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【*】嫉妬
その魔術理論を目にした時、俺は嫉妬した。
所詮は俺の築き上げてきた青魔術の理論など、過去の栄光に過ぎないのだと思い知らされるには十分すぎた。この世界には、緑・黄・橙・赤・青・紫・黒の七つの虹魔術が存在する。俺はその中の、青魔術の権威だと呼ばれてきた。それだけの努力をしてきたと、周囲からの賛辞を俺は肯定的に受け取っている。自尊心もある。
この魔術塔は広大だ。魔術師達は皆、攻略を志して魔術塔へとやって来る。俺もそうだ。最上階が何階層なのかも未知であり、一つ一つの完全解放には、短くても七年から十年はかかる。各階には、何重にも封印が施されており、そのそれぞれが虹魔術で解術可能となっている。全てを攻略すれば、世界に更なる魔術の秘蹟が齎されるという伝承に従い、俺達は上を目指している。
その最前線、七階に俺が到達したのは五年ほど前だった。もう二十年近く誰も封印を解けなかった六階の青魔術の扉を開けたのが、俺だ。寝ても覚めても打ち込み続けて、当時の俺は青魔術以外の事を何一つ考えてはいなかった。身なりもそれは酷いものであり、とても人前に出られるものではなく――だがそれでも困らなかったのは、俺がたった一人で作業をしていたからだ。
封印を解いてから世界が変わった。多くの人びとに賞賛され、取材が来ない日がなかった。俺が身奇麗にするようになったのは、最初の撮影が契機である。ただ少し髪を整えて服に気を使っただけで、数少なかった周囲の態度も一変した。若き美貌の天才魔術師、そんな評価を俺は受けて、有頂天になった。
あれから――五年。八階への扉を開くのも、当然俺だと当初こそ思っていた。しかしそこに広がる赤と紫の魔術は、俺がそれまで打ち込んできた青魔術とは違いすぎた。いいや、これはいいわけだろう。青魔術の知識も最初は白紙だったのだから、新しく学ぶことは可能だ。しかし俺は、紫魔術に用いられている一部の青魔術の解析に専念するという姿勢をこれまで貫いてきた。それで良いと思っていたし、周囲も俺にそれを期待していた。
――アイツが、六階層へとやって来たのは、三年前である。
挨拶に来たアイツは、赤魔術が得意だと笑っていたことを覚えている。
その時は、よくある事だから、俺も適当に作り笑いで声援を送った記憶がある。
赤魔術は人気だ。炎を操る術である。水の波紋を変えるだけの青魔術と違って、視覚的にも美しい。有象無象の一人だとしか考えず、すぐにアイツのことなど俺の記憶からは消えた。
そのアイツが、たった三年で――単独で赤魔術と紫魔術の封印術式を解読し、八階への扉を開いた。先月のことである。俺が助力を求められることはなかった。もっともそれ自体は構わない。目的は、魔術塔の攻略だからだ。一人が解術すれば上階へと皆が進むことができる。だから、俺がアイツの構築した魔術理論を見たのは、純粋なる魔術師としての探究心からだった。だが、興味本位でなかったわけでもない。封印を解くことができたからといって、その理論が必ずしも優れているわけではないのだ。俺が作成したような緻密な理論は、もう生み出される事はないと、その時点まで俺は盲信していた。
そして俺は――嫉妬した。アイツの理論は、お世辞を抜きにして素晴らしかったのだ。
過去の人、という言葉がある。それは過去の優れた偉人を指す言葉ではない。もう鮮度が落ちた古い存在、そう言ったネガティブな意味合いを持つと思う。まさしく今の俺がそうだ。これは卑下しているわけではなく、周囲が俺に対してそう囁いているのを聞いてしまった時に、俺自身も奇妙なほどに納得してしまったからである。俺は、過去の人だ。
一度、取材されているアイツの前を通ったことがある。
俺は挨拶される事を疑っていなかった。しかし俺は、アイツの視界にすら入っていなかったし、それは嘗ては俺に群がっていた連中にとっても同じだったらしい。俺の周囲からは人が消えた。
結局のところ、俺は一人だったのだ。十一歳で父に連れられて、魔術塔に来てから、思い返せば、俺には友達など一人もいなかった。母は最初からいなかった。あれから二十年。父も四年前に没した。亡くなる前に成果を見せる事ができたのが、唯一の親孝行だったのかもしれない。俺は生まれつき膨大な魔力を手にしていたという。だが、魔術塔には実力者など腐るほどいる。アイツだって俺よりも遅咲きだっただけで、現在の魔力量や知識を比較してみれば、俺より優れているのかもしれない。
潮時なのかもしれない。俺は、そろそろ過去の栄光や生まれ持った才能にしがみつくのを止めなければならないだろう。冷静にそう考える反面、純粋に魔術を楽しむのではなく、周囲の目ばかりを気にするようになっていた己を嫌でも自覚させられて、自己嫌悪で吐き気がする。それでも俺から魔術を取ったら、何も残らない。
鏡を一瞥し、俺は目の下のクマを撫でた。草臥れた三十一歳の俺の姿は、ここに訪れた幼き頃とはだいぶ違う。黒い瞳は我ながら濁って見えるし、同色の髪はここのところ傷んでいる。けれどもう、気を遣ってもしかたがない。俺は向上心から外見を磨いたわけではないからだ。実際には、そんなものはどうでも良いのである。浮かれて恋をして誰かに見せたいと思ったことすら一度もない。俺は人のぬくもりなど、父親が繋いでくれた手を除けば知らないのだ。
そんな事を考えていた時、呼び鈴の音がした。俺は緩慢に入口へと視線を向けた。ここは青魔術の研究所の奥の仮眠室だ。ほぼ俺専用となっている。昔と違って、今では誰も来ない。だから何事だろうかと首を傾げる。立ち上がるのが億劫だったから、「どうぞ」と短く声をかけた。来訪者にも、別段興味はわかなかった。
「失礼します」
聞き覚えのない声に、ゆっくりと瞬きをしながら、開く扉を見守る。
そして――入ってきたアイツの姿に小さく目を見開いた。息を飲みかけたが、そこはこらえた。緋色の瞳に優しい麦色の髪をしている。背が高い。魔術師と聞くよりも、剣士だと聞いたほうがしっくりくる。
「ご無沙汰いたしております、シルク様」
「久しぶりだな」
恭しく頭を下げて俺の名前を呼んだのは、俺がずっと考えていた嫉妬相手であるワルト=エヴァンスだった。俺の三つ年下だったように思うが、二十八には見えない。相応に大人びた風貌をしているとは思うが、俺から見ると若い。
「何か用か?」
「この前、俺、取材されてて、そうしたら前を通りかかったのが見えて――ずっと気になってたから、挨拶に来たんです」
「そうか、気付かなかった。失礼をしたな」
俺は作り笑いでそう口にした。ちっぽけな自尊心に嫌気が差す。
何より、コイツもまた気づいていたくせに、あの日俺を無視したのだなと、その余裕に腹が立った。
「――俺もやっと、シルク様と同じ舞台に立てたみたいです」
ワルトが自信を滲ませた瞳で、ニッと笑った。その三日月を描いた唇を見て、俺は背筋に冷水を浴びせられた気分になった。もうとっくに、ずっと前に同じラインにたっていたのは明らかで、既に俺は置いていかれている。だがそれを認めるのは惨めだった。
「嬉しくて」
「――もっと上を見た方が良い。君にはその才能があるんだからな」
精一杯の虚勢で、余裕を取り繕った。だが俺は、それを見透かされることに怯えていた。
扉が閉まる音がする。中へと一歩入ってきたワルトが、俺の正面の椅子を見た。
「座っても?」
「ああ、かけてくれ。悪いな、気が利かなくて。すぐに茶を――」
「あ、俺が出します」
満面の笑みで、そばのポットに手を伸ばしたワルトは、まるで子犬と向日葵を足して二で割ったような鬱陶しい明るさを持っていた。日陰にいる俺には、その笑顔が辛い。胸に突き刺さる。俺とは違い、いつもコイツの周りには人がいる。人望、それは俺にはないものだ。偽りの気遣い以外に、俺に出来る事は存在しないのだ。
「俺、封印を解除したら、本当はまっさきにシルク様に会いに来たかったんだ。だけどその暇がなくて」
「多忙だとよく分かるよ。気にしないでくれ」
暇がないという世間話のその一言すら、俺には嫌味に聞こえた。『よく分かる』と、俺もその多忙を知っているのだと答えた、これすら俺には戦いで、くだらない見栄を含んでいた。おそらくワルトは、何も考えていないだろうに。
「やっと会えた……」
「俺に会っても、それ以上深まる封印に関する青魔術の術式は無いと思うが、そのように言ってもらえると悪い気はしない」
本当は、悪意しか感じない。このように穿った見方しかできない自分に、俺は泣きたい気分になった。
「そうじゃなくて」
するとワルトが、ぐいと身を乗り出した。俺は首を傾げて、それを見ていた。
「ずっと言いたかったんです。一目惚れでした、付き合ってください」
「――何?」
「元々お会いする前から理論には惚れ抜いていたんですけど、そ、それで一目見たくて魔術塔に来てみたんですけど――会ったら、その、優しいお顔と綺麗なお顔と、ああ、だから、内面も外見も、俺を惹きつけて離さないって言いますか……!」
「へ?」
「好きです」
俺は、何を言われているのか分からなかった。
だが立ち上がったワルトは、俺の隣に立つと、俺の両肩に手を置いた。
力強い指が、俺の貧弱な肩を引き寄せる。
「愛してます。俺と付き合って下さい!」
「……待ってくれ。君は、俺のことを何も知らないだろう?」
「知ってます。ずっと見てました!」
「見ていた……? 直接会うのですら、二度目だったと記憶しているが……」
「俺、毎日シルク様の姿を見たくて、この仮眠室の正面にある赤魔術専用研究所の仮眠室の主になったので、ずっと窓からここを観察してました!」
「え?」
「カーテン締めたほうがいいと思うな。無用心です! 俺以外には見せないでください」
「いや、あの――」
「俺、シルク様を見ていたくて赤魔術をここに来てからの専攻にしたんです! そしてシルク様と話した過ぎて、そのためには、封印を解くしかないってみんなに言われたから頑張ったんだ!」
「な、何を言って――」
「愛してます!」
俺は、会話が通じているのに、話がかみ合わないという不可思議な体験をしてしまった。同じ言語を喋っているというのは分かるのだが、ワルトが何を言っているのか理解できない。困惑して見上げていると、不意に抱きしめられた。良い匂いがした。ワルトの髪が俺の首筋に触れる。
「恋人がいないのは、もう調べがついてます。俺を恋人にしてくれ!」
「根本的な事を問うが、俺は男だ」
「知ってます」
「俺のどこがいいんだ……?」
「全部です」
清々しいほどに言い切ったワルトに、俺は動揺した。先程まで内心で、嫉妬からワルトに対する呪詛を吐いていた俺の、何が良いのか。全く俺のことなど知らないじゃないか。そう叫び出したくなった。
「知ってますよ」
その時――ワルトが、一度俺の体を離すと、朗らかに笑った。
「俺、生得的に、読心魔術を持って生まれたので」
「――え?」
「俺の好意とは別ですけど、最近シルク様がずっと俺のことばっかり考えていてくれたのは、バッチリわかってます!」
「な」
俺は凍りついた。全身が冷え切り、震えが走る。慌てて体を離そうとすると、両頬に手をあてがわれ、覗き込まれた。正面に、ワルトの大きな瞳がある。目を見開き、俺はその顔を見上げた。
「そういうところも大好きです。自信家に振舞ってるのに、本当は繊細で」
「ふ、巫山戯るな、何を言――……っ」
ワルトが目を伏せ、唐突に俺に口づけてきた。いきなり過ぎて逃れることができず、俺は抗議しようとうっすらと唇を開けて、そして後悔した。ワルトの舌が中に入り込んでくる。これまで、こういった他者との接触など、一度も経験がない俺は――すぐに翻弄され、飲み込まれた。ねっとりと貪られ、舌を絡め取られる。息が上がってくると、角度を変えられ、息継ぎを促される。体が震え、力が入らなくなっていく。
「ぁッ」
耳の後ろをなぞりながら、唇を離された。そして首筋を噛まれたから、俺は思わず声を上げてしまった。拒絶しようとした手首をギュッと握られる。
「それだけ俺のこと考えてるんだから、良いじゃないですか」
「何を言って――」
「俺のものになれよ」
「ああっ」
服の上から陰茎を撫でられて、俺は大げさに声を出してしまった。
動揺と混乱で頭が真っ白になる。その間に、下衣の中へと手を入れられた。服をはだけられて、鎖骨を舐められた時、俺は椅子から落ちた。すると抱きとめられて、その場にゆっくりと押し倒される。焦燥感から逃れようとした俺の太ももを開き、ワルトが陰茎を口に含んだ。全く予期していなかった展開に、俺は涙を浮かべた。
「や、やめ……」
情けのない声を出してしまう。だが、重点的に先端を刺激されると、すぐに俺の陰茎は反応を見せた。何かが内側から這い上がってきて、それが快楽だと気づく頃には、俺の息は熱くなっていた。
いつから用意していたのか、香油の瓶をワルトが取り出した。指に絡めとり、二本の指をコイツが俺の中に進めたのは、すぐのことだった。俺は抵抗しようという気持ちよりも、困惑と恐怖が強くなり、必死でワルトにしがみついた。バラバラに中で蠢く指の存在感に苦しくなる。
「ひっ」
その時感じる場所を探り出されて、俺はのけぞった。
「ここですか?」
「あ、ああ、あっ、やっ」
「ここだ」
そこばかりをワルトがなぶり始める。全身が汗ばんできて、俺は息の仕方を忘れた。
こんなのは、強姦だ。そう思うのに、何故なのか――不思議と俺は満たされていた。
誰かに、こんな風に求められた事が無かったからだと思う。
「何も考えないでください。全部俺に任せて――いいや、何も考えられなくさせたい。させてやるから。俺だけを見てください」
「あ、ああっ、待て、そんな――ひ!!」
ワルトが腰を進めて、俺の中に入ってきた。押し開かれる感覚に、俺は喘いだ。進められるたびに、ワルトの熱い体温が体に染み込んでくる。溶け合うような交わりなのだが、ひどく卑猥な水音がした。香油がぐちゃりと音を立てるのだ。
「あああっ、あああ」
その内に、動きが早くなり、ガンガンと腰を打ち付けられて、俺は首を振った。感じる場所にワルトの屹立が当たる。その度に、全身に白い快楽が走る。情けなくポロポロと俺は涙をこぼしたが、多分それは気持ちが良すぎたからだ。
「あ、ああっ、ン、あ」
震える俺の体の向きを変え、ワルトが後ろから突き上げる。猫のような姿勢になった俺を、押し倒すように体重をかけて、ワルトが身動きを封じてきた。快楽を知らない俺の体に刻み込むように、一度動きを止め、そしてゆっくりと再び動き始める。どんどん奥を暴かれ、内壁を広げられる感覚。それから前立腺に先端をあてがったままで、ワルトがまた動きを止めた。
「ああ、やぁっ」
ずっと刺激を与えられたままになり、けれどそれ以上の動きがなく、俺は声を上げた。ついに泣き叫ぶのを止められなくなった。ずっと気持ちいいという感覚が続いているのだ。今は前を触られていないというのに、何かがせり上がってくる。果てると、そう思った。
「ねぇ、言って、シルク様。俺と付き合うって」
「や、やぁっ」
「嫌なのか? じゃあ、動かない」
「あ、あ、あ」
俺はきつく目を伏せ、目尻から涙をこぼしながら、舌を出して息をした。
なにを言えばいいのかわからない。どうしてこんなことになっているのだろう。
「シルク様は、自分がどれだけ狙われていたかわかってない。この三年間、俺がどれだけ周囲を蹴散らしてきたか。でもそれももう限界だ。俺のものになってください」
「あ、あ……ま、待って、あ、うあ、あ、や、やぁ、怖っ……何かクる――ひあああああああああああ!!」
俺は絶叫した。中だけで果てていた。ずっとイきっぱなしの感覚が全身を支配し、頭が真っ白になった。ぐったりと全身から力が抜ける。力が入らない。なのにその瞬間も気持ちが良いままだった。だめだ、だめだこれは、気が狂う――そう思った時だった。
「ダメだ頼むやめろ、あああああああ、動かないでくれ、ああああああああああああああああああああああ!!」
容赦なく、ワルトが動きを再開した。何も考えられなくなった。焼ききれる。俺は強すぎる快楽に、最終的には声を失った。そして、意識も。
――次に目を開けた時、俺はワルトに抱きしめられていた。
「……」
夢でないことを自覚し、俺はぼんやりとしていた瞳をいっきに大きくした。
硬直した俺を見て、ワルトが意地悪く笑った。
「ヤっちゃいましたね。初めて、貰っちゃいました」
「な……」
「体から貰うの卑怯だって自覚はあります。でも、我慢できないです。俺、本気ですから」
この日――俺は、コイツに捕まった。
そして、嫉妬などという概念はすぐに失踪して、ワルトの事を恋人としてしか考えられなくなっていく。全く考えていなかった未来が、俺に到来することになった。
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