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黒鳥の湖 52

「蛤貝は?」  そう第一声に問いかけてきた時宝の険のある目元が柔らかく見える。  いつもは、オレに「元気だったか」と声をかけてくれるのに…… 「  準備を終えて、座敷で旦那様を待っております。お顔を見せてやってくださいませ」  震えることなく告げることができたはずなのに、オレの言葉を聞いた時宝ははっと目を見開いてから気まずそうに視線を逸らし、不愛想に「ああ」と短い返事を返してくる。  合わない視線のために出来た距離に、妙に心が騒めいて……  蛤貝がにっこりと極上の笑顔で時宝を出迎えて座敷の中へと消えていく姿にその場に崩れ落ちたくなるような、奇妙に思えるほどの脱力感に襲われて、二人を見守るために控え役の人間が座る場所に腰を降ろした。  はしゃぐ声が耳に届くたびにぐっと拳を作って膝に目を落とす。  治ることのない胸のざわめきが体を震えさせて、袖からほんの少しだけ覗く痣をそろりと撫でた。新枕できつく、まるで離さないと訴えるように時宝が押さえつけた結果できたそれは、見つけた当初はオレを求めて、欲しくて、奪いたい気持ちの表れだと思ってくすぐったく思っていたけれど。 「ただの、ラット だった、のかな」  俺のものだ と、  俺の運命だ と、  ……ぎゅ っと首のガードを握り締める。  時宝に言われた言葉に舞い上がって、やっぱりあのガラスの小瓶は入違っていたんだって、時宝が欲しがってくれたのは自分だったんだって!  ……でも、 「オレのヒートにあてられただけ だったのか   」  Ωの発情に興奮したαが何を言っても耳を貸さないようにと、幼い頃から言い聞かされていたのに。  発情にあてられて我を忘れたαは、Ωを手に入れるためならどんな言葉だって言うし、どんなことだってする。例えそれが人道に反することだったとしても、その時のαにそのことに対する罪悪感なんて欠片もないのだから、と。  それでも、身に染みた躾を無視させるくらい時宝の言葉は嬉しくて、嬉しくて…… 「  お洋服、素敵でした!嬉しく思います!」  はきはきと上がった蛤貝の声にはっとなって顔を上げる。  今のオレの役目は座敷で何も事件が起こらないように見張ることなのだから。 「  今日、着せて見せたかったんですけど、ここでは洋服を着ることができないので……ごめんなさい 」  着物の袴と帯と違って洋服は着脱が簡単だから、『盤』で洋服を着ることができるのは外から来るお客だけだ。 「いや、事情は分かっているつもりだ」 「でしたら、どうして?お洋服を?」 「一週間後に弟の婚約祝いの集まりがある、小さなものだが……出てみたくはないか?」

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