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彼を射止める

「おーい坊や、早くしろよ。みんな待ちくたびれてるぜ」  ドアを開けざま投げかけられる彼の言葉は、何だか嫌々口にしているかのように響いた。もっとも眉間へうっすら刻まれていた皺は、僕が反射的に投げかけた罵声にすぐさま溶け消える。 「悪い悪い」 「ノックしてよ」 「まさかまだ準備中なんて思わなかった」  慌てて脱ぎかけていたデニムを引き上げる姿も、ベッドの上へ広げられた水着もちゃんと見えているはず。ならばさっさと回れ右をしてくれればいいのに、彼はずかずかと部屋へ足を踏み入れてきた。 「それに、おかしいだろう。なんで客が従業員を呼びに来なきゃならないんだ」 「従業員じゃないってば」  僕よりも遙かに上手く愛嬌たっぷりに、彼は唇を尖らせる。そこまで詰られる謂われはない。どうせ彼の部屋は僕の隣で、通りがかりだし。大体この時間までぶらぶらしてるって事は、彼も遅刻だ――いや、おかしい。壁掛け時計は9時を回ってすらいなかった。ケワロ・ベイシンまではここから車で30分。案内役のおじいちゃんは裏道を知っているから、その気になればもっと早く着く。クルーズは10時から。いくら軍人が時間に厳しいことをさし引いたとしても、急き過ぎる。  真面目で不真面目な中尉殿。彼が1週間の休暇を真珠湾ではなくこの民宿で過ごす理由は、本人曰く「基地じゃ思う存分葉っぱを吸えないから」。その癖、僕がくすねてきたおばあちゃんの医療用大麻を一緒にキメたのは数回だけ。時々ぶらっと怠け疲れの体を散歩へ引きずり出す以外は、部屋でビールを飲みながらケーブルテレビを見ているばかりだった。着任前の将校じゃなくて逃亡犯とかじゃないかしら、なんておばあちゃんは言っていたけれど、寧ろそっちのほうがしっくり来る生活だ。 「きったねえ部屋だな、掃除しろよ」  自分の部屋だってギネスの空き缶が一杯の癖に、彼は見回しざま肩を竦める。汚いんじゃなくて狭いだけ。いつも滞在時に使う一番広い部屋を彼に占拠されてるから、こんなところに押し込められてる。息苦しさを感じているのは、部屋に2人以上の人間が存在したことがないからだ、きっと。彼がここを訪れたのは初めてだったと、今思い至る。 「すぐ行くよ。下で待ってて」 「別に男同士だから恥ずかしくないだろう、それともまだ生えてないの、気にしてるとか?」  ちゃんと生えてる、何てくだらない質問だ。どの事実を口にすべきかと思ったけれど、結局唇から押し出すことが出来たのは、「僕15歳なんだけど」というぶっきらぼうな呟きだけだった。また「悪い悪い」って、全然思ってない癖に彼は唇の先で返す。  きょろきょろ好奇心を振りまいていた視線は、やがて水着と一緒に並べられていた釣り用具一式へ落ちる。 「ほんとにこんなので、カジキマグロなんか釣り上げられるのか」 「そんな大きいのは狙わないよ」  彼はしげしげと首まで曲げて眺めていたから、水着をひったくろうと近づいたとき、Tシャツから伸びるうなじが視界に入る。日に焼けて浅黒い肌は少し乾燥して、古いなめし革にくるまれた太陽みたいな匂いがした。 「ちゃんと手に負える範囲は分かってる」  彼はハンサムだ、心身ともにマッチョで爽やかな好青年って言葉がぴったりの見かけ。そう心の底から意識したのは、二人でベッドに寝そべって、ウェズリー・スナイプスが暴れる映画を見ながらジョイントをくゆらせていた時のこと。虹色の円が幾つも浮かぶ視界の中、焼けて色褪せたブロンドの髪が、夕陽の中できらきら輝いているのに、思わず見とれてしまった。眇められた瞼の奥で優しく潤んでいる青い瞳を――どうしてこんなに青いんだろう!――口に含んで舌で転がして、よく咀嚼して飲み込んでしまいたかった。おばあちゃんはクリント・イーストウッドに似てるなんて言ってたけど、同意しない。あんな皺くちゃの頑固そうなジジイなんかと一緒にしないで欲しい。彼はこれまで僕の知る誰にも似ていない、唯一無二だった。  酩酊なんかと無縁の今でも、楽しそうな横顔から意識が剥がせない。彼は臆することなくコンパウンド・ボウに手を伸ばし、きつく張られた弦を、体格の割に華奢な指先で弾いた。口角に刻まれた笑みが驚きによって深められる。 「思ったよりも強いな」 「うん。バス位なら余裕で貫通だよ」  緩んだ口元は無防備で、僕の凝視が向かっているのだと気付いてもいない。いっそ気付けばいいのに。いや、気付かないで欲しい――どっちだろう、分からない。長い、透き通るような金色の睫が小さく瞬いたから、答えを探る前に目を逸らす。 「釣れたらBBQに一品増えるから、楽しみにしてて」 「ああ。でも、子供がいるからこれは危ないかも」  マットレスの上へ無造作に弓を落とし、彼は身を翻した。立て付けの悪い窓が苦労して押し上げられる。途端、湿度を増した生ぬるい冬の風が、甲高い声を室内まで運び上げてきた。  クルージングのメンバーは操縦役のおじいちゃんとおまけの僕を除いて陸軍ご一行様。彼と友人数人、後は彼らの上官である少佐とその家族。おじいちゃんはもうスコフィールドの住宅街までみんなを迎えに行って、思ったよりも道が空いていたっていうのが、時間前行動を強いられる正体らしい。  彼の肩越しに、僕も外を覗き窺った。ぼろいバンの傍らで、幼稚園くらいの男の子が、妹らしい女の子の手を掴んで佇んでいるのが見える。二人に何かを言い聞かせているのは母親だろう。ほっそりとした、いかにも知的な美人。話の内容は分からないけれど、途切れ途切れに届くその優しげな口調から、間違いなく良い人なんだって事は十分に示される。  懇々と続くお叱りを見かねたのか、それともただ会話に参加したいだけなのか。やがてバンの後部座席から、男性がのんびりと登場する。奥さんへ二言三言話しかけてから、その端正な顔はふっとこちらを見上げた。笑って手を振り返した時、僕の目の前で、広い背中を覆う筋肉は間違いなく緊張を増す。 「理想の家族って、少佐達みたいなののことを言うんだろうなあ」  褒め言葉と裏腹、普段から少し掠れ気味の声は一層擦り切れ、抑揚が失せている。  彼が賞賛しているのは少佐だけで、「達」は不要。いや、もしかしたら賞賛って言葉すら、本当は適切じゃないのかもしれない。  俺はゲイじゃないと彼は言う。実際、一つのベッドで寝ても体に触れられたことはないし、女の子の話をよくする。その度に僕が無表情を貫いても、きっとラリってる状態特有の筋肉の弛緩位にしか捉えていないのだろう。  僕もゲイじゃない。浜辺で出会った女の子と膝をくっつけ合いながら座って海を眺め、やがてキスしたことを誇張して彼に報告する。実際、明るくて可愛い子は大好きだ。でも、別にそこまでガツガツしなくていいかなとは思う。血眼になってセックスの相手を探し、ペニスをヴァギナへ突っ込む必要に駆られたことは、これまで一度もない。  彼はその辺りの感覚、真っ当そうだから、正直に告白すればきっと「変人だな」なんて目を丸くするだろう。そんなことは絶対に言われたくなかった。彼には賞賛されたい。楽しい奴で、いい奴で、仲良くやっていける奴だって思われたい。  その欲求は日に日に膨らむ。同時に、彼が明るい光へ顔を向け、こんなにも眩しそうな表情をすると考える。もういいや、全部ぶち壊してやりたいって。  バター色をした朝日の中で、彼は顔を綻ばせる。中佐と、その附属品に向けて。余裕があるのは、もう幾らもせず家族が離れ離れになると知っているからだ。 「いつ帰ってくるの」 「ん?」  って、少し鼻にかかった曖昧な尋ね返しに、「任期はいつまで」と付け足した声は、びびっているように響いただろうか。それかいかにもガキっぽく不機嫌に聞こえたかも。まるで夢から覚めたように、彼は身じろいだ。背中の描く湾曲が一層艶めかしい深みを増す。 「あー、半年」 「大変だね」 「それが仕事だからな」  少佐は一見優男風だけれど、実戦経験が豊富なつわもので、だからこそあの若さながら今の地位を得ているんだと言う。そう話す彼の目はいつでも煌めいて、全く星みたい! もっと素敵な例えを見つけられなくてもどかしい。そうすればきっと、瞳は僕と向き合うときも、同じような色を保ってくれるに違いない。こんな何か頼りないものを見るような、海の深い場所で弾ける泡じみた弾力に富んだ目つき、ちっとも嬉しくない。晒されると酷く落ち込んでしまう。この数日、傾向は特に顕著だった。どう対処すればいいか分からない。これまで遭遇したことのない事態だ。 「心配しなくても、そう簡単に死にゃあしないよ。少佐は英雄だ。これまで、どんな厳しい任務もやり遂げてきた」 「でも」 「寧ろ俺は、あのタワーで死んだ人達の仇を取れると思うと、ワクワクする」  お前だってそう思うだろう、と同意を求める眼差しは冗談のかけらもない。言い返せなかった。「だからって、よその国で知らない人を殺すなんて」って。まだあの恐ろしい事件から半年も経っていないし、それに僕の学校のクラスメイトでも、親類を喪ったって人がいる。 「俺こそ、お前がニューヨークへ帰ったら心配だ。第二、第三のテロが起こらないとも限らない」 「大丈夫だよ。そのためにあんたが行くんでしょ」 「そうそう……って、卵が先か鶏が先かみたいな話になってきたな」  彼は目尻へ皺を刻み、朗らかな笑い声を立てた。彼の崩れた相好は凄く馬鹿っぽく見える。そこが大好きだった。 「お前の釣った魚を食うのも今日が最後かと思うと、何だか寂しい……釣ってくれなきゃ困るぞ。メインディッシュがないなんてあんまりだからだな」 「また来てくれたら、幾らでも食べさせてあげるよ」 「うん、うん」  約束は果たされるかどうか分からない。彼は先の事なんか何も考えていない。唇は楽しいことを紡ぐためだけにある。薄く開かれたそこがまた「少佐」なんて象ったら、僕はもう、泣き出してしまうかもしれない……嘘だ、そこまで子供じゃないし、弱虫でもない。傷ついたら、心が固く縮こまるだけ――人間、大人になると柔軟さを失うんだっけ。 「ほら、さっさと着替えろよ」  やがて彼は、背後を顎でしゃくり促した。そぞろで、窓の向こうへ広がる世界に高揚していることを隠しもしない。ああそうか、彼がワクワクするのは、少佐がいるからだ。アル・カイダはどうでもいい。優秀な軍人である彼はきっと、英雄たる上官の命令なら、喜んで人を殺し、命を捨てるだろう。それはとっても男らしい行為だ。  すっごく馬鹿らしい。でも彼は真剣だった。きっと、僕と同じように。  そんな必要もないのにそろそろと後ずさり、ベッドへ腕を伸ばした。掴んだカーボンは、ひんやりと確かな固さを掌へ与えてくれる。  外から差し込む陽光で縁取られた彼の後ろ姿は、美術館に飾られた絵並に完璧だった。右側だけ軽く持ち上げられた裸足の踵が、うっすら汚れているところすら。僕にだから見せてくれる無防備な姿。まさか飛行機が突っ込んでくるなんて想像もしなかったツインタワーのように。  リリーサーをDループへ取り付けながら「こっち見ないでね」と気軽に言ったつもりだ。けれどDon'tが舌に乗れば、同時に後ろめたさが心臓を叩く。「はいはい」とおどけた彼の声音を聞いたときは、ひっと息を飲みそうになった。  何にせよ、おどおどしていたのはそこまで。矢をつがえ、弦のピープとサイトを彼の心臓へ合わせると、心は凪いだように静まった。これまで人に弓を向けたことなんて一度もなかったけれど、普段、波間の魚を狙うときとびっくりするくらい同じ感覚だった。  またピッチの跳ね上がった子供達の歓声が、滑車の回る微かな軋みを楽々と掻き消してくれる。けれど僕がもし「あんたのことが好きだよ。死なないで」と訴えれば、十分に彼の耳へと届くだろう。  結局言わなかった。例えどれだけ気乗りせずとも、殺し、命を捨てさせることへは厳粛に挑まねばならないと知ってるから。大人の、男らしい彼へふさわしく。僕も大人にならなきゃいけない、お前は一人前の、俺にふさわしい男だって、彼へ言って欲しかった。  でも本当のことを言えば、一番聞きたかった言葉って、「それは間違ってる」だったのかも知れない。  もしかすると、今ならまだ間に合うのかも知れない。壁掛け時計は9時過ぎ。時間は十分あるんだから、実際のところ。    終

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