1 / 1

お兄さんの宝箱

 無人駅の多い田舎町に、新しくできた住宅街。僕は、以前まで住んでいた愛着あるボロアパートを出て、父母と共に、その住宅街に引っ越してきた。これから始まる新しい生活に胸を踊らせ、はしゃいで見せることが、本来僕が担うべき子どもの役割だっただろう。しかし、当時の僕は、あろうことか、新しい家など嫌いだとふてくされていた。  生まれたときから、なんに対しても執着が強いタイプだった。記憶にはないのだが、母の話によれば、この世に生を受けてからおよそ数ヶ月、まだハイハイを始めたばかりだった頃、僕は、愛用していたタオルを、近所の犬ころに盗られてしまったことがあるそうだ。そのとき、僕は赤子らしく泣き喚くどころか、無言で犬ころを執拗に追い回し、挙句壁際に追い詰めて人間不信にさせたらしい。そんな訳だから、引っ越しのときにも、僕は、どうしても今のボロアパートがいいのだと、できる限り熱烈に両親に訴えた。けれども、当然ながら切なる願いは届かず、僕は大好きだったあの場所を離れることになった。 「あら、お隣の? はじめまして、よろしくお願いします」  まだ開けられていないダンボールの山に埋もれるようにして膝を抱いていたら、玄関からよそ行きの母の声がした。嫌な予感がする。最悪の事態を回避するべく、愛用の毛布と大好きなおもちゃを握りしめ、床にあったダンボールを積み上げ、更に高い城壁を築こうとして失敗する。 「こら、大きな音立ててなにしてるの。ふてくされてないでご挨拶にいらっしゃい!」  最悪の事態になってしまった。城壁に身を潜めてやり過ごそうとしているのに、母は何度も何度も僕を呼ぶ。そんなに大声で叫んで、隣にいる客の耳が潰れやしないか。あまりにもうるさかったものだから、僕は仕方なく、ダンボールの城から飛び出した。  玄関の扉は開いていた。人見知りでもあった僕は、来客の顔をちらりとも見ずに母の足に飛びついた。 「あっ、こら。挨拶しなさい。……すみません、人見知りな子で」 「いえ、構いませんよ」  来客は穏やかな声でそう言うと、僕の前にかがんで目線を合わせ、にこりと笑った。 「こんにちは、ボク。お名前はなんていうのかな」  天の国から、天使か女神が間違って地上に落ちてきたのだと思った。  今までのボロアパートだとか、毛布だとか、そんなものはその一瞬でどうでもよくなった。  一目惚れだ。僕の初恋は、齢五歳で奪われた。 「お兄さん、遊んで」 「あれ、ボク、また来たのかい」  お兄さんは、いつも人の良さそうな笑顔で、僕を家に入れてくれた。淑やかで、優しくて、笑うとえくぼの浮かぶのがかわいかった。読書好きで見るからに大人しそうなのに、意外にも、僕が持っていったダンゴムシやカブトムシに、珍しいものを見るような目をして、これでもかというほど喜んでくれた。虫が好きなのかと思って、次の日、蝶やバッタやいもむしを虫かごいっぱいに詰めて持っていくと、さすがに放してやれと笑われた。 「ボク、晴れてるんだから外で遊びなよ」 「お兄さんは外で遊びたい?」 「俺は……、大人だから外で遊んだりしないよ」 「じゃあ、僕も遊ばない」  この頃の僕に、同世代の友だちなどいなかった。僕の世界にいたのは、お兄さんだけ。けれど、お兄さんさえいれば、同世代の友だちなど、いなくても構わなかった。  僕はお兄さんと遊ぶのが好きだった。お兄さんが好きだった。 「……あはは、執着しちゃうの分かるなぁ。俺もガラクタを宝箱に詰めてずっと持ってるから。そういうのに限って捨てらんないよね」 「宝箱?」 「そう。そこにあるだろう」  お兄さんが指差した先には、小さなブリキの宝箱があった。駄菓子屋で売っているような、おもちゃの宝箱だ。手に取ると、お兄さんが慌てて僕の手を掴んだ。 「……こら、ボクには見せないよ。大したものじゃないし」 「見たい。何が入ってるの?」 「ガラクタだって言ってるだろう。……ほら、恥ずかしいから返してくれよ」 「でも、宝物なんでしょ?」 「自分にとっては宝物なのに、それを見て、人ががっかりしたら、ボクだって悲しいだろう?」 「僕、お兄さんの宝物にそんなことしないよ」  お兄さんは僕の手から取り上げた宝箱をすぐに棚に戻した。僕はお兄さんの宝箱の中に、僕の知らないお兄さんがいる気がして、それから何度もお兄さんに宝箱を開けるようねだった。けれど、お兄さんは、絶対に僕にその宝箱を見せてくれることはなかった。そのうち、僕も宝箱に執着するのはやめた。宝箱を見せてとねだるたび、お兄さんが本当に困っているのが分かったからだ。お兄さんは、やっと諦めたかと苦笑を溢した。  宝箱に執着するのはやめたが、お兄さんについてまわることはやめなかった。子どもの特権を乱用し、持ち前の執着心でお兄さんを執拗に追いかけまわした。家の中はもちろん、お兄さんがちょっとコンビニに行くときも、遠出してスーパーに行くときも、いつでも彼を付け回した。だから、お兄さんの両親は不気味なものを見る目で僕を見ていたし、僕の両親も、何度も僕をお兄さんから引き剥がして僕の部屋に投げ入れた。けれど、お兄さんは、困った顔をしつつも、いつも笑って許してくれた。優しい人だったのだ。  僕はそのままの気味悪さでランドセルを背負うようになり、卒業式では皆が家族へ感謝を述べる中、声高にお兄さんへの愛を叫んだ。お兄さんが似合ってるねと褒めてくれた紺色の学ランはあっという間に小さくなり、気がつけば高校生になっていた。 「ボクも大きくなったね」  お兄さんはそう言って僕を見た。親戚のおじさんたちに言われるのとは違う喜びが、僕の胸を満たす。それと同時に、お兄さんが僕を「ボク」と呼ぶのが、少しだけ嫌になった。 「…………お兄さんは変わらずかわいいね」 「ボクはそればかりだね……」  えくぼを頬に浮かばせて、お兄さんはそう困ったように笑う。半分呆れたような声音だ。 「ありがとう。三十路のおじさんをかわいいとか言ってくれて」  机に頬杖をついて、お兄さんは僕をあしらう。お世辞の上手なボクだねぇ、なんて言って。お兄さんは、僕がずっとどんな気持ちでいるかなんて知らないのだ。  そう思うと、僕はなんだか怒りにも似た感情が、腹から湧き上がってきたのを感じた。悲しいような苦しいような、説明しようのない不思議な気持ちだった。  僕はこんなに本気なのに。お兄さんしか見ていないのに。本当に分からないの、お兄さん、僕は__。 「…………お兄さん、僕……っ!」 「ダメだなぁ、ボクは」  僕が身を乗り出したとき、お兄さんは僕の口に人差し指を当てて微笑んだ。驚いて、僕はお兄さんをじっと凝視した。  お兄さんは眉を潜めて、まるで犬でも宥めているかのように僕に言った。 「……まだ子どもでいてくれよ」  僕はその夜、うまく眠れなかった。  あっという間に月日は経って、僕は初めてお酒を飲んだ。もちろん、父でも母でも友達でもなく、お兄さんの祝い酒を。お兄さんは僕の身体をまじまじ見つめて、大きくなったねと笑った。初めて見るお酒を飲んだお兄さんの赤い目元と頬が、艶っぽくて目を奪われた。僕はお兄さんの手を握り、そっと引いた。思っていたよりあっけなく、お兄さんは僕の腕の中におさまった。その夜、お兄さんは、僕のことを「ボク」とは呼ばなかった。 「…………全く参ったよ」 「痛かった?」 「そうじゃない。執着心にだよ」  お兄さんの頬にえくぼが浮かぶ。見つめ合うのに照れくさくなったのか、お兄さんは片手を伸ばして、ベッドサイドから何かを取った。それをお兄さんが片手で遊ばせると、カラカラと軽い音がなった。 「それ、お兄さんの宝箱」 「……はは、やっぱり覚えてるか」 「うん」 「……見るかい?」  お兄さんは左手に宝箱を持って、それを振ってみせた。 「え、でもそれって」 「ずっと見たがってただろう。しつこかったから流石に俺も覚えてるんだ。……でも、本当にくだらないものだよ」  お兄さんは小さな箱を、初めて僕に開けて見せてくれた。僕は子供のように、それに飛びついた。 「……石だ。……あと貝殻。……これは?」 「フロントガラスの破片。通学路で拾ったんだよ。……だから言っただろう、くだらないって」 「……これが、お兄さんの宝箱」  お兄さんは少し恥ずかしそうに身をよじらせた。僕はお兄さんの宝箱を見つめていると、気分が高揚していくのを感じた。塗装の禿げた古いブリキの箱を握りしめる。 「いいなぁ、僕もここに入りたい」  僕の言葉に、お兄さんは一瞬ぽかんとして、それからケタケタ笑った。 「……全く、ダメだなぁ、もう」  こんなに笑っているお兄さんを、僕は初めて見た。真剣なのにと眉をひそめる僕の横で、お兄さんは、しばらくずっと肩を震わせていた。 「……はあ、幸せだ。俺はもうすぐ死ぬんだな」  お兄さんは僕の身体を抱きしめて、小さな声でつぶやいた。僕はお兄さんの頭を撫でて、唇にキスをした。  それからお兄さんは、本当に、あっという間に天に帰ってしまった。元から、外に出歩くのも難しいような、身体の弱い人だったのだ。天の国の人だから、天に帰ったのだと僕は自分に言い聞かせた。それでも、分かっていても、離れ離れは悲しかった。  黒いスーツを着て、その他大勢の中に並んだ。けれど、僕は歩くことさえできず、列の真ん中で立ち尽くすだけだった。大きな喪失感が、僕の身体を式場の外へ連れ出した。空の色も分からなかった。  気を利かせてくれたお兄さんの両親は、式の後、僕とお兄さんに、二人だけの最後の時間をくれた。立っていることさえやっとの状態で、僕は簡素な白い箱をのぞき込んだ。 「おにい、さん……」  お兄さんの抜け殻が入った、花いっぱいの箱が、その時、僕にはキラキラ輝いて見えた。驚いて、思わずそっと手を伸ばす。僕は、宝箱を開けて、その中で眠りについた。お兄さんと僕の二人だけの世界は、骨が溶けるほどに温かかった。

ともだちにシェアしよう!