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落雁をくれた君へ

 蒼林(そうりん)社 文芸編集部 日下歩(くさかあゆむ)  差し出された名刺にはそう書いてあった。  男の要求は単純だった。私の原稿を是非自分の会社にも任せて欲しいというのである。 「沢木(さわき)に用があったんですよね?」 「はい、水瀬(みなせ)先生の原稿のことでお話できればと伺ったんですが」  ぬけぬけとそう答える男につけ入る隙を与えないよう、私は注意深く微笑んだ。 「わざわざ来て頂いて申し訳ないのですが、直近の私のスケジュールは全て栄清(えいせい)出版の仕事で埋まってしまっていて」 「そう仰るだろうと思っていました。大方、沢木さんから他の出版社の人間とは関わるなと厳しく云われているんでしょう?」  その言葉に私は動揺を覚られないように、笑顔を保った。  よく晴れた四月のある日のことだった。  平日の日中、インターホンのモニターに映ったのは知らない男だった。スーツ姿で声ははっきりと通り、人の良さそうな笑みをカメラへ向けていた。 『蒼林社の日下と申します。沢木一葉(かずは)さん、ご在宅でいらっしゃいますか?』  蒼林社なんて聞いたこともないので、私は勝手に訪問販売か勧誘の類だと思い込んだ。モニター越しに沢木本人の不在を伝えたが、相手は自分の名刺と挨拶の品だけでも今渡しておきたいと云う。それを承知したのが仇になった。  扉を開けたのとほぼ同時に、男は素早く一歩前に踏み出して来たのである。 『初めまして。水瀬(いく)先生でいらっしゃいますね?』  相手が家主の商売敵だと知っていたら、扉は開けなかった。とはいえ沢木が勤めるのは誰もが知る有名出版社であり、どこの馬の骨とも知れぬ面前の輩とは違う。 「あの、私は本当に超がつくぐらい遅筆なのであまり先のお約束はできないんですよ」 「今日はお約束を頂こうなんて思ってません。まずはほんの少しだけお話ができればと」 「すみませんが今から仕事がありまして……でもこうして足を運んで下さったことには感謝します。珈琲だけでもご用意しますね」  断ってくれるかと思ったが、日下は体をソファに沈めたままだった。仕方なく私は台所へ立って珈琲の準備を始めた。 「あなたを独占するために同居までしている割にこんなに長いこと燻ぶらせておくなんて、沢木さんはあまり腕のいい編集者とは云えませんね」 「……はい?」 「私はあなたのファンなんですよ」  振り返ると日下は私の方を向いて微笑んでいた。 「『帰巣する光源』読ませて頂きました」  それは私が六年前に新人賞を獲った時の作品だった。  舞台は近未来で、心を持たない青年アンドロイドの主人公が少女に恋をする話だった。  裕福だが孤独でもある少女と知り合ったアンドロイドは、彼女と関わっていく中で繰り返し胸奥に光が灯るような感覚を覚える。  微かな熱を孕み、温かく光るもの。これは一体何なのか。  不思議な感覚を覚えながらも平穏な生活を送っていた彼等だったが、異国との戦争が始まり、主人公は戦闘用アンドロイドとして造りかえられ、最終的に遠い異国の地で倒れてしまう。  打ち捨てられた廃材置き場の中でも彼は少女を想い続けるのだが、終ぞそれが恋だとは自覚できない。何十年も経って彼の体は鉄塔の一部になるのだが、そこへ今ではすっかり年老いたかつての少女がやって来る。  審査員からは展開が稚拙だという強烈なだめ出しもあったものの、読者からの反応は概ね温かいものだった。 「あれを初めて読んだ時のことは忘れられません」  日下はいくらか熱を含んだ声でそう云った。 「それは……どうもありがとう」 「二作目の短編も読みましたがかなり間が空きましたね。スランプだったんですか?」  遠慮なしに訊かれて私は曖昧に微笑んだまま俯き、珈琲の方へ向き直った。 「はい。三年前に担当が沢木に代わったからあれは書けたんです」 「でもそれも一昨年の年明け頃発表されたものですよね。正直今はどうなんです?デビュー直後から続けていた雑誌のコラムも沢木さんにやめさせられてしまったんでしょう?」 「あれは時期が来たからやめただけですよ」 「二作目よりも少ない文字数でいいので、試しに一度何か書いてみてもらえませんか?」 「うーん」  抽出し始めた珈琲の香りが脳髄に沁みた。 「その前にあなたに一つ云わせてもらいますね。沢木の編集者としての腕は確かだと思います。現に名のある作家さんの作品をいくつも担当していますし。私が書けないのは単純に私の才能の問題です」 「そんな風に諦める前に一度、沢木さん以外の人間を頼ってみたらどうですか」 「随分私を気にかけて下さるんですね。でも正直、焦ってはいないんです。書けなくても沢木は私をここから追い出しませんから」 「そうなんですか?」 「こう見えても私の体は彼の役に立ってるんですよ。書くこと以外でも、色々とね」  自宅を直接訪ねて来るぐらい図太いのだから、平然と構えているかと思いきや、日下は私の言葉の意味を察した途端、ひどく顔を赤らめて風のように部屋を出て行った。  私は彼のために淹れていた珈琲を自分のマグに注ぎ、もらった和菓子をくすねて書斎へと戻った。  六年前、デビュー作ですっからかんになってしまった私は、その後しばらく何も書けなかった。  縁あって月刊女性誌のちょっとしたコラムを書く仕事をもらえたが、もちろんそれだけでは食べていけなかったので、週四日間はアルバイトをして何とか生計を立てていた。だが元々要領が悪く極度の人見知りだった私は、同僚の学生達からよくいじめられていた。  帰宅後は気を取り直して毎日執筆に臨むのだが、幾つ案を練ってみても、書き進められない。当時の担当編集者は無難な助言ばかりで具体的な指示をくれたことは一度もなく、彼の赤入れを見ても毎回いまいちピンとこなかった。  二年ほどそんな日々が続いていたある日、私の担当が沢木という男に代わった。  有無を云わせないのが彼のやり方だった。  書くのに邪魔になるからと、直ちにアルバイトは辞めさせられ、次に沢木のマンションへ引っ越す段取りが組まれた。沢木と出会って三日目には引っ越しトラックがアパートへやって来た。必要最低限のもの以外は強制的に捨てさせられ、電化製品の類はリサイクルショップへと回った。   住所変更等の手続きが終わると、私は携帯電話を取り上げられて3LDKのマンションの一室に閉じ込められた。その日から食事とトイレと睡眠以外の自由は許されない生活が始まった。  書けないなら読め、読めないなら書けと云われて本が山積みにされたその書斎から一歩も出してもらえなかった。この部屋には本の他に机とパソコンしかなかったので、疲れても就寝時間まで横になって休むことは許されなかった。   『来期以降は仕事を受けられないって連絡しておきなさい』  引っ越してしばらく経ったある朝、二年近く続けていた雑誌の仕事をやめるよう沢木から命令された。朝食を食べていた時だった。  私はおずおずと『たった一ページではあるが、初めてもらった書く仕事だからできれば続けていきたい』と伝えた。  自分のグラスにオレンジジュースを注いでいた沢木は、それを聞くと何も云わずにパックを持ったまま私の方へやって来た。  そして私の頭のてっぺん目がけて、オレンジジュースを注いだ。  あまりにびっくりしたために私は声も出せず、ただ茫然と坐っていた。 『思い上がるな。お前の代わりなんて五分で見つかるんだよ。雑文を書く前に、お前にはやるべきことがあるだろうが』  空になったパックが床へ落ちる音が聞こえた。  そして彼は私にその場を片付けるよう命じると、何事もなかったかのように優雅に残りの朝食を平らげ、出勤して行った。  沢木は私より十年上で、未婚だった。私は今でもこの業界のことをよく知らないのだが、栄清出版の沢木が鬼と呼ばれているのを知ったのは彼と暮らすようになってしばらく経ってからのことだ。  私はしょっちゅう怒鳴られ、ボツになった原稿を投げつけられ、机を蹴られていた。こんなものがあるからいけないのだと云って、処女作の本を眼の前で燃やされもした。殴られることはなかったが、今にも殴りそうな眼をしていた。  沢木の左手首にはかなり大きい切り傷の痕があった。自殺しかけた作家を止めようとした時にできた傷なのか、どやしつけた作家に殺されかけたのか。彼のような激しい男であれば一度や二度、刃傷沙汰に巻き込まれていてもおかしくはない。  ただその反面、沢木は人一倍、情が深い男でもあった。  当然だが彼が担当しているのは私一人ではない。書けない作家に付き合って深酒して帰って来ることは度々あったし、弱音ばかり吐く作家に電話で発破をかけたり、逃げた作家を探し回って帰って来ない日もあった。  そして何より沢木は子供には底抜けに優しかった。  〆切が迫っている作家の子供の面倒を見に行ったり、保育園の送迎を買って出たりすることはよくあったし、担当している女性作家が出産した時には、それは自分の子が生まれたかのように電話口で喜んでいた。  口にはしなかったが、本当は自分の家族を持ちたいと常にどこかで願っていたのだと思う。  そんな自分の願いを押し殺し、心を鬼にして振る舞う彼の背中には、宿命的ともいうべき孤独がはりついている気がした。  私が沢木の部屋に住み始めて一年半が経ったある深夜のことだった。  沢木は泥酔状態で帰宅し、上着も脱がずに私のいる書斎へ入って来ると、顔を合わせた途端に号泣し始めた。  突然のことに驚き、何事かと訊ねると彼は、学生時代から敬愛していて十年以上担当を務めたこともある大御所の男性作家がその日の夕方亡くなったのだと打ち明けてきた。  私はその大御所作家を知っていた。面識があったわけではなく、沢木の書斎で彼の作品を何冊か読んでいたのだ。 『本を読んで泣いたのはあの人の作品が初めてだった。この人の書くものをもっと多くの人に知って欲しいって思ったんだ。ほとんど恋に落ちたみたいだった』  先生の作品のあとがきには度々Sという編集者が登場するのだが、少し読んだだけでも先生がSに対して並々ならぬ信用と親愛を抱いているのが手に取るように分かる。出版年と沢木が担当を勤めていた時期が重なるので、十中八九このSというのは沢木のことで間違いないだろう。  先生が病床に就く前年に出版されたある作品に私はとても心揺さぶられた。  男性同士の恋愛を描いた物語で、妻子ある主人公が二十も年下の若者を愛するという話だった。その若者の特徴はほぼ沢木と一致していた。 『先生を愛してたの?』 『それを云ったら俺はあの人の傍にいられなかったし、先生も書けなかったと思うよ』  それを聞いた時、私は沢木と、会ったこともない先生の覚悟が分かるような気がした。  もしこれまで私が恋という恋を悉く成就し、常に誰かと抱き合える人生を送ってきていたら、もし言葉というものに牙があることを知らず鈍感に生きていける人種だったら、私はものを書こうなんて思わなかっただろう。  私は恋なんか知らない。  充たされないことこそ原動力だった。  一人の人間である前に作家であれ。愛を押し殺した胸の痛みが、渇望が、美しい物語になる。人生を賭して叶わぬ恋をせよ。  沢木が愛した先生はきっと骨の髄まで作家だったから、至上の愛の前でも身を切る思いで自身のプライドを貫き通したのだ。自分を敬愛する若者の前では最後まで作家であろうとした。   皮肉にもそういった孤高の姿勢が何より沢木の心を惹きつけていたのだ。そして先生が孤高の作家であるように沢木も孤高の編集者だった。  沢木の口唇が近づいてきた時、あえて私は動かずにいた。  私は彼を愛していたわけではない。  ただあの瞬間だけ、先生が私に乗り移ったかのような気がした。  そしてその直後、私は二作目の短編を書いた。  今も時々思う。  胸が張り裂けるような恋を私もしたい。  どれだけぼろぼろになっても相手を求めずにはいられない、けれどそれを口にはできない身を焦がすような恋がしたい。    落雁を舌の上で溶かしながら、私は今日やって来た若い編集者に真っ直ぐな瞳で見つめられたことを思い出した。  彼が本当に私のファンだったかは分からない。ただ、あの視線に私は微かな胸の痛みを覚えた。  まるで春の陽気そのもののような男。  初めての恋をするならあれほど相応しい男はいない気がした。    試しに一度。  静かに息を詰めて私は筆を執った。  日下さん、これを読むあなたの顔が私は早く見たい。

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