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ワークエンド・ウィークエンド
プリンターが止まった。
印刷が終わったわけじゃない。本来排出されるべき紙は出てくることはなく、電源ボタンが虚しく点滅しているだけだ。何度印刷ボタンを押しても、なんの反応もない。
繋がっているコードを抜いたり挿したりしても駄目だ。くそが、と一回毒づいて、仕方なく上司直通の内線で印刷機が動かないので作業ががっつり遅れます、との見解を伝えたところ、今すぐ修理を寄こすから今日中に資料頼むと懇願された。
明日の朝一の会議に必要な書類だ、ということは承知している。ギリギリまで結果が纏まらずに残業を申請しまくったのは自分だし、今日ももう定時を過ぎている。やっと全てが終わって印刷して帰ろう、と安堵の息をついたとたんにこのザマだ。
データごと別部署のプリンターに送って印刷したいがもう大半の部署が閉まっている。開発部の資料は社外への持ち出し厳禁が鉄則で、家で全てを終わらせるということもできなかった。
まだ動いてる部署を探して頼み込んでプリンター貸してもらって印刷して並べてクリップで留めて、一体何時に帰れるのだろう。そもそもなんで紙に印刷しなきゃいけないんだ。
PC上のデータをそのまま使ってくれたらいいのに。紙もインクも電気代も圧倒的に勿体無いし何よりおれの時間が勿体無い。
今日こそ帰って洗濯がしたかった。これ以上遅くなると流石に近所迷惑になる。あといい加減コンビニ以外のメシが食いたい。常備菜を作り置く時間もないし余裕もない。積んである本は埃を被りそうだし、発売日に買った筈のFPSもパッケージから出してない。
焦ってもどうしようもないし、頑張ったところでプリンターは息を吹き返さない。だからあれほど挙動が不審だから買い替えてくれと申請していたのに、故障する度に無理やり直されて誤魔化されてきた。
どいせ修理といっても、きちんとした業者が来るわけじゃないだろう。
どうにでもなれ気分で白衣のまま珈琲をすすっていたら、今月三回目の最早見知った顔が颯爽と登場した。
今日も爽やかでムカつく男だ。
「あー、どうも遅れました。てか藤代サンまだ残ってたの? もう九時過ぎじゃん」
愛嬌のある顔でへらりと笑われ、手を軽くあげられるがその挨拶にお返しをするつもりは毛頭ない。
「同じ言葉丸々お返ししますよ高屋さん。明日の会議には出席しないんですか。チーフ様に抜擢されたと伺っておりますけど」
「出ますよ朝七時開始の鬼畜会議ね、出ます出ますもう今日帰れないんじゃねーのって感じっすけどねぇ。いやぁね、新人君がまさかの接待でポカやらかしてもーもーシャッチョさんはどらり散らすわ契約条件改変要求されるわ散々でーねー、ちょっと珈琲タイムしてたとこっすわ。ナイスタイミング、ポンコツプリンター。ちょっと待っててくださいねー」
訊いてもいないのにぺらぺらと残業理由を述べるこの男が、おれは苦手だ。
それは入社初日の研修で挨拶された時の印象から変わってない。爽やかで、頼りになって、誰から見ても格好いい男。
営業の高屋と言えば、社内で知らない人間はいないだろう。現に研究室にこもりきりの開発部の中でも、時たま名前が挙がる。
今日は何処へ出張だとか。この前何処の珈琲屋でみたとか。
そんなどうでもいい情報が耳に入る度にうんざりする。いいから口じゃなくて手と頭動かせと毒づきたくなるのを必死にこらえるのが常だ。流石に、これ以上自分の印象を悪くするのは控えようという理性は働くので、余計なことは口に出さないけれど。
いらない事を言いまくって先輩連中にシメられそうになったところを、やんわりと助けてくれたのは件の高屋さんだったが、『頭良いんだからもっとやわらかーく立ち回りなよ』などと知ったような口をきかれて苛立ったので、一定以上の感謝はしていなかった。
会社って奴は面倒だ。
ただ結果を残すだけでは評価されない。
評価されなければ、やりたい仕事ができない。
成果だけを出すことは簡単だ。時には運も必要となるが、努力は嫌いじゃない。けれど評価というものには何故か『協調性』だとか『人間性』だとかいうくそみたいなものも影響する。少なくとも、おれが入社してしまったこの会社は、そういう古き悪しき『人間性を尊重する』場所だった。
一度それを理解してからはなるべく無駄口を叩かずに、ひたすら仕事をこなすことで自衛をしてきたが。元来性格は良くない、という自覚がある。
すっかり本性がばれているこの男には、特に口頭での遠慮ができなかった。
「ていうか適当に直してるんじゃないでしょうね……このところやたらと動かなくなるんですけど、そのプリンター。高屋さん別にPC機器の専門業者とかじゃないでしょ? いっそぶっこわして新品を購入したいんですけど、稟議書ってどこで止まってるんですか」
「いやーこれ壊れても開発に回ってくるのは多分事務の使ってない方の旧式プリンターじゃないかなー……なんか、最近プリンターで印刷する用事減ったとか言ってて、庶務がじゃあそのプリンターどっかに回そうみたいなこと言ってたし。あれ、カラー印刷できねーよ?」
「まじかよ……初期投資ナシでどうやって成果だせっつーんだアホか」
「藤代さんの仰る通りだねぇ。こういう些細なモノでも躓くとさ、イロイロ回んなくなったりするしさ。でも俺個人的にはちょくちょくぶっこわれてくれるとマジ嬉しいけど」
「なんで」
「藤代さんに会えるから」
「…………あー、そうか、忘れてた、そうでしたね、失言でした、三分前からの会話全部無かった事にして何も言わずにさっさと作業終わらせて帰ってくださいお願いします」
「またまたーそうやってすぐに引きこもっちゃうんだから。時間は取り戻せないから愛おしいもんなんですよー」
にっこりと笑う男は、こんな狭い部屋で相手がおれじゃなければ、もっとちやほやされるだろうに。女子社員がすれ違っただけできゃーきゃー煩い笑顔は、何故かおれに向けられている。
「手帳かなんかに書いといてほしいくらいですよホント。毎回毎回、あ、そういやコイツおれの事好きとか言ってたなやっべ、みたいな顔すんだから藤代サン」
「……全くもってそのままなんですけど。つーかおれは貴方の事が非常に苦手ですって言ってますよね?」
「存じてますとも。でもねー、藤代さんの俺に対するイメージとか感情とかってさ、結構最初の印象がでかいでしょ? できる営業の若手なんか、一番苦手なタイプだっていう思いこみが半分、だと思うんだよなー。一回デートしてみたらころっと好きかもって思うかも」
「ゲイだって言いふらされてもいいんですか」
「言わないでしょ。そんなことしたら藤代さんの方も変な目で見られるし。つか別に肉体関係迫って脅してるわけでもないし、清く正しく口説いてるだけじゃないっすか。大目にみてくださいよアラサーの純愛くらい」
純愛とか言うわりに二人きりにならないとまるで他人だし、そういう意味でこのアラサー男は狡猾だと思う。いや常日頃から迫られても困るし別にそれでいいんだけど。
喋りながらもカチャカチャとプリンターを分解していた高屋さんは、一度落とした電源を入れ直し、よしっ、と声をかけて立ちあがった。
背が高いのも、いらつく要因の一つだ。見下ろされると尚腹が立つ。
学生時代の一番ムカつく先輩が非常にでかい男で、関係ないとわかっていても思い出して苛ついた。これは流石に言いがかりだということはわかるが、ムカつくもんはムカつくので仕方がない。
だからできるだけこの人とは関わりたくない。
ムカつくし、嫌いだ。それなのにおれのことが好きだとかアホな事ばかり言う。
事あるごとに映画だなんだと誘ってくる。それに応じたことは一度もないし、これからも応じる確率はゼロに等しい。
けれど高屋さんは物事に百パーセント確実な事って絶対ないよ、なんて笑いやがるからやっぱり苦手だし嫌いだしできるだけ離れてほしかった。
近寄んなくそがって思っている時に限って、でかい男はにこやかに腕まくりをなおしながらこちらに歩いてくる。
壁に寄り掛かったまま冷めた珈琲を飲んでいたおれは、とっさに逃げようとして隣のラックに足をぶつけてしまった。……痛い。くそ。
「まあとりあえずは動くようになった、筈。また挙動が怪しかったら声かけて。くれぐれも殴ったりしないように」
「……そこまでアナログな人間じゃないですよ。電源入れ直したりはしますけどね。アリガトウゴザイマスこれで仕事が再開できますだからそこちょっとどいてください非常に邪魔です」
「藤代さんこれ印刷終わったら帰る?」
「印刷して並べて纏めてクリップで留めるまでがおれのお仕事ですよ。早くても一時間はかかりますね」
「じゃあそれ終わったらメシ行きませんか」
「……泊まり込み残業だって言ってたじゃないですかチーフ様。おれなんかとだらだら夕飯食ってる時間ないですよねチーフ様」
「直したお礼っていうのはどう?」
「おれは新しいの買ってくれって思ってますので直してくださらなくても結構です、貴方を呼んだのはうちの上司です」
「あー、じゃあ、わかった、新しいプリンターの稟議書、おれが上に通して新品の備品が開発に届いたら、俺とデートしてくれる?」
「……………」
営業のチーフがどうやってうちの稟議書通すんだ何言ってんだこいつ、と思いつつも、確かにこの太古の遺産のようなプリンターが新しくなるのはありがたい。
ありがたいが、別段プリンターを酷使する仕事でもないし、そもそもおれはプリンターが無いと死ぬというわけでもないし、備品の管理を任されているわけではない。
……まあ、無理だろうし、そのくらいの言葉遊びには乗っかってもいいだろう。
軽い気持ちでいいですよと頷けば、目前の男前は何度か瞬きを繰り返した後に、少し腰を屈めて覗きこんできた。
その体勢むかつくからやめろと言いたい。まるでおれが身長低いみたいに思える。絶対にそんなことはない。
「なんですか。終わったなら自分の仕事に戻ってくださいよ」
「いや、うん、そうですねその通りなんだけど、藤代さんなんか悪いもんでも食ったかな、とか思いまして。……俺本気で全力で稟議書通すよ? デートの為にどんな手を使っても開発室に新品プリンター送り込むよ?」
「そうなったら約束は守りますけど、おれなんかに構ってないでさっさと嫁みつくろった方がいいんじゃないですかね」
「……本気だって言ってんのに。なんで信じてくれないかなー……」
信じられるかそんなもの、と声には出さずに吐き捨てて、いいからどけと厚い胸に手をついた。
煙草の匂いも珈琲の匂いも溜息をつく表情も、いちいち目に焼き付いて腹が立つ。あんたのすべてが腹立たしい。こんなやつに一瞬でも恋なんて馬鹿馬鹿しい感情を抱いた過去の自分をとにかく思い出したくないから、一生目の前に立たないでほしいのだ。
初恋は実らないって言うだろ? それならこれは実る筈もない感情だ。
そんなものに時間を割くのはもったいないし、誰かに感情を持っていかれるなんて気持ち悪くて怖すぎて、今日も家に帰ったらあんたの事を忘れようと心に誓う。
うっかり吸いこんだ煙草の匂いが甘くて、危うく最初に会った時のトキメキじみた感情を思い出してしまいそうで、早くどけアホがと、今度は声に出して罵った。
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