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第1話
生ビールを一気飲みして、雪はグラスを叩きつけるようにテーブルに置いた。
「すいませーん、生一つ」
「おい、さすがに飲み過ぎだぞ」
顔は真っ赤だし、さっきから同じような話を繰り返している。そしてその度に泣くもんだから目は腫れあがってしまっている。
「飲まずにいられるかよぉー! 浮気された上に振られたんだぞおッ!」
「わ、分かったから落ち着け……!」
半個室だが、声はだだ漏れだから、衝立の向こうの女子大生四人組に笑われているのが分かる。流石に恥ずかしい。
「何でだよぉ……俺めっちゃ尽くしてたじゃんかぁ……」
雪は枝豆をちまちまと食べながらまた涙をぽろぽろと溢した。
一時間前に雪から涙声で「話を聞いてくれ」と電話が掛かってきた時から、こうなることは覚悟していた。雪が振られる度に、俺は今まで何度も何度も付き合わされてきたから。
「つまんない、って何だよそれぇ……」
ぐすぐすと鼻水をすする雪にティッシュを差し出して、溜息を吐く。
「毎回言ってるけど、雪は尽くし過ぎるんだよ。相手にとって都合の良い男になってさ、結局毎回違う奴に目移りされて終わるだろ?」
「だってさぁ! 俺花みたいに顔良くないし、好かれる自信ねえもんっ!」
ティッシュで鼻をかみながら、訴えられてもなあと苦笑する。
「雪は明るいし優しいし、顔だって別に悪くないと思うぜ? 良いところたくさんあるんだから、雪の良さを分かってくれる人はいるって」
俺はコークハイを一口飲む。と、それを何か言いたげに雪がじっと見詰めるので、どきりとする。
「……花、なんで彼女作んねーの?」
「なんでって……相手がいないからな」
「うそだ。花めっちゃモテるじゃん。選り取り見取りじゃん」
嫌なのが大体雪の気分が上向くとこの問答が始まることだ。中学の頃から恒例の話題なので、いい加減飽きてきて溜息が漏れる。
「じゃあ逆に聞くけど、好きでもない人から告白されて、雪は付き合うのか?」
「出たよモテ男! 俺にはそんな経験ねえからわかりませーんっ!」
お代わりの生ビールが来ると、雪はぐいと半分くらい飲んで、口の周りについた泡を手の甲で拭った。
「ま、少なくとも俺なら、友達から始めるけどな。もしかしたら、好きになるかもしれないし」
──その可能性がゼロでも?
喉元まで迫り上がってきていた問いを飲み込んで、代わりに過去の過ちを思い出し、苦笑いを浮かべる。
「高校の時、好きになれるかもって一個上の先輩と付き合ったけど、ダメだったじゃん。傷付けちゃったし、気もないのに不誠実なことをしたって後悔したんだ」
後悔はした。ベッドに横たわる彼女を傷付けたこと、そして裸の女性を前にしても欲情しないという事実を知ることになったこと。
付き合ったのは、俺が本当にゲイかどうかを知るためだった。自分の感情が友人のそれではないのだと決定付けたその出来事は、俺を絶望させるのに充分だった。
「初めての彼女だったからだろ? そりゃ俺も初めての時は緊張してなかなか勃たないわ、相手も初めてで痛いって泣かれて中折れするわ、散々だったぜ?」
「はは、目に浮かぶわ。でもお前、それ以前に下手そうだもんな」
「なっ……んだとッ!」
雪が立ち上がり腕を振り上げた瞬間、目の前の飲みかけのビールが入ったグラスが倒れテーブルの上にぶちまけてしまった。慌てて手拭きタオルで拭く。
「お前もうダメ、酔い過ぎ。お開きだな」
「えー! まだ色々聞いて欲しいんですけどぉ!」
伝票を手に取り、雪から半分の二千円を出させてそのまま会計に向かった。その間に雪はトイレに行くのが定番の流れ。
店の外に出ると、冷たい風が強く吹いて身を縮こませる。
「ひゃー寒いッ」
店から覚束ない足取りで出てきた雪は、俺の右側にぴったりとくっついた。
「……近い」
「寒いんだもん」
と、雪と肩をくっつけたまま歩き出す。駅とは反対の方向に。呼ばれた時から分かっていたから、特に何も言わない。
雪の手が俺の手の甲に触れて、反射的に手を引いた。が、雪に何故か手を掴まれて足を止める。
「うわっ、お前手冷た過ぎだろ!」
「……そういうお前は昔から子供みたいに体温高いよな」
掴まれた手から伝わる雪の体温に、静かに高鳴る心臓。離そうとした瞬間、雪はぐいと自分の着ているパーカーのポケットに俺の手を突っ込んだ。
「何、してんだよ」
俺の抗議の声を無視して、そのまま歩き出す。
「アホか、誰かに見られたらどうすんだ……!」
「平気平気! 全然人居ねえし」
確かに駅から離れたこの辺りだと終電を過ぎた時間ということもあり、人通りがなかった。
「小さい頃こうやって歩いてたよなぁ」
雪に言われて昔を思い出す。
風の強い、寒い日だった。父の転勤で、秋に引っ越してきた俺は、新しい幼稚園に入ってもなかなか馴染めずにいた。
そんな俺を雪は手を引いて輪の中に導いてくれた。その時握った手の温かさは、十六年経った今も変わらずにここにある。
「動くホッカイロとして有用だったからな」
「ひっでえ! 昔は『雪の手あったかくて好き』とか可愛いこと言ってたじゃん」
いつから、その手を握るのをやめたのか分からない。少なくとも、戯れついて抱きついてきた雪にドキドキするようになってからは、この手を自分から握ることはなくなった。
木枯しが吹いて、雪は半歩俺に近づいてまた肩をくっつけて歩き始める。
「あーあ、今年も花と二人でクリスマス過ごす羽目になるのか」
澄んだ空に浮かぶ星を見上げて、溜息を溢した。都会の空にも届くほどに明るい星が、この宇宙にはあるのだ。
「その頃俺がフリーだって保証ないけどな」
「は? お前さっき相手いないって言ってたじゃねえか!」
「実は先週のサークルの集まりに来た子にモーション掛けられてる」
軽快に歩いていた雪は口を半開きにしたまま固まった。俺は笑いながら雪の手を離して歩き出す。と、後ろから覆い被さる勢いで雪が肩を組んできてよろめいた。
「まじかよッ! あの可愛い子だろ? いいじゃん! 付き合っちゃえよ!」
首に回された腕、直ぐ近くにある雪の顔。どくんどくんと脈打つ心臓。顔が赤くなっていても酒のせいにできるけれど、心臓の音が聞こえたら誤魔化せないなと思う。
「そっかそっかー、ついに花に何年振りかの彼女ができるのかあ。明日はお赤飯だなあ」
「なんだお赤飯って」
鈍く痛む胸。笑顔が引き攣る。
俺の一人暮らししているマンションに着く。雪は「相変わらず綺麗にしてんなー」と玄関で靴を脱いでワンルームの狭い部屋に上がって、迷わずに俺のベッドに飛び込んだ。
「馬鹿、服着替えろよ」
雪用に置いてあるスウェット上下を三段ボックスから取り出して放る。横になってしまったら雪はすぐに寝てしまうから。
「風呂入ってくるから、ちゃんと着替えておけよ」
「うぃー」
雪がパーカーを脱ぐのを見て逃げるように風呂場に向かう。服を脱ぎ頭からシャワーを浴びて、深く溜息を吐いた。
風呂から出ると、雪は壁の方を向いて掛け布団を抱き枕のように抱えるような格好で寝息を立てていた。昔から寝付きの良さだけは誰よりも秀でていた。
部屋の中央にあるテーブルを端に寄せて、クローゼットから布団を引っ張り出す。本当は雪用の布団だが、雪がこの布団で寝たことはなく、いつも雪がベッドで俺が下だ。
安らかな寝息が部屋を満たす。ついさっきまで失恋して泣き腫らしていた男はどこに行ったのだろう。
俺は布団の上に座って、その背を見つめた。
「お前、俺が告白したら付き合ってくれるのかよ」
触れた手の、腕の、肩の、温もりが俺の胸を締め付ける。
「……雪、好きだよ」
ただ雪の規則正しい寝息が聞こえるだけ。涙が滲んで、視界が歪む。こんな想いをするなら、あの時雪の手を払えば良かった。
そう思う。何度もそう、思った。思ったけれど。
こんな木枯らしの吹く日には、いつも思い浮かべてしまうんだ。俺の手を引いて笑う、雪の顔を。忘れたい、けれど忘れられない、あの日のことを。
「おやすみ」
風の強い日に出逢った君に、何度だって逢いたい。そして君が繋いだ手を何度だって握り返したいと、思う。いつも冷たいこの手を温めてくれるのは、君の優しい笑顔だけだから。
「なあ、花」
呼びかけられて、目が覚めた。窓の外に目をやると、空が白んでいるくらいの頃だった。
身体を起こすと、俺が起こすまで絶対に寝ているはずの雪が、起きている──だけでなく、目の下にうっすらと隈ができていた。
「夜中、寝る時にさ……言ったの、ほんとか?」
「……え……?」
頭が真っ白になって固まる。雪はベッドから降りると、俺と向かい合うように正座して、俺の両肩を掴んだ。
「それで、俺が良いよって言ったら、花は何て答えるんだよっ!」
耳まで真っ赤になっている雪を呆然と見つめる。
「……よろこんで……?」
混乱したまま飛び出した言葉は、意図せず雪の爆笑を誘ったけれど。どうやら俺の永遠に続くはずだった片想いは、終わりを告げたようだった。
がたがたと窓が音を立てるほど、風が強く吹く、寒い日の朝のことだった。
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