」 「そしたら小谷に看病してもらお」  全く、調子がいい。でも、もし新垣が風邪をひいても、きっと家族が手厚く看病してくれるのだろう。  時刻は午後10時を過ぎていた。いつもならもう寝る時間ではあるが、今日はずっと横になっていたのですぐには眠れそうになかった。新垣が黙ると部屋がシンと静まって、時計の秒針の音さえ聞こえない。そういえば、新垣の部屋の時計はデジタル時計だった。 「新垣、お父さんってどんな人?」 「父さん?」  新垣がとぼけたような声を出す。新垣は寝つきがいいから、寝息こそはまだ聞こえなかったが半分眠りに入っていたのだと思う。 「えーっと、普通の人だと思うよ? 良くも悪くも放任主義で、進路とか成績のこととか口出して来ないのはありがたいかな」 「ふーん。いつもこの時間になっても帰って来ないの?」 「うん。大体夜遅くに帰ってきて朝早く出てくから、会うのは寝る前のちょっとの時間と週末だけ」 「じゃあ、明日早起きしたら会える?」 「えっ、父さんに会いたいの? 小谷が自分から人と関わろうとするの珍しいね」  新垣が驚きの声を上げた。高校からの自分しか知らないのだから無理はないが、オメガとして発現したから人を避けるようになっただけで、元々人を寄せ付けない性格だったわけではない。 「じゃあ、明日のアラーム4時30分にかけるよ。いい?」  早速新垣が携帯に手を伸ばした。暗闇の中で携帯の明かりが新垣の顔を照らす。寝返りを打ち、アラームを設定する新垣の様子を見ていた。すぐに設定が終わり、携帯の画面を消すと再び部屋は暗闇に包まれる。 「ありがと、小谷」  新垣が小谷を抱きしめた。お母さん、お姉さんに会ったので、お父さんにも、と思っただけだ。それが新垣にとっては嬉しいことだったらしい。  お父さんに会うことに、緊張していないわけではない。だが、新垣が一緒なら大丈夫だと思えた。  眠るまで、1時間くらいだろうか。ボソボソと小声で話し込んだ。先に寝落ちしたのは小谷で、新垣は小谷が眠くなるまで根気強く付き合ってくれた。  突如、聴き慣れない音が大音量で耳元で鳴った。眠っていた小谷は、一瞬何が起こったかわからずビクッと身体を跳ねさせてその場に固まった。隣から腕が伸びてスマホのアラームを消した。ふわぁ、と新垣が大きく欠伸をする。布団の感触がいつもと違うことに一瞬戸惑ったが、ここは新垣の家だということを思い出した。そして、この時間に目覚ましをセットした目的も。窓の外はまだ真っ暗だった。 「どうする? まだ寝ててもいいけど」  頭まで布団を被った新垣が言う。起きようとする気配はなく、放っておくとすぐに二度寝しそうだ。 「起きる」  小谷の一言で新垣が渋々布団から這い出し、ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしりながらもう一度欠伸をした。昨晩は嬉しそうであったが、当日を迎えてやはり眠気には抗えないようであった。  布団から出ると、空気がひんやりと冷たかった。寝る時は暖房が付いていたが、寝ている間に切れたらしい。さびーさびーと身体を震わせながら新垣が部屋のドアを開ける。 「あ。そういえば熱はどう? 下がった?」 「うん、もう大丈夫みたい」 「それはよかった」  新垣はいつも通りで、風邪をうつしていないようでホッとした。  新垣に続いて階段を降りる。廊下を挟んですぐ正面のダイニングキッチンは明かりが付いていた。 「おはよー」  ドアを開けざま、新垣がわざと声を張る。テーブルに着いてテレビを見ていた男性がビクリと肩を跳ねさせた。 「新!? どうした、早いな」  新垣がずんずん部屋へ入っていき、カウンターの向こうのキッチンスペースで冷蔵庫を開けた。部屋に入るタイミングを失い、ドアの前で立ち尽くす。男性の視線が新垣から小谷へ移動した。 「小谷くんだね? 結から聞いてるよ。そこじゃ寒いだろう。中へ入りな」 「あ、はい。お邪魔します」  部屋の中へ入り、ドアを閉めた。部屋は暖房が効いており廊下より暖かかった。どこに座っていいかわからず、恐る恐る新垣のお父さんの前のテーブルに着いた。新垣は、何かを電子レンジで温めていた。 「君のことはよく新から聞いているよ。いつも新がお世話になって」 「いえ、こちらこそ! 風邪ひいて看病してもらいましたし」 「風邪はもういいのかい?」 「はい、おかげさまで」  それきり新垣のお父さんは口を閉ざしてテレビの方を向いてしまった。猫はどこにいるんですか、と話題を振ると、結と寝てると思うと答えてくれた。みーちゃんは近所の家で産まれた子猫で、結が相談なく引き取ってきたのだと言っていた。みーちゃんという名前も、まだ小学生だった結が名付けたのだと言っていた。  今度こそ会話が途切れてしまった。テレビを見つめるお父さんの横顔は、なんだか居心地悪そうに見える。確かに、突然朝早くに息子の彼氏が現れたら何を話していいか困るのも無理はない。小谷としても、ただ会ってみたかっただけで特別何か話があるわけではなかった。  なんとなく、厳しい人なのだろうと思っていた。想像と違って穏やかそうな人だという印象を受けた。顔はのっぺりとした日本人顔。長袖のTシャツにGパン姿で、休日の装いに見える。身長はあまり高くなさそうだ。中年特有のビール腹というやつで、お腹がポッコリとしていた。新垣姉弟の堀が深いくっきりとした顔立ちと、スラっと長い手足は母親譲りのようだ。眉の形は父親から受け継がれたらしい。  電子レンジが鳴り、新垣がマグカップをふたつ持ってきた。ひとつを小谷の前に置くと、新垣と入れ替わるようにしてお父さんが席を立った。 「新、俺もう行くよ」 「うん、いってらっしゃーい」  新垣が新聞を広げながら言う。本当に、いつもこの時間に出ていくのだろうか。自分がいるから気まずくて、いつもより早く席を立ったのではないだろうか。新垣が淹れてくれたはちみつ入りのホットミルクで手を温めながらしばらくテレビを見ていたが、ふと思い立って席を立ち、玄関へ向かったお父さんの背中を追った。突拍子もない小谷の行動に驚いた新垣がワンテンポ遅れて小谷の後を追う。玄関で靴を履いていたお父さんが驚いて小谷を振り返った。自分でも、何故行動に出たのかわからなかった。 「あの、いってらっしゃい」  それだけ言うと、何をやっているのだろうと急に恥ずかしくなってきた。見透かしたように、お父さんがふっと笑う。 「今度は遊びにおいで」  軽く会釈して出て行ったお父さんに、会釈で返した。本当はもっと、新垣のお父さんと話をしたかったのかもしれない。そして、気に入られて新垣と付き合ってることを認めてほしかった。  新垣がポンと小谷の頭に手を乗せた。 「まだ早いし、俺はもうちょっと寝るけどお前はどうする?」 「俺も一緒に寝る」  ダイニングキッチンへ戻り、ぬるくなり始めていたホットミルクを一気に飲み干した。マグカップをシンクに置いて新垣の部屋へ戻り、わずかに温もりが残っていたベッドに二人でなだれ込んだ。窓の外が白み始めていた。

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