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黒鳥の湖 84

 体を冷やすのは腹の子にも良くないから と愛用のショールを取り出そうとして、この部屋に来る時に処分したことを思い出した。引き寄せた小さなボストンバッグの中にないそれを手放したことを後悔しながら、代わりに時宝の上着を取り出してすん と鼻を鳴らす。  雨の匂いだ。  少し癖のある、でもオレの好きな匂いだ。  そろりと腕を通してみると、案の定ぶかぶかでオレの指先がやっと出るか出ないかくらいで、すっぽりと体が覆えてしまうんじゃないかって錯覚に陥るほどそれは大きかった。  袖口に顔を埋めてふんふんと匂いを嗅ぐと、肺いっぱいに時宝の匂いが満たされて、先程までの寒さも不安もすべて拭われてしまったような安心感に包まれる。  叶うならば、頭の先から爪先までこの匂いに溺れていたいって思いが溢れ出して、ぎゅうっと体を抱いてうずくまった。    薄墨の掌に転がされた黄色と赤色の二色のカプセルに戸惑っていると、オレの気持ちなんかお構いなしにぱくりと口に含んで飲み下してしまう。 「これが吐き気止めと鎮静剤だ」 「……はい」  番を持ったΩは他のαを受け付けない。  その性欲を向けられただけで嫌悪と吐き気に襲われる、それはαが番関係を解消した後も続く。だから、下の部屋にいるΩが首を噛まれていたらこの二つを服用して仕事に臨むのだと……  そして、相手次第では発情薬も使ってもてなすのだと教えられて、薬を飲むことに慣れないオレは思わず顔をしかめてしまった。 「まぁ飲む飲まないは自由だけど、辛いのは自分だからな」  心を読まれた恥ずかしさに俯くオレを気にも留めずに薄墨は「それからー」と物を考えるために視線を彷徨わせる。 「説明すんのも面倒だな。こっちは向こうと仕様が全然違うから、今日は俺の仕事を見て覚えろ」  『今日は』見るだけ。  それがいつまで続いてくれるのか……  腹の中に子供がいるのだから産まれてくる七か月後まではないとして、体が回復すればすぐにでも客を取らなければならないんだろう。  そして何人の客にこの体を自由にさせなければならないのか……  覚悟をしていたこととは言え、突き付けられた現実は陰鬱で残酷だ。  少し前までは、何も知らない相手に選ばれて、その相手の子供を産むことなんてなんとも思わなかったし、そうやって生きて行くんだって信じて疑わなかったのに。  時宝に触れられた体に他のαが触れると言うのが、たまらなく厭わしかった。  時宝に抱かれた離れの部屋と比べると明らかに何もかも質が落ちる小さな部屋に押し込まれて戸惑っていると、薄墨が吐き気止めはいるかと訊ねてくる。

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