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黒鳥の湖 81

「   蛤貝なら、大丈夫だよね」  守ってやりたい と思わせる外見とは裏腹に、中身はしなやかで強い。  それは傍に居た自分が一番良くわかっているから。 「……あとは、   」  視線をやったのはハンガーに掛けてある時宝のスーツだ。  壁にかけてある時宝のスーツを手に取り、匂いを嗅ぐと雨の匂いが鼻をくすぐって、凪いでいた心の表面に波が生まれるのを感じる。  これは、本当は返さなければいけないものだったし、持って行くにはかさばりすぎる物なのだけれど、なんとかボストンバッグに入れたくて試行錯誤をした。  けれど今のままではきちんと収まってくれそうになくて、じっとそれを見下ろす。  見詰めたところで小さくなんてなってはくれないんだけれど、なんとか持っていたくて…… 「ショール か」  那智黒の名前を継いだ時にお祝いとして黒手から贈られたもので、自分自身の持ち物と言うのがほぼないここでは珍しい物だった。  気に入って愛用していたけれど、これを処分すれば随分と余裕ができる。 「仕方がないよね」  力のない笑顔で自分を励まして、綺麗に畳んで黒いスーツの上に重ねて置いた。  どちらもオレにとっては大切な物だったけれど、時宝の匂いの馴染んだ上着と比べることなんかできない。  オレが手放したくないって言うのもあったけど、子供が生まれた時にお父さんのものだよって見せてあげたかったから。    小さなボストンバッグを持って廊下を歩くオレとすれ違った小石がはっとしたような顔を見せ、何事かと言う顔でこちらを見上げておろおろとしている。 「にぃさ  どしたん?」 「んー……部屋替えなんだ」  そう言うと小石はショックを受けたように胸の前で拳を作って固まってしまって、大きな両目を見開いてかける言葉を探しているようだった。  理由を聞きたいのか、  慰めを言おうとしているのか、  どちらにしても、オレが下の部屋に行くことをはっきりと感じ取っているんだろう。 「じゃあもう行くな」  余計なショックを与えてしまった と少し悲しくなった。こう言う時、蛤貝ならもっと上手に切り返したかもしれない。  答えを探しあぐねた小石ににこりと微笑んで、下の部屋へと向かった。  下の部屋は屋敷の北側、竹に囲まれているせいで日の光の届きの悪いここでも、更に日の光の届きにくい所にある。  どの部屋もどの廊下から行ける構造をしている屋敷なのにここだけは行き止まりにあって、あえてここに来ようとしなければ偶然にでも立ち入るなんてことが無いような作りになっていた。  それだけ、ここが『盤』で異質なんだろう。 「那智黒です、入ります」  そんな部屋だから普段オレ達が下の部屋に立ち入ることはなくて、長くここに暮らしていると言うのに足を踏み入れたのは初めてのことだった。  戸は他の部屋の物と大差はない。  けれど、そっと開けた扉の向こうに広がった部屋のがらんとした光景に、思わず立ち竦んで戸に縋りついた。

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