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神様の影

『九夏に咲く』という題名から、ひまわりなんだろうなと思う。大きく空に手を広げて、天を仰ぐその花の姿は写実的でそれでいて幻想実を帯びていた。その幻想は、色。 不思議な色をした絵だった。 花びらの一枚一枚が青く、空は淡い桃色。暖色と寒色が入れ替わった世界は混乱を用いて、さらに困惑を誘う。作者は変人か、よっぽどの芸術家気質か。作品の全ての色が、現実と逆だった。 水前寺 あがさが、斉藤大和の作品に出会ったのは雪が降る1月のことだった。 病院の帰り道に立ち寄ったカフェの二階。ギャラリースペースで小さな個展が行われていた。とても、とても静かだった。 コツ、コツと階段の床を靴が弾く。カフェから漂ってくるコーヒーの香りが空調の流れに乗って上昇して、あがさの背中を押した。暖かい空気と柔らかな光に満ちた空間が現れて、あの不思議な作品たちが世界を彩っていた。 一つ一つの作品を愛でるように、ゆっくりと鑑賞していてひまわりを見つけたのだ。時間を忘れて魅入った。異端の花は何故かあがさの胸に深く染み入り、心をざわつかせた。何故こうも興味を引かれるのか、その理由は色彩だけでは無い気がした。この画風が生まれた背景を探ることは、作者の人生を紐解く行為だった。 凍てつかされ、青の世界に閉じ込められたくせに生き生きとした太陽の花。さらりと風に吹かれて花びらを揺らし、夏のノスタルジックの象徴ともいえるひまわりを何故このような色にしたのだろう。 あがさは触れることの許されない芸術品に手を伸ばし、キャンバスの手前で指を止めて空気をなぞった。 「…。」 ふっと目線を下ろした。そして確認した作者のプロフィールを見て、驚く。こんな偶然があるのかと。作者、斉藤 大和は同じ大学の芸術学部、絵画科の学生だった。一週間ほど大学を休んでいたあがさは構内の掲示板を見ておらず、この個展の開催を知らずにいたのだ。 記帳ノートと共に置いてあった個展開催を知らせるはがきを一枚手に取って眺めていると、不意に肩を叩かれた。あがさは驚いて、ひゅっと息を呑む。背後を顧みるとそこには、長身の青年が立っていた。黒髪の短髪に褐色気味の肌、アンバーブラウンの瞳が黒猫を想像させた。にっと笑う口元に銀色に光る舌ピアスが覗く。 「   、      ?」 薄い唇が動き、上下する喉から青年が言葉を発していることがわかった。けれど、わかったのは喋っているということだけ。 「何?ごめん。声が聞こえないんだ。」 自らの声も聞こえない。だから、ちゃんとした発音で言葉を紡げたかはわからない。 青年は不思議そうに首を傾げて見せる。「どうして」と単語だけ読み取れて、あがさの言葉の意味は伝わったことを知る。 「…難聴を患っている。」 医師からは『突発性難聴』と診断が下された。 一週間前の凍えるような寒さの朝。目覚めたら、あがさの世界から音が失せていた。雪が音を吸収するようなしんとした静けさで、最初は気が付かなかった。だが生活音やテレビの音声、電話の通話口から音が聞こえないことに気が付いてパニックに陥った。大声を出しても、自分の声も聞こえない。ショックでずっと寝込み、今日、ようやく病院に受診した。 青年はあがさの言葉を聞いて、顎に手を添えて考えているようだった。そして個展に訪れた人の名前を記帳するノートの一番後ろの紙を破って、持っていたボールペンを走らせた。 「?」 今度はあがさが首を傾げていると、青年からその紙を見せられた。 『これで会話はOK?』 右上がりのシャープな印象を抱かせる筆跡だった。青年のイメージそのままで、少し笑ってしまう。そしてあがさは頷く。 「うん。」 『俺の名前は斉藤 大和。この個展の開催主。』 だから客である自分に声を掛けてきたのか。なるほど、と納得する。 「僕は、水前寺 あがさ。この個展、おもしろいね。」 大和は笑って、紙に文字を書く。 『すいぜんじってどんな漢字?』 あがさは大和からペンと紙を受け取って、自らの名字の漢字を書いて返した。あがさの文字を目で追って、大和は頷いたようだった。 『個展、楽しんでくれて嬉しい。見てくれてありがとう。』 「足を運んだのは偶然なんだ。でも、来てよかったよ。作品、不思議な色だね。」 不思議な色、とあがさの言葉を聞いて大和は少しだけ悲しそうに瞳を伏せて、苦笑した。 …何か悪いことを言っただろうか。 あがさがよぎった一抹の不安を感じ取ったのか、大和はすぐに表情を穏やかな笑顔に戻した。 『よく言われる。変な色だろ。』 あがさは驚いて、目を丸くした。斬新な色使いだとは思ったが、変だと思ったことは無かった。大和の描く絵画の色合いはむしろ潔く、心地よく感じていた。 首を横に振って、あがさは否定の意を表す。すると背の高い大和は猫背になって、あがさと目を合わせる。 「ほ・ん・と・う?」 乾燥して少しカサついた大和の唇がゆっくりと動く。一文字ずつ読み取って、あがさは頷いた。 「本当。変な色だとは、思わなかった。だってあんなに綺麗じゃないか。」 あがさの言葉を聞いて、大和はくしゃりと破顔した。その子供のような笑顔はひまわりのようだった。そしてまた紙に文字を書き込んでくれた。 『俺の絵は人の好き嫌いが別れるんだ。気に入ってもらえて、よかった。』 それから二人はしばらく筆談を交えて会話を楽しんだ。その中であがさも同じ大学であることを明かす。 『あがさはどこの学科所属?』 「ぼくは音楽学部の作曲科だよ。」 あがさの答えに、大和は複雑な表情をした。 『さっき、難聴って言ったよな?』 大和の書いた文字を見て、何を察したのかを察した。あがさは頷く。 「そう。だから、ちょっと…。いや、結構困る。」 苦笑すると、大和の大きい掌があがさの耳に伸びた。 「?」 右耳に触れられた手は子供のように体温が高かった。慈しむように耳の形をなぞられる。指の腹がわずかに耳の中を擦り、くすぐったい。 「…早く、治るといいな。」 柔く目尻を下げて、大和から労わりの言葉を紡がれる。声は聞こえなかったが言葉はわかり、あがさは深く頷くのだった。 「治癒するかは、わからない。でも…治ってほしい。」 「治るよ。」 「…。」 大和の瞳をじっと見つめる。 「治る。」 あがさの瞳を見つめ返し、大和はしっかりと告げた。 今まで我慢してきた不安な気持ちが解れていくような感覚。言霊というのだろうか。大和が言うと、本当に治る気がするから不思議だった。ほろりと零れたのは、一粒の涙だった。 「…ありがとう。」 あがさが慌てて目元を拭うと、その涙を見ないように大和は窓の外を見た。釣られてあがさも窓からの景色を見る。室内の温かさと屋外の冷たさに反応した窓ガラスが結露して白く濁っていたが、雪がちらちらと降っているのが分かった。街を白く染めていく雪は音を吸収していく。しんとして静かで、目が覚めるようだった。一瞬夜明けなのか、夜更けなのかがわからない空の色をしていた。 「そろそろ帰るよ。今度は大学で会えるといいな。」 気を取り直したかのようにあがさは明るい声を出す。大和もゆっくりとあがさに向き合って、頷いた。そして再び紙を手に取った。紙に書かれた大和の文字は、予想外の物だった。そこにはメールアドレスらしきものが書かれていた。 「?」 あがさが首を傾げていると、大和は文字を付け足す。 『俺のスマートホンのメルアド。連絡くれたら、嬉しい。』 「…どうして?」 『絵のモデルになってほしい。』 あがさは驚いて、顔を上げる。大和は照れくさそうに頬を人差し指でかいていた。ふっと笑って、ゆっくりと言葉を選んでいるようだった。 『人物画を描いたことがなかったんだけど、あがさがモデルなら描ける気がした。』 だから、お願い。と真直ぐに懇願される。 自分がそんな価値のある人間には思えなかったが、そう思ってくれたのは素直に嬉しい。だから考えておくとだけ告げてあがさは階下のカフェスペースに下り、店を出た。ドアにある鈴の軽やかな音を残し、雪が降る道に一歩足を踏み出す。その足取りは不思議と軽かった。 大和は窓の結露を掌で拭い、駅の方へと向かって行くあがさを見下ろしていた。 「…。」 気まぐれに、自らの個展に訪れていた客に声を掛けただけだった。 ―…個展、楽しんでる?と。 大和の気配に気が付いていなかったのだろう、あがさは小動物のように驚いて肩を震わせた。振り向いたときの瞳は黒目がちで、零れそうなほどに丸かった。長めの前髪をサイドに流しているあがさは中性的な雰囲気を出し、一瞬にして大和の意識をかっさらっていった。そして言う。耳が聞こえない、と。 聞いてみると、突発性のもので朝起きて急に音が聞こえなくなったらしい。大変だなと思っていたら、作曲科の学生だということを知った。あがさの生きづらさは胸が張り裂けそうなほど、伝わってきた。志した道が閉ざされる恐怖は何事にも耐えがたいものだろう。自然と手が動いて、あがさの耳に触れていた。肉厚で形のいい耳朶をしていた。宣言することで言葉は力となり、実を結ぶと思っていたから希望と願いを込めて、只々「治る」と繰り返した。 泣き顔を美しいと思ったのは、人生で初めてだった。あがさの涙は人魚が泣くようで、まるで見てはいけない物のようで目を逸らした。窓の外には、桜吹雪のような雪が降っていた。 音楽科の学生向けのアパートの壁は防音対策が施されているため、いつでも楽器に触れられる環境にある。 不思議な感覚だった。大好きなピアノを弾いているのに、その音色が聞こえない。鍵盤から紡がれる光が見えない。それは小さな白い花が咲くような、妖精がスキップを刻むような光。自分の指から生まれる奇跡のような音符たちが、全くわからなかった。 あがさは自らの震える掌を見つめて、そして鍵盤を乱暴に叩いた。 「…、」 呼吸がしにくい。肺に十分な酸素が行き渡らない。大声を出し過ぎて、喉から鉄の味がした。 たすけて。 たすけて。 誰か―…、 「治るよ。」 背中を丸め、そして頭を抱えて、目蓋を強く閉じているとある言葉が脳裏によぎった。 「…。」 あがさは僅かに顔を上げる。呼吸の乱れが少し、改善された気がした。震える手でもう一度、鍵盤の上に指を置く。 二ヶ月後の今、ここはまるで温かい水の中のようだ。 あがさは二人掛けのソファに寝転んで、大和の視線を受け止めていた。大和はキャンバスに向かって絵の具を乗せている。その色はデッサンの対象物に反して、いつだって奇抜な色をしていた。今日だって、モデルのあがさ を青く染めている。 色彩感覚の異常だと聞いた。 生まれつき、大和の目には物の色が通常より異なって見えているらしい。例えば「赤色はどれ?」と聞くと寒色系の色を大和は指差す。 大和が見つけてきた半地下の部屋は日差しが入らない代わりに、どれだけ音を出しても誰にも文句は言われない。 ルームシェアを決めた部屋はリビングとお互いの寝室があり、時折、夜にどちらかの部屋にお呼ばれして共に朝を迎えること多々もある。個室にはとっくに個人の画材が溢れ、共有スペースにまで及んでいるのはもう仕方のないこととして暗黙の了解済み。 室内はエアコンで温かく、加湿器も置いているために申し分のない環境で気に入っている。この二人だけの空間は水槽のように、居心地がいい。番いの金魚のように寄り添って、ゆっくりと呼吸をして世界はここだけだと勘違いする。柔らかい泥のようなベッドに着地する刹那、気泡を吐いて透明な水圧を感じるのだ。 あがさの難聴は今も治らず、音を拾うのに苦労はするものの随分と慣れてきた。二人は生きづらさを抱え、共鳴し、磁力が働いたかのように惹かれ合った。 大和の絵のモデルとなっている間、彼の視線を独り占めできるのは気分が良い。 あがさの指から紡がれる旋律は、もしかしたら二度と奏でられないかもしれない儚さを伴って心が鎮まっていくようだった。 相手の気配に胸を焦がし、触れあった指先が熱く蕩け、互いの瞳に自分自身が映ると嬉しい。 今までの誰にも感じたことのない感情。名前を聞いたら、神様は答えてくれるのだろうか。いや、そもそも自分たちを蔑ろにしたのに神などいるのか。 いなくていい、名前なら自分でつける。 この感情の名前は間違えようもなく、『 』。 了

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