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第1話

拝啓、獄中の童貞へ 高校の時、同じクラスだったAが逮捕された。 人を殺したのだ。 クリスマスが近くなってきた頃に日本中を駆け巡った連続殺人のニュースは、浮かれた街の空気を一気に氷点下に叩き落した。 警察の必死の捜索の結果、Aは人気のない廃墟に身を隠していたところを逮捕された。 ニュースによると事件の動機を黙秘し続けているらしい。 その殺し方というのが非常に残酷で、想像しただけで胃液が上がってくるようなものばかりだった。ここら辺の小中学校は集団下校を余儀なくされ、見回りのパトロールも倍増し、 まるで映画の中に放り込まれたかのような緊張感に包まれていた。 テレビをつけても携帯を眺めていても飛び込んでくる事件のニュースに正直うんざりしていた。でも、俺はそのニュースから目をそらすことができなかった。 何故なら、Aが殺したのは皆、高校生の頃に同じクラスだった連中だったから。 昨日見たあまりの情報量に脳がパンクして、嫌に興奮して眠れなかった。 それでも仕事には行かなければいけない。身支度をして玄関のドアを開けた瞬間、まばゆい光が俺を襲う。 一瞬失明したかと思うほどのまぶしさだった。 「Aと高校時代、同じクラスだったツカサトウイチさんですね?」耳に飛び込んできた金切り声と、閃光の正体はテレビ局の報道陣だった。手にしている資料には「司登一」という俺の名前と顔写真、住所、年齢などが事細かに書いてある。 「Aは高校時代どのような少年でしたか?」「陰で小動物を殺しているところを見たことはありますか?」「教師に向かって刃物を向けたというのは事実ですか?」何本ものマイクが俺に向けられる。カメラのレンズが猛禽類の瞳のようにギラギラ鈍い光を放つ。それよりも恐ろしかったのは、報道陣のお前が知っていることを全て教えろ、とでも言いたげな瞳。 こちらの迷惑も考えず質問を投げてくる報道陣に、俺は我慢の限界を迎えた。 「テメーらいい加減にしろ!!警察呼ぶぞ!!」自分でも思ってた以上に大きな声が出て驚いた。昔柔道をやってた頃の声出しよりも出てたかもしれない。俺の大声にビビったのか、報道陣たちはすごすごと帰っていく。 電車に揺られていると、自然と心の荒波も凪いで行く。ふと、さっきの資料の事を思い出した。俺の個人情報が、名前も知らない誰かに知られている。そう思った瞬間ぞっとした。 俺の隣に座っているサラリーマン、携帯をいじる女子高生、老若男女全ての人間が恐ろしくなってくる。携帯には、高校時代の知り合い達からの安否確認のメールや身内からの留守電が大量に入っている。それらを確認する気にもなれなかった。 ぐったりした様子で仕事をする俺を上司が心配し、午前中で早退するよう促された。 俺はその好意に甘えて、のろのろと帰路につく。思っていたより精神的にきている自分が情けなかった。柔道部にいた頃はどんなに辛くても勝ちたいという気持ちだけで立ち上がっていた。あの頃の自分はもういないんだろうか。俺は自分の頬を両手で思いっきり叩いてみた。びりびりする痛みが脳みそを震わせる。少しだけ気持ちが立ち直った。試合前、いつもこうしていた。先輩力入れすぎっすよ、とよく後輩に言われていたっけ、と思いつつ歩いていると、自分の玄関前に人影が見えた。また報道陣かと思って身構えていると、その人影は俺に気づいて近づいてくる。長身の男と、少し小太りの男。 「すみません、我々こういう者です」懐から出された警察手帳を見ながら、本当にドラマみたいだ、と人事のように思った。 事情聴取、と言われても、俺に言えることなんてほとんどなかった。Aとは特別仲が良かったわけでもないし、ほとんど口もきいたことがない。兄弟がいるのか、どんな親なのか、本当に何も知らない。強いて言うなら、時々Aが柔道部の部室近くに来ているのを見かけたくらいだった。ぼんやりと立ってじっとこちらを見ているだけで、何もしてこない。 目が合うと、猟師に狙われた鹿のように小走りで逃げてしまったけど。 「Aの犯行と結びつくような事件やきっかけなど、何かありませんでしたか」小太りの男が言う。「いや、すみません、何も…俺、あいつと友達だった訳でもないし…」 俺の言葉に、警察の二人は少し驚いたような表情で目を合わせる。その意味ありげな仕草に俺は少し緊張した。 「実は、Aがあなたと話がしたいと言っているんです。あなたになら、事件のきっかけを話してもいいと言っているんです」 段々自分がいる世界が全部、フィクションのような気がしてきた。そのくらい、現実味のないことばかりが次々起きる。俺は今、パイプ椅子に座ってAを待っている。穴がたくさん開いたアクリル板。それを見つめながら、手ににじんだ汗を何度もズボンで拭う。 ドアが開く音がして、警察官がAを引き連れて入室する。ネットで流されている顔写真より、ずっと痩せて見えた。こけた頬、ぼさぼさの黒髪、同じ人間とは思えないほどにやつれている。Aの目が俺をとらえる。その瞬間、濁った瞳に光が差したように見えた。 椅子に座って向かい合う。しんと静まり返った空間に、お互いの呼吸の音が響く。 先に口を開いたのはAだった。「変わらないね」ずっと会ってなかった旧友に語り掛けるような、その声の優しさに驚いた。 「柔道…」「え?」「柔道、続けてるの?」「あぁ…いや、大学でやってたけど、そっからは続けてない」怪我が原因で柔道の道を諦め、自暴自棄になった事もあった。こんな役に立たない体を持ったまま生きるなら死んでしまいとさえ思った。それでも、生きていかなきゃいけないんだ、という恩師の涙声を、今でも鮮明に思い出せる。 「覚えてたんだ、俺が柔道やってた事」俺の言葉にAはうつむいた。心なしか、耳が赤いような気がする。 「好きだったから」 息が詰まった。Aが俺に投げかけた言葉は、アクリル板に空いた無数の穴から確実にこちらに届いているのに、理解が出来なかった。「覚えてた…好きだったから、見てた…」蚊の鳴くような声でAは言う。 「高校生のころ、君は覚えてないかもしれないけど、僕、教室で吐いちゃったことがあったんだ」Aは堰を切ったように話し続ける。 「そのとき、みんな僕のことをばい菌とか色々いったけど、君だけは、君だけが違ってた… 具合悪いやつのこと笑ってる場合かよって、みんなに怒鳴ってた。それが、すごく嬉しかったんだ。そのまま担いで保健室まで連れて行ってくれて…大きな手で、大きな腕で、支えて走ってくれて…」 言われて初めて思い出すほどに薄れていた記憶が、炙り出しみたいに蘇る。 確かあの頃学校全体でノロウイルスが流行っていて、いくつかのクラスが学級閉鎖に追い込まれていた。Aが教室内で吐いてしまい、皆潮が引くようにAから距離をとる。 「うわ、きったねぇ!」誰かが言った。俺はその一言に無性に腹が立った。 「テメー、自分が言われたらどう思うんだよ!!他の奴もヘラヘラ笑ってんじゃねーよ!!」もっと酷い言い方だったかもしれない。 駆け付けた先生と片付けをして、Aを担いで保健室まで行ったが、その体の軽さに驚いた。 自分が柔道部で無駄に力が有り余ってるからかもしれないけど、それにしても軽い。自分と同じ数の内臓が詰まっているのか不安になるくらい。 手首も俺が思いっきり握りつぶしたら粉砕できるくらいの細さ。そんな思考が頭をめぐる自分が怖くなった。 病院での診察の結果、ノロウイルスではなかったらしい。保健室の先生が教えてくれたのだ。 それからだ、Aが柔道部に俺を見に来るようになったのは。 「ずっとありがとうって、言いたかったけど、言えなかった」Aは首筋まで真っ赤にしている。「そうだったんだ…」「自分だけのものにしたいと思った…」Aの声色が変わる。 「君って、君が思っている以上に人気者だったんだよ。色んな人が君の事、狙ってた」 全くピンと来なかった。女子に好かれるような見た目じゃないし、特別恋愛というものに興味もなかったから。 「やりたいって」 「え?」 「君とやりたいって言ってるの、聞いた」 「…誰が言ってたんだ、そんな事」 「…」 「…お前が殺した人たち?」 俺の言葉にゆっくりとAが頷いた。 「あんな汚い人たちに、君の事、触ってほしくなかったから…」 だから、殺してしまったっていうのか?という言葉を飲み込んだ。 「汚いって、何が?」 「あの人たちがしてた事」 「それって何?」 「君の盗撮…着替えとか、そういう所」 「俺の?盗撮って…そんなの、撮ってどうすんだよ」 「見ながらするの」 「するって、何…」 「見ながら抜くの。相当たまってたのかな、皆」 「え、そん、な…俺男なのに?」 「男だからだと思うよ」 盗撮されていた事も、その写真が誰かの発散の為に使われていた事も、なんにも知らなかった。 「なんでお前、そんな事知ってんの?」 「ネットで、学校の裏サイトを偶然見つけて…そこから」 Aの拳がわなわなと震えている。 「ショックだった、凄く、君が汚されてるのも、僕以外の誰かが、君のことをそういう目で見ているのも全部…でも…」 一呼吸おいて、Aが言う。 「一番嫌だったのは、同じように興奮した、それを利用した、僕自身だ…」 いたずらをして叱られている子供を見ているような気持ちだった。でも、Aがしたのはいたずらなんて言葉で許されるような事ではない。 この世に数多くある罪の中で最も重たいもの。なのにどうして、叱責の言葉一つ俺の口からは飛び出さないんだろう。 「だから、君を汚した人皆、殺してから、僕も死のうと思った…でも、死ねなかった、あんなに殺しちゃったのに、最後の最後で怖くなった…」Aは泣いていた。 「どうせなら、君に好きって言ってから、死にたいと思っちゃったから…」 もしあの時、Aが俺に視線を送っていたあの時、逃げようと踵を返したあの時に、俺が追いかけて視線の理由を聞いていたら、胸の内を覗いて、バカなことやめろって思いっきり頬を叩いていたら、こんな風にはならなかったのかな。 なぜか、Aの事を抱きしめたくてたまらない気持ちになった。 Aが自らの生い立ちを綴った手記が出版された。その本は、各メディアの注目を一斉に集め、テレビでは連日その内容が報道されていた。 その本を今後二度と表れない究極の愛の名作と語る評論家や、被害者遺族の気持ちをなんだと思っているんだと憤る人たち、ネットで嘘か本当か分からない推測を好き勝手書き込む人たち。色んな意見が爆竹のように飛び交い火の粉を散らしていた。 Aの本を出した出版社に火炎瓶が投げ込まれたり、絶版を求める大規模なデモ活動が起きたり、世の中を滅茶苦茶に掻き回す悪魔の本とさえいう人もいた。 俺はその本を発売日当日に買いに行った。初版を手に入れようと意気込む人たちに混ざって。俺が知らなかった昔のAの話。親から酷い虐待を受けていたらしい。特に父親からは毎日のように殴られたり、食事をまともに貰えなかったりしていたそうだ。 親戚の家に引き取られたがその後病気で親戚が他界。大学への進学や就職をせず、事件の構想をずっと練り続けていたらしい。あいつには、こういう胸の内を打ち明ける人間が一人もいなかったんだろうか。俺がそういう存在になれてたら、と 遅すぎる後悔が襲う。 俺はその本を何度も読み返した。文章を丸ごとおぼえてしまうほど。綴られている言葉全て、全部俺に向けられているような気がしたから。 ファンレターを書いたら、あいつに届くんだろうか。 手記の最後に書かれていた、「一度でいいから君にキスがしたかった」という一言は、 一生胸に刺さって抜けない。 『あのひとの裸を想像しただけで、息が荒くなる。触ってみたい、触ったらどんな声を出すのか知りたい。肌を触ることに、なんの抵抗も感じないような関係になりたかった。 大きな背中に爪を立てたい。指先で、何度も畳に打たれて強くなった骨のかたさを、みっしりと詰まった肉の感触を味わいたい。どんな風に愛する人を抱くんだろう。どんな仕草に興奮するんだろう。 血の海で想像した。赤に交じってぬるい白が曲線を描いて散っていく。 果てる瞬間、どんな声で名を呼んで、どんなまなざしで見つめてくれるんだろう。 実るはずのない恋に浮かされ、君の裸体を想像しただけで吐精する、 はしたない僕をどうか叱ってほしい。』 Aの手記「ラブレター」より抜粋

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