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第3話
店を出ると美田園が心配そうな顔を見せた。まるで明神組に殺されるみたいだと、雷音はフフッと笑った。
店から10メートル程のところに明らかにらしい車。黒のベンツ。
前と後ろはCLS 63 AMGだが真ん中はCL 65 AMG。明らかにランクが違う。きっとあれに乗っているのだろう。
雷音がゆっくり近づくと、やはりと言うべきか運転席から男が出てきて雷音に頭を下げた。
きっちり後ろに撫で上げられた髪にノンフレームの眼鏡。切れ長の瞳に筋の通った鼻。薄い唇は見た目通り冷たそうで神経質そうだ。
艶やかな黒髪に似合う白皙の美男は上品にスーツを着こなし、品行方正にも見えるその姿は、どこか異質にも感じられた。
「あの…」
「初めまして。私、明神組若頭補佐をしております、神原海里と申します」
見た目に違い、バリトンの利いた低い声が心地いい。
こちらが気を遣わないほど、だが敬う姿勢で挨拶をしてくる姿は礼儀を重んじる極道世界に身を置いているとしても、あまりに出来た男のように思えた。
「ご丁寧にありがとうございます。雷音です。よろしくお願いします」
「明神が我が儘を言ったようで、申し訳ありません。お店は大丈夫ですか?」
「いえ、蓮の方からもよろしくと…」
「そうですか。それはよかった。どうぞ…」
少しの会話で感じたこと。”この男は侮れない”
普通の会話でさえ、一文字一句考えながら話さなければならない相手。仕事柄、そういう相手は初めてではないが少しばかり状況が違う。デンジャラスゾーンだ。
雷音は身を引き締めて、小さく深呼吸した。
ドアを開けられ車に乗り込むと、煙草を銜えた万里がこちらをチラリと見た。
「どうかした?」
不機嫌そうな顔の万里に雷音が首を傾げると、万里が備え付けられた灰皿に煙草を押し付けた。
「おっそい。俺、こへんに待ったことへんし」
「仕方ないでしょう。明神さんが急なんだから」
「万里や万里。苗字で呼ばれるんは好かん」
「…はぁ」
万里の我が儘に雷音は嘆息する。
苗字は好かん。そう言われても、極道世界で名のある男を名指しで呼ぶには気が引けて、極力、名前で呼ばなくて良いようにしようと雷音は一人思った。
ドアの開く音がして見れば、助手席に神原が乗り込み運転席には強面の男が乗り込んで来た。
葬式か!と言いたいような黒のスーツに黒のネクタイ。そのスーツの上からでも分かる鍛え上げられた身体。
さすが武闘派明神組と感心をしていると、猛禽類を彷彿させる鋭い眼光がバックミラー越しに雷音を捕らえた。
「小山内です。よろしくお願いします」
「あ、はい…雷音です。よろしくお願いします」
武闘派だからか、ただ明神組がそうなのか厭に体育会系だ。何だか調子が狂うなぁと雷音は頭を掻いた。
「あの…どこへ?」
「ホテル」
「……は?」
「飲み直しや。店は騒がしゅうてゆっくり出来ん。あ?明神の屋敷に行きたいんか?」
「ホテルへ…」
屋敷など冗談ではない。敷居を跨げば、それこそ二度と帰ってこれなくなるに決まっている。
やはり今日は厄日だと、雷音は思った。
ホテルと言っても、この近辺で一番のシティホテルのスィートルームだった。
窓一面に町が見下ろせ、まるできらきら光る宝石箱。誰も独占する事の出来ない万人の宝石たち。それを一望出来るそこに、女性が泊まりたがるのも納得できた。
部屋のあちこちに飾られる装飾品も、アンティークな家具も全てが高価な物だろう。
ペルシャ絨毯を土足で踏みつけるのは気が引けたが、本物の金持ちの神経を疑う様な散財ぶりは見慣れている。今更、ペルシャ絨毯如きで躊躇するのなんてどうかしていると思った。
「広い部屋ですね」
「ああ?そない?」
万里は、そうかなと言いながらスーツのジャケットを脱ぐとソファに投げた。
部屋にはやはり雷音と万里だけ。神原は雷音達を降ろすと、どこかへ行ってしまった。
不用心だなと思ったが、すぐにそれなりの人相の男達が現われ、連れられる様にこの部屋に。だが男達は部屋に入る事なくドアを締めてしまった。
「さっきの人達、外に居るんですか?」
「おらへんよ」
「え?」
「これみよがしに、ここに要人がおるって言わんばかりの警護とか、ど素人やん」
「あ、そう…まぁ、そうか」
「せやから、そないに緊張せんと。リラーックス」
万里はそう言って笑うと、クルッと回った。
部屋にはすでにルームサービスの食事と酒が用意されていた。
さすが最高峰のスィートルームのルームサービス。適度に摘めるフルーツも盛り合わせや、多種多様のチーズとクラッカーは豪華な皿に盛りつけられている。
その隣に置かれたワインクーラーはバカラのそれに似ているが、恐らく本物だろう。
「すごいね、これぞ権力の証?」
雷音は言いながら、ワインクーラーに入れられたワインを取り出した。
「シャトー・ラフィット・ロートシルト2004。うちの店なら、良い値段になりますよ」
「そない?俺、酒やったら何でもええもんなぁ。それこそ、発泡酒でもかまへん。味音痴やねん」
万里は笑って煙草を銜える。酔っぱらっているようには見えないが、かなりご機嫌なのは分かる。
それとも元々こういうノリの人間なのか、軽い様に思える万里にどう接していいのか分からず、雷音は葡萄を一粒摘んだ。
「そや、あんた店で食うてなかったやろ。食いや」
そう言う万里もまた、フルーツやクラッカーなどには目もくれずにワインに手を伸ばした。
酒豪かどうかは知らないが、かなりの酒好きだというのは何となく分かった。店でもかなりの量の酒を嗜んでいた。
雷音だってホストだ。毎晩の酒の量は普通の人間の倍以上だろう。
雷音はかなり酒が強い方だが、同業者が酒で身体を壊して退いて行くのを何人も見て来た。
果たして極道という世界の人間はどうなのだろうか?雷音は万里からワインをそっと取り上げると、ワインクーラーへ戻した。
「いつも、かなり飲むんですか?」
「はー、どないやろう?神原がうるそうて、毎日は無理やなぁ」
取り上げられたことに不満も言わず、万里はソファに腰を下ろした。
「でしょうね、身体壊しますよ。それより…物好きですよね、スィートルームに男となんて」
しかもホストとなんてという厭味は飲み込んで、雷音も万里の向かいのソファに腰を下ろした。
さすがスィートルームのソファと言いたいところだが、このランク程度のソファならば毎日腰掛けている。
店のソファと大して変わらないそれに、雷音は肩を落とした。
「俺、本家におるんよねぇ。こうゆープライベートルームみたいなんは、ここしかあらへんさかい老若男女問わず、何やあればここなんよ」
「若頭でしょ?マンションくらい買えるでしょ」
「買えん事もあらへんやけど、生活能力あらへんさかいなぁ。許可が出ぇへん」
そう言いながらケラケラと可笑しげに笑うが、何だか納得いくから恐ろしいところだ。
「確かに、あなたには生活能力がなさそうだ」
「何気に失礼やな。あ?せや、お姉ちゃん呼ぶ?」
「結構…。そういう女性を呼ぶのなら、初めから女性と来ればいいのに」
「あかん、あかん。おなごはうっさい。こないなとこ連れてきたら、大騒ぎや。綺麗やなんや、ああゆー騒がしいんはかなん」
「そうですか…」
やはり食事が喉を通らずに、雷音は用意されていたミネラルウォーターを一気に飲み干した。冷たいそれは喉をすーっと通ったが、雷音の喉が潤うこともなく居心地の悪さだけが残った。
万里は気さくな男だ。威丈高にものを言う事もしないし、考えを押し付けたりもしない。少し変わってはいるが、別に嫌いではない。
だが、どうしても極道という肩書きが雷音を躊躇わせる。
「あんさん、変な奴やなぁ。そない緊張しなや。取って食いやせんし」
万里は笑って、立ち上がり窓から町を見下ろした。
淡い照明に照らされた横顔がひどく綺麗で、涙のような傷がそれをまた際立たせる。
ゾクリとした感覚が身体を襲い、雷音は違和感に首を捻った。
「なぁ…風呂入ろう」
「は…?」
突然言われた言葉の意味が理解出来ず、雷音は目を丸くした。
「え?何て?」
「風呂。ここ、めちゃ風呂広いねん。俺、ばんばん呑んでるさかい、風呂で死ぬかも…ええのん?」
フフッと笑う万里を雷音は睨みつけた。
「自分の立場をよく理解されている言葉ですね。分かりました、入ればいいんでしょ」
前言撤回。やはり嫌いだ。
風呂で死ぬだなんて、どんだけの脅しだと雷音は半ば自棄くそになって立ち上がった。
広いバスルームの大理石の湯船には、乳白色のお湯がはられている。その横の金の蛇口から注がれるお湯は、その辺の家庭となんら変わりのないお湯のはずなのに、どこか輝きさえ感じてしまうから不思議だ。
そして、その部屋を囲む様に埋められた窓はどこから見ても夜景を一望出来る立地だが、素っ裸でこんな夜景を堪能するなんてジョークのそれとしか思えない。いくら外から見えないマジックミラーだとしてもだ。
「俺、風呂好きなんよねぇ」
大理石の湯船にゆったり浸かった万里は、極楽と鼻歌まじりに言った。
髪を濡らした万里は前髪をオールバックのスタイルにしていて、先ほどとは全く違った顔を見せた。
言うなれば、かなり若く見えた。実年齢も若い方だろうが、それ以上に若く見え、高校生だと言われても納得出来そうなほどだ。
世間一般、いや、雷音の常識からは、極道は身体中に龍や虎や鯉または般若などが色とりどり描かれてた刺青が入れてあり、さもスゴいだろうと自慢げに見せて来るのかと思いきや、万里の陶器の様に白い肌にはそういう類いのものはなかった。
ただ首の後ろにどこかの国の言葉と十字架の大きめのタトゥーが彫り込まれていて、それが肌が白いせいかよく目立つ。
しかし男二人が何が悲しくてこうして湯船に浸かって、顔を突き合わさなければいけないのか。しかも対面で。
全身を浸かってもまだ余裕がある湯船に足を延ばし、極道の若頭とまったりしてるのが雷音には不思議な違和感だ。というよりは、背筋が寒くなるほどの居心地の悪さだ。
「気持ちええなぁ…」
「寝ないでくださいね」
寝て沈んだところで、易々と抱え上げれるほどに軽そうな身体だが、その姿を想像するだけで悶絶する。どんなコメディだ。
今日は間違いなく厄日。大厄だと気落ちして行く雷音を万里はクスクス笑った。
「そないに嫌わんといてぇな。せやけど、あんさん、鍛えとるん?ええ身体しとなぁ」
「一応、スーツが似合う程度に」
「そやの?背も高いし、けなるいわ」
「は?けな…」
「羨ましいっていう意味や。京都の方言やあらへんよ、関東でも使こうてる地域ぎょうさんあるで」
「へぇ、そうなんだ。けなるい。あの…聞いていいですか?」
「あ?質問タイム?ええよ、何でもどうぞ」
ジッと万里を見ると、万里はにっこり笑って首を傾げた。
「いや、不躾な質問なんで気を悪くしたら申し訳ないんですけど、言いたくなければ言わないでください。その目って…本物ですよね?」
恐らく、いや絶対に、BAISERのナンバー1ホストの時の雷音ならば絶対に聞かない事。
ホストが客に聞いてはいけないタブー。年齢、仕事、そして極めつけが容姿。これはある意味基本中の基本だが、今、雷音が万里に聞いているのはその基本の容姿だ。
だが、そんなことはもうどうでもいい。
何だかよく分からない脅しで風呂に一緒に入った時点で、立場は対等だと雷音にしては珍しく投げやりになったのだ。
「あー、左目?気色悪いやろ?いっぺん、派手な抗争に巻き込まれてなぁ。そん時に潰されかかったんよねぇ」
「へぇ…でも、綺麗ですよね」
「…は?」
天井を仰ぎ見てた万里が、バッと雷音を見た。口を衝いて出た言葉に雷音自身も少し驚いたが、だが本心だった。
「あんさん、目ぇ悪いん?」
「いえ、視力はかなり良いです。両目とも1.5なんで」
「綺麗なんて言われたん、初めてやわ。気味悪いとか、気色悪いとかなら腐るほどあるけどなぁ」
万里はフフッと笑った。
どす黒さは一切ない。オニキスの様な瞳と対照的な真紅の瞳。まるでルビーでも嵌め込んでいるのかと言うほどに、宝石の様な目は雷音に不気味さなんて感じさせなかった。
「綺麗ですよ。その頬の傷も赤く色づいてて、目とリンクしてる。本当に赤い目から涙が出てるみたいだ」
「…ふふ。さすがホスト」
そう言ってゆっくりと万里が近づいてきて、雷音の胸板に手を添えた。お湯に浸かっているせいか、万里の手は熱かった。
猫の様に目を丸くして、少し悪戯っぽい表情で雷音の顔を覗き込む。
「道で逢うた時は、めっちゃ男前やと思うたけど、造形は作りもんみたいやなぁ。まさか整形?」
「残念ながら自前です」
「おるとこにはおるもんやねぇ」
会話をしながら万里の指は、雷音の顔の輪郭や唇を滑る様に撫でる。雷音はそれを甘んじて受けた。
「京弁は好かん?」
「嫌いじゃないですよ。馴染みがないんで、新鮮かも」
「でも、極道は好かん」
「そうですね」
「ほな、今は明神忘れてんか?」
万里はそう言って赤い舌を出して唇を舐めて見せた。思わずゾクッときた。
万里は不思議な男で、その表情や仕草が淫靡に見える。
「ったく、魔性かよ」
雷音は舌打ちとともに悪態づいたが、暑さで上気して赤くなった頬の万里と目が合ったとき、どちらからともなく唇を重ねた。
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