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33 再会編 君との思い出

 暖かな吐息を漏らしながら、白いシーツの上、セラフィンが解いてやった長い髪を乱して無防備に少年は眠る。  隣りに腰かけてランプシェードから落ちる光に浮かび上がるあどけない貌を、セラフィンは夜中を過ぎてもずっと飽かず眺めていた。  時折柔らかな髪を撫ぜ、なめらかな頬に触れて彼がここにいることを確かめる。純粋無垢で、清らかな色香が漂うその姿形。そしてまた見つめるだけで心が穏やかになり、優しい気持ちが溢れてくる心地だ。  彼のことを忘れたことなど一度もない。5年前に出会った時から途切れずにくれた手紙の束は、靴箱にいれてクローゼットに大切にしまわれている。  拙い字が回を追うごとに目覚ましく成長してゆき、文章も大人っぽく変わってきたが、書いてある愛情深く心温まる内容は変わらなかった。  少年のヴィオが日々何を感じ、何に心を動かされ、そして多くのことにしなやかに挑戦し頑張る様子が、美しい四季の移り変わりの鮮やかな情景と共に目に浮かぶようだった。  手紙に目を通す時ヴィオの柔らかで純粋な心に触れているような気がして、便りが届くたびセラフィンには一迅の暖かな風のような爽やかな安らぎを与えてくれた。  そして度々思い起こした。あの愛らしく可愛らしかった少年は今、どれほど大きく美しい若者になったのだろうか。  泣き虫だった少年は今はもう泣いてはいないのだろうか。去り際の切なさと共に何度も思い出した。 「ヴィオ、どうして今……」  あまりに唐突に訪れた彼との再会に、セラフィンは忙しい日々に追われ凍った心を乱され、言葉を失うほどに驚いた。驚いたと同時に、彼を一目見た時すぐ、あの日と同じように俄かに愛おしいと思う想いが溢れて、この胸にはまだ熱い血潮が流れていることを思い起こさせてくれた。  しかし同時に、けして今自分が置かれている現状に彼を巻き込んではならない、どうにかして彼を里に返してやらねばとも強く思ったのだ。  アガと対話したあの晩、酒を酌み交わしながら彼が里と共に、妻の忘れ形見である我が子を何より大切に思う気持ちを、セラフィンは聞いていたからだ。 (お前はあの里の希望。あの里の命そのもの)  けして自分のような人間が汚してはならない、尊い存在。  過去の幻影に憑りつかれたままの、自分のような男には。  子どもの頃のように優しく唇で触れた清い額すら甘く、立ち上る香りは抑制剤を打っている自分の鼻孔をも僅かにくすぐる。セラフィンはいつまでも見つめていたくなる心を押し殺して寝室を後にした。  時計の音がコチコチと聞こえる。静かな部屋。  部屋の中は暗く、目を醒ましたヴィオは見覚えのない天井に思わず飛び起きた。 「起きたのか?」  自分の足先越しに見えたのは夢にまでみたセラフィンの姿。ヴィオは顔を真っ赤にして、目をこすりながら大声で叫んでしまった。 「夢じゃなかった~ 本当に本物の先生がいる!!!」 「元気そうでよかった。酒は残ってないみたいだな?」 「お酒? え? あ! 先生、ここどこですか? ってやっぱり夢? どうして先生?」  やはりまだ寝ぼけているのか訳が分からないほどじたばたしたヴィオに、セラフィンは朝日により輝く白皙の美貌で微笑んだ。 「まだ朝早いから、慌てることはない。まずは温かい湯を浴びて、身体を温めておいで」  セラフィンに促されてヴィオは部屋をきょろきょろ見回しながら立ち上がり、セラフィンの後ろに大人しくついていった。 「先生? ここ先生の家?」 「そうだよ。お前は昨日すっかり酔っぱらってしまって、泊るところがないなんていうからここまで連れてきた」 「えええ! ああ! うわ!」  ヴィオは奇声を発しながらわたわたと慌て始めて、立ち止まったセラフィンの背中にぶつかってしまった。 「ご、ご迷惑をおかけしました。あの、僕」 「わかったから。朝食をとりながら話そう。湯を浴びて出てくるのを待ってる」  用意されていたのは服ではなく大きなサイズのバスローブでヴィオはそんなものを見たことも使ったことがなくてすごく恥ずかしくなってしまった。 (たぶん、羽織るやつだろう、うん)  適当に腰の紐を巻き、太もももあらわに濡れた髪もそのままに裸足でぺたぺたとでてくると、鮮やかな青いスリッパをもってタイミングを計ったようにセラフィンがやってきた。  胸元がはだけたヴィオのローブを綺麗に整え足元に跪くと、大切なものを扱うように足先を持ち上げ、ヴィオにそれを履かせてくれる。美しく立派な紳士である先生にそんなことをしてもらって、ヴィオの心臓は高まるばかりだ。  セラフィンは暖かな湯を浴び桃色の頬をしたヴィオを朝日の中で眩し気に見つめると、濡れた髪に肌触りの良い綿のようにふわふわのタオルを被せて髪の雫を軽く拭う。 (どうしてこんなに優しくしてくれるの? 先生)  そのままゆっくりと背を押してくれながらリビングに誘導してくれる。見上げると目が合って青い瞳がまた優しく細められた。  先生の中では自分はまだ小さな子供のように映っていてあれこれと世話をやきたくなる存在なのかもしれない。そう思ってヴィオはされるがままに心地よく世話をやいてもらっていた。 「うわあ。すごいね。朝ごはんもお洒落だね。中央って感じがする」  ヴィオの里の朝食は豆の粉を引いて発酵させたものを丸めて焼いた万頭か硬めのパンとそれを浸すスープ、そしてその日とれた野菜を保存肉などと炒めた物をとるのが定番だ。  セラフィンの家の朝ご飯は炙ったふわふわのパンに甘い香りのするお茶。鮮やかな南の地域のフルーツの入ったサラダ。卵をこれまたフワフワに焼いたものと、とろとろのチーズ。なんだか夢のように優し気な品物ばかりだ。  目を輝かせているヴィオにとても都会的でお洒落な造りの白と青と黒が基調となった部屋が似合っている。ヴィオはうっとりしてしまってほほを染め、セラフィンは終始微笑んでくれていた。 「さあ、おあがり」 「いただきます」  頭を下げて一瞬は目移りしながらもヴィオはゆっくり丁寧に食事を平らげていった。こういうがつがつせず、躾が行き届いた優美な仕草はとても好感が持てるとセラフィンは感心した。  実際は男所帯で量をしっかり食べるならばマナーが二の次だったドリの家で育ったヴィオをみて、名家出身、マナーの鬼であるアン先生が根気よく矯正した結果だったのだが。幸いここでその経験を活かすことができた。 「ヴィオ、家出してきたのか?」  いきなり核心をついてくるセラフィンにヴィオは食後のお茶を吹き出しかけた。姉に言われた通り、まったく嘘が付けない性格だ。 正面からじっと見据えてくる冴え冴えと青い瞳を見つめたら余計に言葉が出なくなる。ヴィオはそれでも言葉を選びながらゆっくりと自分の気持ちを言える部分だけ伝えていくことにした。 「でも僕、もう成人しているので、家出には当たらないと思います。中央で仕事を見つけて、働きながら勉強したくてでてきました。仕事は、あの。見つかるかもしれなくて。あとは里の学校の先生たちが所属している協会があって、そこを援助してくださっている方が中央にいらして、その方に推薦をしていただけたら中央の看護学校に通えるかもしれなくて……」  ヴィオは流石にセラフィンの傍にいて役に立ちたいから看護師の学校に通いたいなどと、ずっと目標としたことであっても当の本人を前にしてとても言えなかった。  ヴィオが話し終わるのを口を挟まずに穏やかに聞いていたセラフィンだが、お茶に口をつけ一息をつくと再びヴィオの目を真剣な顔で見据えてきた。 「ヴィオは自分がオメガだってことは知っているのかい?」 「え……」 「その顔。知っているんだね? 発情期が来たことは?」  どうしてばれたのかはわからないが、先生に嘘をつくことはできないと、ヴィオはぎゅっと膝の上で拳を握りしめつつつ、ふるふると首を振った。 「中央は家族と離れたオメガが一人で暮らしていくには危険が多すぎる。日々漏れるフェロモンは抑制剤でコントロールすることもできるが、人によっては倦怠感や頭痛など日常生活を送るうえでも深刻な副作用が出やすい。特に男性のオメガはただでさえ数も少ないオメガの中でもより希少だから医療も研究がされつくされていないのが現状だ。大体四半期に一回とは言え、発情期になったら仕事にもいかれない。理解のある仕事にもつかなければならないし、学校も同じだ。悪いことは言わない。里に帰りなさい」  頭を殴られたような衝撃を受けて、ヴィオはショックで二の句が継げなくなってしまい、いつもの癖できゅっと唇を噛みしめた。

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