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第1話

 安西(あんざい)純一(じゅんいち)が生まれ育ったのは太平洋沿いに面した町だ。  海山(みやま)という地名が表す通り、深い青が一面に広がる海のすぐ後ろには、視界を遮るように山々が立ちはだかる。海から車で三分も走れば、山を貫くようにして流れる川の傍に、キャンプ場もあった。  自然豊かな町は、電車が二時間に一本通る程度の田舎だ。車が必須だが、長期休暇のシーズンには家族連れでほどほどに賑わっている。  純一の家は、海沿いに伸びる県道を挟んで、山側にあった。このあたりの山には、津波避難用の階段が急斜面を這うようにいくつも設置されている。海抜が書かれた標識や、避難経路を示した矢印がいたるところに見受けられるのは、海に近い町ならではの光景だ。  白の軽バンを運転して県道を走行していた純一は、オーディオに表示された時刻を見て焦りを覚えた。  自営業の電気店の仕事が思いのほか長引いたために、時刻は二時半を回っていた。小学二年生の一人息子の海斗(かいと)の授業参観に間に合わなかったどころか、下校時刻に差し掛かっている。  授業参観は五月中旬の一週間のうちに、保護者が都合のつく時間帯に自由に足を運べるようになっていた。連日仕事が立て込んでおり、今日が最後のチャンスだったが、ついに間に合わなかった。授業が終わったら一緒に帰ろうと約束していたから、海斗は待ちぼうけを食らっているに違いない。  三年前に妻を亡くした純一は、一人で海斗を育てている。純一の両親は既に高齢で、頼りにできない。姉が面倒を見てくれているが、既に認知症が出始めていて、デイサービスが頼みの綱だ。妻の実家は県外で、気軽に頼める距離ではない。できるだけさみしい思いをさせないよう、日頃から気を遣っているつもりだが、子育てと仕事の両立は難しい。  言い訳ばかりではいけないと、純一はハンドルを握り締め、前を見据える。  太陽の光を反射して、きらきらと輝く海が視界の端をちらつくが、景色の流れはそれほど速くない。前の軽トラが一向に速度を上げる気配がないからだ。  普段ならのんびりと後ろをついていくが、今日ばかりはそうも言っていられない。焦れた純一は、父から受け継いだ安西電気店に軽バンを停めて、徒歩で小学校に向かうことにした。  津波避難所にも指定されている小学校は海抜六十三メートルと、この町では比較的高い場所にある。三十代半ばに差し掛かり、体力の衰えを自覚し始めている純一は、電気店の傍に設置された海抜十三メートルの標識を見て思わず顔を顰める。しかし、すぐに表情を引き締めて、駆け出した。  車が通れないほどの細い路地と、石段はなかなかの急登だ。息を切らしながら、子どもの頃から知り尽くした道を駆け抜けると、そのうちに古びた校舎の屋根が見え始める。  既に夏の始まりを感じさせるかのように、容赦なく照りつける太陽のせいで、石段を登り切る頃には、作業着の中を汗ですっかり湿らせていた。立ち止まらずに傾斜のある道を一気に駆け抜け、学校の前の大きな道に出る。  校舎に近付くと、昇降口の前に座り込む人影があった。一人ではなく、二人だ。隣に並ぶように腰を下ろしていて、近くにはランドセルが二つ置かれている。  そのうちの一人が見覚えのある服装をしていたので、純一は「海斗」と息子の名前を呼ぶ。激しい息切れのせいで頼りない声に、小柄な体つきの子どもが純一を振り返った。  海斗は吊り上がり気味の目が、子猫のようで印象的な子どもだ。母親似なのか、クラスの中でも一番背が小さいのだという。中性的な顔立ちも相まって、初対面の人が性別を見抜けずに困っている姿がよく見受けられる。半袖と七分丈のズボンからのぞく手足は、ほどよく日に焼けていた。 「もう来たん?」  てっきり泣いているか、怒っているだろうと思っていた海斗の口から、つれない言葉が飛び出す。純一は「ええぇ……」と大げさに声をあげ、がくっと膝を折って転ぶ真似をした。その場で膝に両手をついて、息を整えながら海斗の様子を窺った。怒っている気配はない。  何と謝ろうとか思案し始めたとき、海斗の隣に座っていた男の子が立ち上がった。海斗よりも体格が大きく、上級生に見えるが、同じクラスの夏彦(なつひこ)だ。父親の文男(ふみお)は、純一と海山で生まれ育った同級生なので、よく知っている。 「よかったやん、お父さん来て」 「うん……」  活発な夏彦は、海斗よりも日に焼けている。にっと歯を見せて笑うと、日焼けした肌の中でやけに白さが際立った。太陽のように眩しい笑顔を向けられた海斗は、夏彦と視線を合わさずに、地面ばかりを見つめている。  おや、と純一は動きを止めた。海斗は人見知りをする子だが、幼稚園の頃から一緒の夏彦に対してこの態度というのは違和感がある。  訝しむ純一をよそに、夏彦は「おじちゃん、こんにちは!」と元気よく挨拶をしてくる。誰に対しても物怖じしない姿は、父親の文男の姿とよく重なった。  二十代後半で結婚をした純一と違い、文男は地元の高校を卒業した後、漁師となった。幼馴染みと結婚したのも、二十歳になる前のことだ。長男を授かるのも早かったので、夏彦は三兄弟の末っ子だ。 「こんにちは。夏彦くんのお父さんは来とらんの?」 「俺んちは昨日」 「そうなんや……じゃあ、海斗と一緒に待っとってくれたんか。ありがとな。海斗も遅なってごめん」  夏彦は、笑みを深めて「ええで!」と笑う。海斗は相変わらず明後日の方向に視線をやったままだ。 「もう二年生やし、授業参観なんか来んでええ」  海斗の口からぼそっと放たれた言葉が本心なのか、強がりなのか、純一には判断がつかなかった。  授業参観の後、頑張ったご褒美と称して、町内唯一のファミレスに連れて行ってやるつもりだったが、これではご機嫌取りのように受け取られてしまいそうな雰囲気だ。 「ほんとごめん! あ~……、父ちゃんも海斗が学校でどんなんか見たかったわ」  大袈裟に声をあげると、どうにも冗談っぽく聞こえてしまう。いけないことだと理解しながらも、むすっとしたままの海斗の表情を明るくさせるには、空気を変えないとどうにもならない気がしてしまうのだ。  妻が交通事故で亡くなってからの三年間、長引く裁判で疲弊した心を知られまいとするうちに、純一には嫌な癖がついてしまっていた。 「海斗、すごかったで。音読で読むの詰まらんのは海斗と美咲ちゃんだけやし、俺が算数であてられると、いっつも答え教えてくれるもん」 「ナツくん、言わんでええよ」  純一には、夏彦の言葉がありがたかったが、海斗は怒ったように声をあげる。海斗の照れ隠しを、夏彦は嫌な風には受け取らず「ええーっ、だって海斗ほんとにすごいやん」と天真爛漫に笑いかけた。  あまりの毒気のなさに、海斗は言葉を詰まらせて視線を泳がせる。海斗の頬がわずかに色付いているのを、純一は見逃さなかった。 「おじちゃん、俺が帰り道で海斗のこと教えたろ!」 「ほんま!? たすかるわ~!」 「父ちゃん! もうええってば……」  海斗が悲鳴のような声を出す。夏彦が「行こ!」と声をあげ、元気に駆け出すと、海斗は「ランドセル忘れとるで!」と二人分のランドセルを持って走り出した。  純一が走ってきた細い道に入り込み、二人で楽しげに声をあげながら階段を駆け下りていく。高台からは、密集する家屋の先に、海が広がっているのが見える。  ランドセルを背負った夏彦は、純一が追いついてくるなり「それでな、海斗がな」と授業以外のことについてもたくさん話をしてくれた。海斗は会話に加わろうとしなかったが、次第に話の内容は逸れ始めた。  純一の前を歩く二人は、待っている間にしていたらしい話の続きに移った。ほとんど夏彦が話すばかりで、海斗は相槌を打つだけだが、不思議と馬が合うらしい。  海斗にとって夏彦の言葉は、砂浜で見つけたシーグラスのような特別さがあるようだ。海斗は一つ一つの話を、大切にポケットの中にしまい込む宝物のように受け取り、表情を綻ばせていた。子どもが、こんな慈愛に満ちた表情をするものなのかと、純一は驚かされる。  そして、やはり親子は似るものだなと苦笑した。自分も昔、夏彦の父親の文男にこんな表情を向けていたことがあったのかもしれない。  もう二十年以上も前の話だが、純一は文男に淡い思いを抱いていたことがあった。  恋なんて言葉も知らない頃のことだ。誰よりも町の入り組んだ細い路地に詳しくて、誰よりも海の一番遠い場所まで泳いでいける文男の姿に憧れ、いつも後をついて回った。  小学校高学年の時、文男が女子の誰々がかわいいと口にするようになったのを見て、なんとなくがっかりしたのを覚えている。純一も誰がかわいいかと聞かれれば、適当な女子の名前を挙げたけれど、そんなことよりも近くの山を二人で探検したい気持ちの方が強かった。  その感情につけるべき名前に気が付いたのは、大人になって妻との結婚を意識し始めた頃だ。もうその頃には文男は結婚をしていたし、随分時間も経っていたから、燻っていた思いが再び勢いを取り戻すことはなかった。ただ漠然と、あれは恋だったなという認識をした。  当時のこの町には、同性同士で恋をするという考え方は存在していなかった。嫌悪するとかそういう段階ではなく、そもそもとして存在しなかったのだ。それが文男への思いに気が付くのに、時間を要した原因だと思うこともあれば、責任転嫁だと感じる自分もいる。  純一が物思いに耽っていると、無邪気に話をしながら坂道を下っていた夏彦が、海斗の方を見てぴたりと足を止める。つられて足を止めた海斗に向かって、夏彦が「かわいい」と声を漏らす。  純一がぎょっとしたのも束の間、夏彦がすぐさま「ねこおるで」と小声で海斗に囁いた。  かわいいねこ(が)おるで。  夏彦が言わんとしたことを頭の中で組み立てた純一は、二人の後ろから路地を覗き込む。海斗の立っている場所から少し離れた先に、三毛猫がいた。固い地面の上でぐーっと体を伸ばし、ごろごろと転げ回っている。 「あ、ねこ……」  呆然と呟く海斗の頬が、遅れて珊瑚のように赤く色付いた。  さすがに今のは、勘違いをしたくもなるだろう。純一は後ろから、海斗の両肩に手を置いて、真っ赤になった顔が夏彦から見えないようにしてやった。 「おっ、かわいいなぁ」 「うん……、かわいい」  純一の言葉に、海斗は不服そうに同意する。夏彦は無邪気に「ちょっと見てこ! な?」とはしゃいでいる。  海斗は普段、かわいいと言われて、喜ぶ素振りを見せたりはしない。それでも夏彦の口から、かわいいという言葉が褒め言葉として飛び出すのなら、それを向けられるのもやぶさかではないのだろうなと、純一にはわかってしまった。  純一も、文男にかわいいと言われたいわけではなかったが、その言葉を向けられる女子達に複雑な心境を抱いたことがあったからだ。 「海斗、行こ!」  そろそろと忍び足で路地の中に入って行く夏彦に呼ばれると、海斗の機嫌はたちまち元通りになった。「うん」と頷く声には確かな喜びが滲んでいて、あっさりと純一の手を擦り抜けて行ってしまう。  純一は腰の高さほどの石垣に腰掛け、子ども達が飽きて戻ってくるのを待つことにした。  幸いにも、という言い方はおかしいかもしれないが、純一は相手の性別がどちらでも恋をすることができた。この田舎町に生まれた純一にとって、本当にそれは幸いとしか言いようのないことだった。  今は少しだけ、時代が違う。そういう恋があるということを知っている人も多く、この町でもきっと、もうすぐ存在するものになる。少なくとも、純一の目の前では存在していた。  恐らく初めてであろう、海斗の恋がいつまで続くのかはわからない。案外、明日には夏彦がクラスの女子をかわいいと言い出して、終わるようなことがあるのかもしれない。明日には海斗が、夏彦に恋をすることの息苦しさに気が付いてしまうかもしれない。  それでも、親のエゴだとわかっていても、海斗がつらい思いをすることになったとしても、二人で過ごす時間を少しでも引き延ばしてやりたかった。  純一は妻と結婚したことを後悔していない。初恋でもなかったし、今までの恋で一番つらい別れを迎えたけれど、彼女との思い出が一番大切だった。  相手が誰でも、何番目の恋でもいいから、海斗にも同じくらいの熱量で、誰かを好きになる経験をしてほしかった。

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