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第2話

 血は争えない、と、そう思う。  俺の父は絵に描いたようなアル中で、酔えば暴力を振るい、耐えかねた母はまだ幼い妹を連れて家を出た。  当時中学生だった俺は父親のサンドバッグにされて、しょっちゅう児童相談所の世話になっていた。  高校にはなんとか進学したけど、すぐに不良グループに入ってさぼり倒し、結局中退扱いになった。  家には帰らなかった。不良たちの家を転々としている内にリーダー各の男に気に入られ、そいつのオンナになった。  周囲は年齢を気にすることなく酒やタバコ、はては違法薬物にも手を出していたが、俺はアルコールだけは口にしなかった。  飲め飲めと勧められる度に、父親の血走った目と嵐のような暴力を思い出してダメだった。  その俺が初めて酒を飲んだのは、父の墓の前だ。  いつのまにかポックリ逝ってたみたいで、別れた母が葬儀を取り仕切り、俺の知らない間に合祀という形で埋葬されていた。  俺は墓前でおざなりに手を合わせ、誰が置いてったとも知れないお供えのワンカップを飲んだ。  初めてのその味は、美味くはなかった。  ただ、胃を焼いた熱が脳にまで広がり、気分が良かった。  その日は同棲している男に抱かれたあと、ものすごく久しぶりに熟睡した。夢も見なかった。アルコールのすばらしさを知った日だった。  それからはなにかある度に酒を飲んだ。  彼氏に浮気されたとき。殴られたとき。金を盗られたとき。別れ話をして俺にはおまえしか居ないと縋りつかれたとき。  酒を飲むとモヤモヤが晴れ、気持ち良くなり、気が大きくなって、理性が溶ける。  アルコールが抜けると途端に現実が襲いかかってくる。見たくないものが見える。  あいつがまた浮気した。俺の財布から金をスった。愛してると言ったその口で罵詈雑言を並べて殴ってくる。  そんな現実から逃げるために酒量が増える。素面でいる時間が短くなってゆく。  断酒会を主催するNPO団体を紹介してきたのは、病院の医師だった。入院を余儀なくされるほどの怪我を負ったときのことである。  原因が同棲していた男からの暴行だったので、警察沙汰になった。  入院中は病室に、医師や看護師、警察官、ソーシャルワーカー、色んな肩書の人間がやってきた。  その中のひとりに、椎名春幸は居た。  椎名は殴られて赤黒く腫れた俺の顔を見ても、きれいな笑顔を引きつらせることもせず、陽だまりのような声で挨拶をして、世間話をした。  俺は相槌すらうたず、ずっとそっぽを向いていた。  椎名が話す。俺は黙る。椎名が笑う。俺は無表情のまま目を閉じる。  会話にもならない時間が楽しいはずないだろうに、椎名は毎日のように病室に顔を出した。  アルコール依存症の患者を放っておいて事件でも起こされた困るからだろう。大変な仕事だな、と思いはしたが俺は椎名を無視しつづけた。  無視できないのは酒を飲みたいという欲求だ。  病院に居る以上酒を入手するのは難しく、怪我の痛みも引ききらないうちに俺は無理やりに退院をさせてもらい、その足で酒を買った。  ワンカップを呷りながら、自宅へ戻る。  玄関を開けた瞬間に胸倉を掴まれて引き倒された。  俺に怪我を負わせたことを警察でかなり絞られた男が、口汚く俺を罵りながら蹴飛ばしてくる。  体を丸め、暴力がやむのをじっと待つ。  そのうちに気が済んで、男は外へ出て行った。俺は痛みのピークが収まるまでじっとして、それからのろのろと起き上がった。  酒を買いに行こう、と思った。  酒が足りないから痛みを感じるのだ。アルコールを流し込んで、苦痛だらけの世界とはべつの場所へ行かなければ。  ふらつきながらドアに手を掛け、開く。  するとそこには椎名が立っていて、彼は俺を見て目を丸くした。  どうしたんですか、と問われて、べつに、と答える。  答えてから、初めて椎名に返事をしたことに思い至った。  幸男さん、と椎名が俺を呼んだ。  幸男さん。  こんなイケメンの口から出てくると、クソみたいな自分の名前がいくらかマシに聞こえるから不思議だ。 「幸男さん、お酒はもうやめましょう」  椎名がバカみたいなことを言う。 「飲む代わりに、話をしようよ。幸男さん、俺はあなたの話が聞きたい。あなたのことを、話してほしい」 「……バカじゃねぇの」  吐き捨てて、俺は椎名を押しのけた。いまは話なんてしたくない。とにかく酒が飲みたい。それに話したところで……こんなにも真っ当できれいな男に理解してもらえるとも思えなかった。  するり、と手首を掴まれた。俺よりも体温の高いその温度に、ドキリとした。 「なんでもいいよ。バカとか、アホとか、そういう言葉でもいいよ。あなたの感じてることを教えてよ。ちゃんと聞くから」  ちゃんと聞くから。  そのセリフがなぜか鼓膜に残った。  眉を顰めて椎名を睨みつけると、きれいな二重の目がじっと俺を見つめていた。 「……おまえ、名前なんだっけ?」  病室で貰った名刺はそのままゴミ箱に突っ込んだから、そのときはよく覚えてなくて尋ねたら、椎名がくしゃりと笑って。 「シーナだよ」  しいな、ではなく、「い」の音を伸ばすような発音でそう答えたから。  それからは俺も彼のことを「シーナ」と呼ぶようになった。

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