27 / 45
第27話
怒鳴り声が遠くで聞こえていた。反響する音がどんどんと近付いている。
雑音の混じる声は聞き取れず、五月蝿さに顔を歪めると次の瞬間、強い勢いで水が掛けられた。そこでハッとして目を開けた。
「いやいや、起きはったわ」
薄暗いそこの、ある一カ所だけが煌煌と光っていて、定まらぬ視線が男を捕らえた。
「稲峰…」
「おはようございますでええかいな。明神組若頭、明神万里さん。まさか、あんたを捕まえられるなんて思うてもみんかったわ。これは飛んで火にいる…ちゅうあれですなぁ」
「虫ちゃうわ…」
万里は力無さげに笑うと、転がり地面に額を付けた。情けない、こんな連中に捕まるとは。
ぐっと身体に力を入れてみるが、壁にぶつけられたダメージが身体に残っている。
稲嶺の方へ視線を向け、右目を瞑ると左目の視力がぐんと落ちていた。これは相当ヤバイなと息を吐く。
万里の腕は後ろ手に手錠で拘束されていて、それを外す事はさすがに出来なかった。
顔だけを上げて辺りを見渡すと、柴葉が転がっていた。まだ息はあるが、相当、弱っているようだ。
「何これ…あんた、部下やん」
万里はゆっくりと起き上がると、胡座をかいて座った。数人のチンピラと稲峰の横にはボディガードの男と比留間が居る。頭数だけは一人前かと、腹のなかで笑う。
しかし黴臭いところだなと見渡してみると、そこはどこかの地下のようだった。あちこちに引かれた白線や番号を見ると、どうやら地下駐車場のようだ。
「柴葉はなぁ、いつまでもいつまでもワシに反抗するんですわ。それどころか、ワシの首を狙うとる」
稲峰はパイプ椅子にその重たそうな肥満体を乗せ、ヒヒッと笑った。その厭らしい笑い方に万里は眉を顰めた。
「稲峰…あんた、香港マフィア使うて女に客取らせとんな。しかも、女は未成年に不法入国者、みーんな言葉ん分からん可哀想なお姉ちゃん達や。どれだけあの子らん上前跳ねとるんやろな。あないなゲスい事やるんは、やっぱりあんたみたいな肥えた豚や」
「さすが明神組。調べたんでっか?やけど心外やなぁ。ワシはあちらに場所提供しとるだけや。国がそうであるように、極道も国際交流や」
鼻息荒く言う稲峰に、万里は小さく笑って呟いた。稲峰は何やと首を傾げた。
「仁流会会長補佐、鬼塚組組長…お前のこと目ぇ付けとんで」
鬼塚組の名前に稲峰の顔色が青くなる。どうせ心のことなんて見た事もないくせに、その名前だけでああも顔色を変えれるとは。
稲嶺の孫の年と変わらないような男に畏怖していることに、万里は可笑しくて笑った。
「な、何で…ッ!」
「あんた、鬼頭組とも傘下組がモメて、目ぇ付けられてるやろ。あほやなぁ。しかも、調子乗って関東にも手ぇ出そうとしとるやろ。目ぇ付けられて当然やし」
万里がくつくつ笑うと稲峰は比留間を見た。比留間は頷いて万里に近づくと、鳩尾を蹴り上げた。
衝撃で吹っ飛んだ万里は、転がる柴葉にぶつかった。ところが蹴った本人の比留間は首を傾げた。
「あ、っ…っは、げほっ」
げほげほと咳き込みながら、柴葉の背中に耳を当てる。辛うじて生きてはいるが、あまり状態は芳しくないようだ。
「はー、いったぁ」
万里は上体を起こし、口の中に溜まった血を吐き出した。
さて、どうしようかなと首を回しながら考えるが、さすがに柴葉を担いで逃げるとかスーパーマンじゃあるまいし。
「俺、どないなるんやろうか」
「明神組の若頭を殺ったら、ワシの株も上がると思わんか?」
「あー、なるほど」
底辺の極道の考えるレベル低いゴールやと、万里は呆れた。
「組長さんと話つけてもええんやけどな」
「オヤジと?ああ、そういうことかいな。仁流会に入れるように口きけいうことか」
「さすが、話が早い」
アホやろと万里は息を吐いた。
「あんた、仁流会が香港マフィアとヤク戦争目前やて知ってんのんに、そへんなこと言えるん?あん人ら、自由にもほどがあんねん。仁流会は、そへんなフリーダムな奴らと繋がってるような豚は願い下げや」
「いやいや、時代でっせ若頭さん。いつまでも極道が日本で生きていけると思うたらあかん。暴対法がある時点で、ワシらは身動き取れるんも限界がある。そこは分かり合えると思いませんか?」
「同盟でも結べ言うんか。あんたは仁流会に入って、今度は極道ん中に他所もんせっせと入れ込む窓口にでもなるんか?ほして我がそん架け橋してる言うて、デカい面しはる気か。おのれ、アホやの」
万里が稲峰に向かって唾を吐くと、その横っ面を比留間に蹴られた。ところが、やはり比留間は首を傾げた。
「なんや、どないした比留間」
比留間は首を振るだけだった。やはり、あの喉の傷のせいで口は利けないらしい。
万里は好都合だと笑った。恐らく比留間は万里への攻撃の手応えのなさに首を傾げているのだろう。
どれだけ殴っても、何かクッションのような柔軟性のある物でも蹴っているような感覚が、気持ちが悪いようだ。万里が知らず知らずに身に付けた、相手の攻撃を吸収するという受け身。
恐らく、万里以外には簡単には出来ない技だろう。
「…なぁ、稲峰はん?あんた、自分がほんまに香港マフィアと対等に渡り歩けるだけの力量があるとでも思うてんの?」
「なんやて?」
「どこん賊と徒党組んどるんか知らんけど、それはほんまにあんたと対等なんか?」
「当たり前やないか!」
稲峰は鼻息を荒くして胸を張った。
「ワシを誰や思うとんねや!稲峰組組長やぞ!お前みたいな青二才の若造と一緒にしたらあかん!命張り合った極道の世界で、地面舐める思いでここまで伸し上がったんや!!それを、あんたのとこの何や、神原いうたか、あのいけ好かん男は!懲役も喰らったことあらへんガキが!」
忌々しいと吐き捨てるように言う稲峰のそれに、神原に手厳しくやられたんだなと万里は眉を上げた。
「はー、思い出すだけでも、けったくそ悪い。明神さん、ワシのことより我の心配したらどないでっか?とりあえず、手始めにその目、抉ってあげますわ」
「はぁ?」
「あんたがワシの手中にあるんを、オヤジさんに分ってもらわんとなぁ。木崎組長にその気色悪い赤い目ん玉送ったらどうなるか、楽しみやろ?」
「あんた…俺が明神万葉の息子やて、覚悟持って言うてるんやろうな!?」
万里は燃えるような赤い目で稲峰を睨みつけた。めらめらと灼熱の赤い炎を思わすほどに赤い目に、稲峰だけでなく周りにいた誰もが息を呑んだ。
「とにかくや!あんたを生かすも殺すも、ワシの気分次第やいうとや!」
稲峰はそういうと立上り、ボディーガードや舎弟やらをゾロゾロと引き連れて駐車場を出て行った。
ガラガラとシャッターの閉まる音がする。それに万里は嘆息して、首を回した。
「豚が…」
万里は呟くと、転がる柴葉の顔を覗き込んだ。肩口に顔を乗せて、にっこり笑うと虚ろな目が万里を捕えた。
「死んだらあかんえ」
「…はっ」
柴葉は力なく笑い、身体を仰向けにした。天井の薄暗い蛍光灯を見ながら、ゆっくりと呼吸をした。
「オヤジの、仇を取ろうと思うとった」
柴葉がポツリと言葉を溢した。
「オヤジ?先代のことか」
「あいつに、裏切られて…。淀川に浮いたオヤジの姿は今でも忘れん。あんなドブ川に捨てられて…。俺は異端児や。何をしても裏目に出ることばっかりで、親にも見捨てられてツレもおらん。唯一残ったツレが蓮やったのに、それも裏切った」
柴葉は涙の滴を零した。万里はその厚い胸板に頭を載せると、悔しかったなと呟いた。
「安曇を狙ったんは金んためか」
「香港マフィアを飼い慣らすには金が要る。稲峰はそのためにあこい商売して金肥やしたけど、そんなんじゃ追いつかへん。ほんなら、金一気に生み出す安曇を使えば容易く金は作れるって思った。アホな考えやけどな」
「そんなん、稲峰がおいしいだけやん」
「俺は先代に忠誠誓って生きっとった。それを知ってる稲峰は、俺をなかなか信用せんかった。ほんなら組でかくするために動いてるちゅうんをアピれば、あいつも少しは俺を信用する思うたんや。ほんで、いざってときに安曇逃がして、稲峰と香港マフィアとの関係潰せばええ…。浅はかやったんは分かっとる。五十棲も俺に何度も忠告してきたけど…結局、あいつも俺が殺したようなもんや」
柴葉は力なく笑い、稲峰は、俺のことなんか端から信用したあらへんかったと呟いた。
「オヤジん仇を何が何でもとるってゆーんは、子ん宿命や。そのために汚いことしたとしても、そら咎められへん」
万里は柴葉の隣にごろんと寝転がって、柴葉を見た。
折角の男前が台無しなくらいにボロボロだ。親の仇ために一人でここまで突っ走ってきて、今、それが叶わぬことに気が付き生きる気力まで失いかけている。
まるで牙をなくした狼のように、その灯火が消えるのを待っているかのように万里には見えた。
「諦めたらあかんよ。あんたん仇は、俺が死んでも取らしたる」
そう力強く言うと、万里は笑った。
「雷音さんが消えた?」
神原は再度、呼び出されたBAISERで蓮に言われ、首を傾げた。
どうにもならない稲峰がトチ狂ったか。片っ端から、明神の関係者を拉致して何か行動するつもりなのか。
浅はかな行動をする人間のすることは、神原には理解出来ない。それに、さすがに身の危険を感じているのか、稲峰自身もその身を隠していた。雲隠れだ。
何をしようとしているのか、そもそも万里も稲峰の手中にあるのかさえ確実なことが分からなかった。明神組の幹部が血眼になって街を走り回っている今、稲峰組の連中が隠れるのも当然と言えば当然だが、まさか雷音まで消えるとは。
「家に帰った気配もない。あいつは車で行動することがないから、どこで消えたんか自分から消えたんかは分らん」
蓮は煙草を咥えると、大きく舌打ちした。ここ最近のトラブルのおかげで蓮は店を臨時休業にし、入っていた予約も全てキャンセルした。大損害だ。
警察も例の爆破事件で店の周りをウロウロしていて、顔を知られたくない上客の足はすっと波が引くように一気に引いてしまった。
「雷音さんの失踪は稲峰が関係しているのかは分りませんが、ないとはいえないのでこちらとしても協力しましょう。それで、今日は…」
神原は蓮の隣で水割りを嗜む衣笠を見た。蓮が衣笠に呼びかけると、ああっと眼鏡を上げた。
「稲峰と手ぇ組んでるんは、龍閃 グループ組織の龍魏 社っていう連中やね。なかなか凶悪な連中で、あっちでも活発に活動しとるみたいで日本に地盤が欲しいみたいやね」
「こっちで親交があるのは、稲峰だけなのですか?」
「いや。龍閃グループの長、まぁ所謂、組長?なのが楊っていう奴らしいんやけど、それと懇意にしとるんは一新一家の組長みたいやね」
また一新一家かと神原は舌打ちをした。
仁流会の番犬である明神組が、自らの若頭のために香港マフィアに貸しを作るにはリスクがすぎる。かといって、このまま万里を見捨てる訳にはいかない。
「どないすんねん。八方塞がりちゃうんか」
蓮が両手を広げて首を振った。それを神原が睥睨し、嘆息する。
「確かに、私一人ではどうにもならないところまで来てますね」
「明神万葉の登場やね」
衣笠はニヤリと笑った。
「明神万葉って誰や」
「蓮は知らないでしょ。明神組を仁流会の番犬にした立役者。明神組が狂犬と呼ばれる所以は、この万葉が生きてきた歴史があるからとまで言われるほどの強者や。狂犬であり、明神組の会長であり、明神万里の父親やね」
ね、と神原にグラスを向けたが、神原はそれを鼻で笑った。
「よくご存知で。さすがグリモワールの持ち主だけある」
「持ち主やないよ。裏社会のジャーナリストなら、誰でも知っとる事や」
「引退しとるのに、動くんか?」
「動きますよ。愚息のためなら何があっても。例え、手足が千切れていてもね」
神原は小さく息を吐いて手を広げた。
限界だなと思った。薄暗い地下駐車場に時間も何も分からない状態で転がされ、時折、顔を出す稲峰の手下の連中に暇つぶしとばかりに暴行された。
柴葉の限界だった身体は、もうあと数日、いや数時間で終わりを告げるかもしれない。
万里は薄汚い天井を見ながら、極道に死は付き物というこれが一番苦手だと思った。
「柴葉、生きとる?」
聞くが柴葉の返事はない。ただ呼吸で身体が動いているので、多分、生きているのだろうという感じ。
これを生きていると言っていいのかは分からないが。
右目を瞑ってみる。視界がだいぶ狭く、ぼやける。相当、弱っているようだ。
この気持ちの悪い赤い目は、万里のバロメーター代わりとして役に立っている。万里が弱れば、一気に視界は見えなくなるのだ。
便利なのか何なのか分からないが、そのうち本当に見えなくなるのは困るなとは考える。親を悲しませるのは不本意だ。
「綺麗…」
呟いて笑った。この赤い目を綺麗だと言った人間は、後にも先にも雷音だけだ。
関係を解消しても、目が見たいと言われた。実際、自分でもゾッとするこの目を、ただ綺麗だと。
「アホな男やし」
くつくつと笑っていると、地面が唸りを上げて揺れた。万里は思わず飛び上がり、脆そうな天井を見上げた。
こんな場所で地震で死ぬとか、そんな最期はないだろうと柴葉に近づいてみると柴葉がゆっくりと目を開けた。
「地震や…あらへんな」
「え?そうなん?」
地震に似た揺れは断続的に続いていて、万里は地震やろと柴葉の背中に覆いかぶさった。そうしたところで、天井が落ちてくれば二人揃って押し潰されて終わりだ。
すると、今までの振動とは比べ物にならない大きな爆音と地響きがして、すぐさま熱風が万里たちを襲った。
ぱらぱらと天井のコンクリートが剥がれ、小さな粒が雨のように降ってくる。爆音のせいで耳鳴りがして、万里は蛾眉を顰めた。
「なに…」
「明神さん!!」
思ってもない声に万里は顔を上げた。砂埃の中、複数の人影が見え、万里は柴葉を庇う様にしてそこを睨んだ。
まさか、そんなわけはない。
「明神さん!!」
「ら、雷音!!」
自分でも情けない声だった。動けない柴葉を庇いながら、ようやく絞りだした声に影が向かってくる。
砂埃を避けて現れたのは、紛うことなき雷音だったのだ。いつものように高級スーツに身を包んでではなく、ジーンズにパーカー。
こんな危険な場所に、知らずに迷い込んだ学生のような出で立ちに万里は思わず笑った。だが、次の瞬間にはグラッと身体が揺れ柴葉の上に倒れこんだ。
遠くで雷音の声がしたが、万里はそのまま意識を失ってしまった。
ともだちにシェアしよう!