1 / 1
第1話
かつて暗い森の中で、迷子の俺たちは出会った。
森の暗さに怯えていた獅子獣人の俺と、似た背格好で半ベソをかいていたアイツ。お互い無邪気に喜んだ。
どちらも迷子なのは一目瞭然だった。
一人の迷子が二人になっただけで状況は何も変わらないのに、二人で手を繋いだら、なんだか大丈夫なような気がしたのだ。
手を繋ぎ、二人で暗い森を歩く。
ちらりと横を見れば、アイツと目が合った。心臓がドキドキして顔が熱くなる。
だって、とてもかわいいのだ。俺が守ってやらなくちゃ。
思わず、繋いだ手にぎゅっと力が入った。
アイツはニッコリ笑って、小さな手でぎゅぎゅっと握り返してくれた。
ぎゅ。ぎゅぎゅ。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。
手に力を入れて、交互に強く握りあう。それだけなのに、ぽわぽわと心が弾む。さっきまで一歩も歩きたくないと思っていた足取りまで、びっくりするくらい軽くなった。
そういえば、群れのメスが、目があっただの手を繋いだだの騒いでいたなと思い出す。
「それが恋というものよ」
ワケ知り顔でそういいながら、ほほを赤らめていたのは誰だったっけ。
恋をすると、地に足がつかなくなって、心臓がドキドキして、些細なことで幸せになれるのだと言っていた。
そのときは馬鹿馬鹿しいと聞き流していたけれど、これが恋なら、悪くないなと俺は思った。
――恋。
つまり、好きなんだ。
気持ちを自覚すれば、ますますドキドキして顔が赤くなるのが分かった。
さりとて迷子の状態は変わらない。それでももう、心細くはなかった。
俺たちは見つけた小川で喉を潤し、身を寄せあって夜をやり過ごした。
俺たちは、まだアルファもオメガも何のことだか知識もなく、体は未分化で未成熟だった。それでも出会ってすぐ、固い絆で結ばれたのだと分かった。
きっと運命の番 なのだと、今なら分かる。
しかし、それに気付くより前に俺たちは引き離され、それきり会うことがかなわなかったのだ。
大人でも命を落としかねない真宵 の森で、大がかりな捜索のすえにようやく見つかった俺たち。
大騒ぎする周りを押しのけ駆けつけた母は、俺を抱きしめて泣いた。父は心配したと叱りながら、その大きな腕で、母親ごと俺を抱きしめてくれたのだ。
俺は疲れと空腹のあまり意識を失い、何日も高熱をだして寝込んでしまった。
ようやく熱が下がってから、両親には改めてこんこんと叱られた。
森は怖かった。一人では心細い。アイツはどうしているだろう。泣いていないだろうか。
また会いたい。
俺はアイツのことを両親に尋ねた。
すると、父は牙をむき出し、見たこともない恐ろしい顔で唸りだしたのだ。
今まで幾度となく叱られてはきたが、こんな父を見たのは、初めてのことだった。
まだ子どもだった俺は、なぜだか分からず驚いた。それから、びぃびぃと泣きじゃくった。
「私は、認めないからな……っ!」
父はそう呟いて、たて髪をかきむしった。母は泣く俺の背中を優しく撫でた。
「お父さんは怒ってるわけじゃないのよ。きっと、どうしていいか分からなくて戸惑っているのね。さぁ、かわいい坊や。泣かないで。……あの森のことは、忘れてしまいましょう」
それ以降、真宵の森の話は触れてはいけないダブーになってしまったのだった。
それでも俺は諦めきれず、こっそり隠れて、獅子の村をすみずみまで探し歩いた。
しかし、アイツはどこにもいなかった。
もしかしたら外の獣人だったのかもしれない。
会えない時間とともに、大切なアイツの記憶が薄れていく。
俺は絶対に忘れたくないと、アイツの小さな手をくり返し思い出した。
こうして、アイツに会えないまま長い月日が過ぎ、俺は立派な獅子獣人へと成長していった。
誇り高いアルファの父とオメガの母から生まれた俺は、立派な体躯のアルファへと成長していた。
獅子のシンボルであるたて髪は皆が見惚れるほどで、次世代の群れのボスとして期待され、一目置かれているのだった。
当然のことながら、大人になれば恋の季節がやってくる。
しかし俺の心は、フェロモンをまき散らすどんなオメガの誘惑にも動かなかった。
両親は、いつまでも番を作らない俺を、物言いたげにしながらも見守っていてくれた。
それを申し訳なく感じているのに、俺の頭の中はアイツのことばかりなのだ。
アイツの小さな手は、今どれくらい大きくなっているのだろう。
アイツは、誰かと番になってしまったのだろうか。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
――ああ。俺は、ただ一度出会っただけのアイツが、どうしようもなく好きなのだ。
俺は一人で宵闇の森を見つめ続けた。
それからしばらくして、村の周りが騒がしくなった。以前から狩り場をめぐって揉めていた猫獣人と、ついに大きな争いになってしまったらしい。
どちらもプライドの高い種族だ。こうなってしまえば、戦いで解決するしかない。より強い方が正義なのだ。
獅子獣人は、おのれの体一つで戦う。牙と爪、その類まれなる強大な力で、どんな敵でも背中を見せることなくなぎ倒していく。
それに対して猫獣人は、的確に急所を狙う素早さがあった。得意な武器を手に、戦術を練って戦う。
力では取るに足らない猫獣人を相手に、苦戦を強いられた。急襲をくり返す戦法に、少しずつ仲間の数が減っていく。
俺はその戦いの中で、忍び寄る敵を何人も返り討ちにし、自分もまた少なくない手傷に血を流していた。
激しくも静かな戦いが続き、日が傾き始めたころ、ふいに懐かしい匂いが鼻をかすめた。
俺は記憶力も鼻もいいから、濃い血の匂いの中にいても、アイツの匂いだとすぐに分かった。
俺のアイツの匂いだと、分かってしまったのだ。
振り返ったときのアイツの顔ときたら。
しかし、アイツの縦長の瞳孔が驚きに丸くなるより前に、俺はアイツが敵なのだと気付いてしまった。
だからといって斬りつけるわけにも、幼い日のように無邪気に手を取り合うわけにもいかない。俺は戦いの最中なのにもかかわらず、間抜けにも立ちすくんでしまったのだ。
その隙を敵が見逃すはずもなく、脇腹に剣が突き刺さる。
俺はすぐさま敵をなぎ倒し反撃したが、一歩、二歩とよろめいた。地面に赤い血が染み込んでいく。
返り血を浴びることなく舞うように戦うアイツは、敵ながらに美しかった。
アイツの細くしなやかな体躯。昔のかわいらしさはそのままに、大人の男へと成長していた。
俺の初恋。俺の運命。
アイツは目の前の敵を斬り伏せながら、俺の方へ少しでも近付こうと足掻いているようだった。泣きそうな顔でこちらを見ている。
俺はたまらず走り出した。逃げだしたのだ。
敵に背を向けたのは、生まれて初めてのことだった。
――誇り高きアルファのこの俺さまが。
今までさんざん探しまわっていたアイツに、やっと、やっと再開できたのに。
今になって思い返せば、たしかにアイツのフードは妙にとがって膨らんでいた。
落ち着いて観察すれば、猫獣人の耳だと気付いただろう。
きっと初めての恋に馬鹿みたいに浮かれていたのだ。恥ずかしい。
アイツは、俺の首を彩る豊かな毛並みが、暖をとるための襟巻きではないと最初から気付いていたのだろうか。
戦いで血を流しすぎた俺が、ふらふらと足を踏み入れたのは森の中。
死に場所にと定めた木にもたれかかって、俺はゆっくりと目を閉じた。
死ぬのなら、番になる前でよかった。そう自分に言い聞かせた。
森の中で、泣きべそをかいていたアイツを思い出す。もう、アイツを探すまい。だからどうか、アイツが平穏に暮らしていくことを、願わせてくれないか。
戦いなど放り出し、生きて欲しい。どうか。どうか幸せに歳をとり、ベッドの上で家族に囲まれて、安らかな最期を迎えてくれ。
せめて、アイツだけは。
――だから俺を探してくれるなよ。
閉じた目の闇の中に、大人になったアイツの姿が浮かんでは消えていく。
アイツの匂いがした気がして、すんすんと鼻を澄ましかけてやめた。もう、探さない。探さない。
なのに、アイツの匂いが濃くなった気がするのはなぜだろう。
そんなはずはない。妄執だ。俺は探さない。だから俺を探すなよ。どうか探してくれるなよ。
痛みはとうに体を離れた。
体を動かそうとしても手がむなしく土を掴むだけ。目も開けられない。
血だらけの手の中で、細い枯れ枝がぱきりと小さな音を立てた。
血を失って体は冷たくなっていくのに、腹の底だけがぐるぐると熱を持ったように疼いた。ぐんと、アイツの匂いが近付く。
ああ、猫獣人は耳がいいんだったか。
閉じた目の向こうで、アイツの弾む息を感じた気がした。
こんな情けない姿は、見られたくなかった。
俺は死ぬだろう。
でも、最期にアイツの腕の中で死ねるなら、それも悪くないのかもしれない。
――そう思ったのに。
耳元でにゃあにゃあ泣きわめくアイツに顔をざりざりと舐められ、下手くそにずるずる引きずり運ばれ、傷口を広げたいのかと疑うほど不器用に手当てをされて、そのあまりの痛さに意識を手放し損ねた。
俺は死にぞこなったらしい。
アイツの喉の音が、夢うつつの俺の耳元でごろごろと騒がしく鳴っている。
うるさい。傷に響く。騒ぐなと言いたいのに、声も出ない。痛い。熱い。体が熱い。
アイツがそばにいると、腹の奥がうずいて――。
「もう探さない。一生、離れないからな。探す必要がないくらい、離れないんだからな。僕のかわいいお嫁さま」
アイツがとんでもないことを呟くものだから、
びっくりして目が覚めた。
「待てよ! それじゃ俺が、この誇り高き俺さまが、オ、オ、オメガみたいじゃないかっ……!? このゴツい体のどこを見たらそうなる!? 嫁はお前だろ!?」
「よかったぁ! もしこのまま目が覚めなかったら、僕も一緒にって」
「だぁから! 今はそんなことどうでもいい! お前が、オメガで、俺さまの嫁だろぉ!?」
大きな声を出したらそれすら下半身に響いて、頭がくらくらしてきた。腹の奥が切ない。
なんだこれは。……ま、まさか……本当に?
「こんなに甘い匂いをさせて、僕のこと誘ってるのに?」
「やめろ! これは、違う……っ! きっと死にかけて体が混乱してるだけだ! だって、今まで一回もヒートなんてなかったのに……」
「それって、僕のために今まで貞操を守ってくれてたってことだよね? 君の種族ってば閉鎖的だから、あの日、君のご両親には追い払われちゃったけど、諦めなくて本当によかった。僕のかわいい運命の番さま」
なるほど。あの日の両親の態度が、ようやく腑に落ちた。
アルファだと思っていた俺がオメガで、運命の番だと主張する相手が小さな猫獣人だったのだ。プライドの高い獅子獣人の父なら、さぞや困惑しただろう。
「君が大怪我してるから死ぬ気で耐えてるんだけど、ね、もう噛みついてもいい? 君のそのたくましい首に牙を突き立てて、永遠に僕だけのものにしたい。大好きだよぉ」
視界いっぱいに、俺を覗きこむアイツの顔。
誰よりも綺麗な顔をしているくせに、男らしく欲情した表情で見つめられて、俺は固く目を閉じた。
どんな顔をしていいか、なんと返事をすればいいか、分からない。
でも……どうしよう、嫌じゃない。
俺は動きそうになる尻尾を気合いで止めて、狸寝入りを決め込んだ。
「うそ、この状態で寝ちゃうの!? 待って、ねぇ、待って」
「うるさい」
「ああん、冷たい。でもそういうとこも好き。もう絶対に離れないんだからね」
「うるさい。俺さまが、離さないんだよ」
「……やっぱり、ちょっとだけ噛んでいい?」
「寝てるあいだになんかしたら、二度と口をきかない」
「ああああ、それは嫌。我慢する! だから、早く良くなってねぇ」
俺は目を瞑ったまま、少しだけ手を差し出した。
すぐに重ねられたアイツの手を、きゅっと握りしめる。
手のひらから、アイツの温もりが広がっていく。俺はほっと息をついた。
少し眠ろう。
急がなくても、もう探さなくていいのだから。
きっと次に目覚めたときも、アイツはうるさいくらいにそばにいるのだろうから。
これが俺の初恋で、きっと最後の恋なのだから。
――目が覚めたら、やっぱりお前が嫁になれと口説いてみてもいいかもしれない。
俺はうとうとしながら、手のひらの中の幸せを握りしめた。
(おしまい)
ともだちにシェアしよう!