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 視界が淡い。  不精をして伸びすぎた前髪を指ですくいながら、遠野(とおの)秋生(あきお)は空を見上げた。  まだ高い薄青い空への見通しを遮るような桃色。 (ああ…春か)  どれだけ気温が高くなっても、この色を見るまでは春だという気がしない。(もっと)ももう暦は皐月、テレビなどでは見慣れた光景。  けれどこの北の地には今ようやく訪れた桜前線。  その盛りは瞬く間で、少し仕事で忙しくしているとすぐに緑へと取って代わられる。儚いその花を、いつかあの人が好きだと言った。  あの人が好きだったから、秋生も好きになった。  桜はいつの年も忘れなく咲く。  取り残された秋生の胸にどうしようもない(かげ)りを落として。  胸を掴む思い出に俯き、秋生は小さく息をつく。そしてふと左手首の時計を見やり、やっと花霞を払えたかのように睫毛を上げた。 「あ」  何はともあれ秋生は走り出した。  午前中から外回りの営業に出ていたのだが、午後三時から担当者変更の引継ぎで取引先から来客があるんだった。もう二時半。こんなところでぼんやり感傷に浸っている場合ではない、早く社に戻らなければ。  大学新卒で秋生が入社して、三年目になる。営業の先でも顔が利くようになり、今日来る取引先とも担当補佐として応対することになっている。仕事にもやりがいを感じられるようになった頃だ。  もう二足目を履き潰そうかというこなれた革靴で、秋生は会社までの土手沿いの道を走った。立ち並ぶ桜の幹には、何かの祭りがあるのか雪洞(ぼんぼり)が吊るされている。  これだけずらりと桜が並んでいたら、満開になる今度の土日あたり、近所の公園は花見客で大変な混雑になるだろう。 (…あ、花見といえば)  保留にしていた懸案を思い出しかけたところで、会社の玄関をくぐった。混み合うエレベーターに乗ってしまえば、さっき思い出したことも忘れてしまう。  自分の部署のフロアに着いて、上がってしまった息を整えながら乱れた髪を直す。そうしていると、秋生が補佐をする担当者がパーティションから顔を出した。 「お、遠野、帰ったか」 「はい、遅くなりました」 「いや、いいタイミング。今受付から向こうの担当者が来たって連絡あったから、悪いけどちょっとお前、下まで行って案内してくれるか」 「あ、はい分かりました」  先輩に頼まれて、今来たばかりの廊下を取って返す。  我ながら女々しくて泣きそうだ。もう四年も前のことなのに。それでも毎年、桜花を見るたびに思い出す。  もういい加減忘れてしまおう。そうしなきゃ、大事なものを見落としてしまいそうだから。 「…あ、どうも、東峰システムの方ですか?」 「あ、はいそうです」 「お待たせしました、私営業一課の遠野と……」  ――それなのに。 「…秋生?」  どうして、今になって。こんな所で。 「なんだ金森(かなもり)、遠野さんと知り合いか?」  ロビーで、先方の二人はテーブルを挟んで向かい合わせに座っていた。秋生の降りてきたエレベーターの方を向いていた、年長者と思われる男がこちらに気づき、秋生はその人に会釈した。しかし名刺を差し出そうとする秋生を振り返ったもう一人を見て、秋生は言葉を失った。 「ええ、あの、大学の後輩だったんです」  金森と呼ばれた男が、少し気まずそうに説明した。 「へぇ、金森は大学こっちだったのか。じゃあだいぶ久しぶりなんじゃないのか、お前東京からこっちに出向してきたばかりで」 「そうですね…四年ぶり、かな」 「…ええ」  ちらりと窺うように視線を寄越した金森に、不自然にならない程度に秋生は浅く頷いた。 「そうだったんですか。遠野さん、私は今回から担当になります長谷部(はせべ)です、よろしくお願いいたします。金森は一応私の補佐役ですが、実質は私の方で当たらせていただくことになると思いますので」  長谷部はそう言って名刺を差し出した。 「はい、あの、私も担当補佐ですので、上で担当の者がお待ちしております。ご案内するようにと言われて」 「いやぁ、場所は分かってますから大丈夫ですよ。せっかく四年ぶりに会ったんですから、金森と話でもしてらしてください」 「え、あの」 「じゃあ金森、俺挨拶に行ってくるから」 「あの、長谷部さん」  きびきびと、自分の判断した通りに行動する(たち)らしい長谷部は、二人の戸惑いもそっちのけでさっさとエレベーターへ歩いて行ってしまった。  取り残された二人は、気まずく視線を合わせる。 「…外、出るか」  耳の下辺りを掻きながらの金森の言葉に、秋生は頷くともなく俯いた。 「おー、咲いてるなぁ。この時期になってもまだ桜が見られるなんて、幸せだー」  会社のすぐ隣にある川の土手へ歩き、金森は嬉しそうに伸びをした。そして一番咲き揃った木の下へ一人で座り込んでしまう。  秋生はどうしようかとぼんやり佇んでいたが、振り向いた金森が自分の隣をぽんぽんと叩くので、そこへ座るより仕方なくなってしまった。 「今年は二度花見ができそうだよ」  もう再び聞くことはないと思っていた通りのよい低い声を、不思議な心地で秋生は聞いた。 「…二度?」 「うん。四月のうちは片付けきらなかったこともあってちょくちょく東京へ戻ってたんだ。その頃も東京は桜が咲いてて、今またこうして花見ができる。今頃東京だったら葉桜もいいとこなのにな」 「……」  つまりそれだけ離れたところにいたのだということを意識して、急に何かが迫って秋生は何も返せなくなる。  金森は大学のサークルの、二つ年上の先輩だった。知り合ってすぐに二人は仲良くなり、ふとしたはずみで恋愛関係へ発展した。二年つき合って、どこにも、何の保証もなかったのに、秋生にはこれからもずっと続いていく関係のように思われた。  でも違った。金森は秋生に何の相談もなく東京での就職を決め、何の約束もなく上京していった。それっきり、二人の間にあったものはふっつりと途切れてしまった。  もちろん互いの連絡先は知っていたし、連絡をとろうと思えばいくらでも可能だった。けれど上京した金森から秋生の元へ連絡が入ることは一度としてなく。また、置いていかれた立場の秋生から金森へ連絡することも憚られた。  本当に、それきり。  感情も何もかもが中途半端にそこへ置き去りにされたまま、月日は流れてそれぞれ違う事情の下に過ごしている。  …恨んでいるのだろうか、秋生は金森のことを。  何度も考えたけれど、それは秋生にもわからなかった。  どうして金森が何も言わずに秋生を置き去りにしたのか、そしてどうして秋生にはそれを問えなかったのか、今となってはもう知る由もない。  ただ今でも分かるのは、秋生は金森を愛していた。だから彼の好きだった桜を好きになった。  そして毎年、春が辛くなった。それだけ。 「…元気そうだな」  けれど金森は、そんなことなどなかったかのような湿りのない声を聞かせる。  本当はあの頃、自分は金森とつき合ってなどいなかったのではないかとさえ錯覚して、秋生は隣の金森を見上げた。 「うん、元気だよ」 「今……幸せか?」  唐突に問われ、秋生は表情を曇らせる。 「…なんでそんなこと訊くの」  俺を捨てたくせに、という響きを感じ取って、金森は視線を俯けた。 「心配してた、ずっと」 「嘘」 「ほんとだよ」 「嘘だ。何の相談もなかった。黙って上京した。四年間連絡一つなかった。俺の携帯番号変わってないのに」  出てくるのは金森を責める言葉ばかりで、秋生は押し止めるように口元を押さえた。  今はもうそんなことを言いたいのではない。今責めたってもう仕方がない。和やかに話をしてこの場を別れればいい。  なのに抑えられなかった。顔を見て、優しい声を聞くと、血を噴いた古傷がじくじくと疼いて。 「…ごめん」  その秋生の辛さに、金森は俯いて懺悔した。 「俺、あの頃自分のことしか考えてなかった。就職活動が大変で、上手くいかないとお前に当たったりしてて」  そんな不安定な時期があったことを、おぼろげに秋生も思い出す。 「…べつにそんなの気にしてなかったよ」 「でも俺はやりたい仕事があったんだ」 「分かってる。金森さん頑張ってた」 「だけどお前に待ってろなんて言えないし、東京に出て来いとも言えなかった。俺はそこまでお前の人生に責任を持てなかった。自信がなかった」  ――若すぎたのだと思う。あの頃の秋生にも金森にも、自分の目の前しか見えていなかった。 「…でも、お前のことは愛してたよ」  先のことは何も分からなかったのに、ただ感情だけを頼りに闇雲に肌を求めた。  幼い、稚拙な愛だった。 「俺のこと、どうでもよくなったわけじゃなかったんだ……」  目を伏せ、小さく呟く。聞いた金森は、強くかぶりを振った。 「それだけは違う。就職して、秋生のことはずっと考えてた。でも秋生には秋生の生活があると思うと、連絡できなかった。…恨まれてると思ってたし」 「恨むような筋合いじゃないよ…金森さんにはやりたいことがあったんだから」  同じことを、四年前に言えていたかはわからない。けれど、自分が何とも思われていなかったわけではなかったと知って、秋生の中で何かが融ける。 「…ありがとう」  そう言って破顔した金森の変わらない優しい微笑みに思わず頬を染め、秋生は俯いた。 「あ」  ふと、気づいたように金森が秋生の額に視線を上げた。そして手を伸ばし、秋生の伸びた前髪に触れる。  撫でるように触れられて、一瞬秋生は、つき合っていた頃の二人に戻ったような気がした。 「はなびら」  しかし触れた手はすぐに離れ、開いて見せた金森のてのひらには淡い色の花弁が乗っていた。  かつて愛した人の好きだった花が、散る。 「金森さん」  ――ああ。 「…うん?」  今やっと終わったんだ、と秋生は知った。 「俺、幸せだよ、今」  それを聞いた金森は、一瞬、目を見開き。  その目を細め、そうか、と微笑んだ。  金森は花弁を手放し、立ち上がってズボンをはたいた。 「じゃ、俺戻るわ」 「うん」 「お前も早く戻って、仕事しろよ」 「いつまでこっちいるの」 「出向は、二年の予定」 「…じゃあ、また会うかもね」 「そうだな」  笑って、じゃあな、と片手を上げて金森は会社の方へ戻っていった。  風が吹くと、ちらほらと花弁が舞う。  本当に、あっという間に咲いてあっという間に散ってしまう花だ。  移ろいやすいものの下で、いつまでも変われなかった自分を、秋生は笑った。  …いいや、本当は変わっている。秋生を取り囲む何もかもが。  ふと、スーツのポケットに入れていた携帯がブル、と震えた。慌てて背面の表示を見て、思わず口元が緩む。 「もしもし?」 『あっ、遠野さん? 三階の窓見て見てっ!』  はしゃいだ声に、振り返って会社の三階を見上げる。その窓辺に、こちらを向いて大きく手を振る長身の姿。 「…お前、そのなりでそういうことするとものすごく目立ってるぞ?」 『だって目立つようにしなきゃ遠野さんそこからじゃ見えないでしょ。今そこで何してるんですか?』 「取引先の人と、ちょっと話してた。今は…桜見てた」 『もー、用が済んだなら働きましょうよー。ずるい、就業中に一人だけ花見なんて』 「もう戻るよ」  苦笑して、通話中のまま秋生は会社へと歩き始めた。 「…あ、そうだ吉本(よしもと)」 『はい?』 「お前、次の日曜に花見に行こうって言ってたよな」 『あ、はい、でも』  三階の男は少し首をかしげ、態度を萎縮させた。 『遠野さん、あんまり気乗りしないみたいだし、べつにいいですよ?』 「いや、行くよ」  建物のすぐそばで三階を見上げ、秋生は笑いかけた。 「桜は好きなんだ」  もうそろそろいいだろう。  桜を見ることの意味が、楽しい思い出へと変わっても。  その思い出を、彼と一緒に作っても。 『ほんとですか、やったぁ!』  デートだデート、とはしゃぐ吉本に、その代わりお前車出せよ、と言うとなおのこと嬉しそうに吉本は、任せてくださいと胸を張った。  変わらないものはない。去年の桜と今年の桜は違う花なのだ。  新しい春に、一歩足を進めてみようと、秋生は桜を振り返って笑った。 <END>

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