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天使

 俺が初めて天使と会ったのは、十二歳の時だった。心配性の父に手を引かれて行った郊外の別荘には、美しく長いブルネットの女性が微笑んでいて、その影に隠れるようにして天使は居た。  誰も足を踏み入れていない新雪のように、滑らかで白い肌。薔薇色の頬。しっとりと濡れた唇。木漏れ日が抜ける新緑のように輝く、大きな瞳。  天使は、女性の後ろでモジモジと人見知りしてはにかんでいたが、俺が指差して「天使だ!」と思わず叫ぶと、後ろを振り返ってキョロキョロと見回した。  そんな俺たちのすれ違いを見て大人たちは朗らかに笑い、俺と天使を引き合わせた。父とその恋人は共に離婚歴があり子どもが居たことから、俺たちを会わせてみようという話になったらしい。だが父はそれからすぐに、流行り病いで亡くなった。  俺が二十八年の生の中で、『好き』だと思ったのは、その天使だけだった。俺たちは、親同士が逢瀬を重ねる間、陽がさんさんと差し込む書斎で初めてのキスをした。  父が亡くなってから女性が俺を訪ねてくることはなかったから、まさか最初で最後の出逢いになるなんて、思ってもいなかった――。     *    *    * 「ディラン」 「ん……んぁ」 「ふふ、よだれ垂れてますよ。ほら、拭いて。ウィリアムさんが来ます」 「……オリヴァー」  夢を、見ていた。もう何度目になるのか。光の中で、天使と拙い口付けを交わす夢を。生まれてから、もっとも幸せだった頃の記憶だ。  父が亡くなってからは養護院で育ち、俺は立派にひねくれて大人になった。愛なんかは信じずに、男女にかかわらず言い寄ってくる奴には手だけ出して、恋人を持ったことは一度もない。  何故か不良社員の俺に懐いた優等生のオリヴァーが、清潔なハンカチで口元を拭ってくれる。可笑しそうに、クスクスと吐息を漏らしながら。  それが寝起きの頭には、何だかセクシーに響いて。俺は思わず、その細い手首をグイと掴んで引き寄せていた。顔が近付く。 「ディラン? 寝惚けてます?」  良からぬことを考えている俺を、子どもをあやすようにたしなめる。俺はハッと息を飲んだ。 「……オリヴァーか。悪りぃ」  詫びたのは、初めてじゃない。男にも手を出す俺にとって、オリヴァーの整った造作はひどく魅力的で。寝起きや酔った時、冷静になだめられて何度か謝っていた。 「しっかりしてください」  そう言って、微笑む。嗚呼。俺はいつからお前を、そういう対象として見ていた? そんなに眩しく笑わないでくれ。我慢がきかなくなる。 「あ、ウィリアムさん、管理課に帰りますね。でもたまにフェイントかけるから、あと三十分は起きててください、ディラン!」 「オリヴァー」 「はい?」 「その……」  愛のない誘い文句になんか、小揺るぎもしない筈の心臓が、急に早鐘を打ち始める。まるでチェリーみたいに。 「何ですか?」  小首を傾げられて、余計に鼓動が速くなった。 「呑みに、行かねぇか」 「飲み会ですか?」 「いや。ふたりで」  そう告げると、お前はちょっと驚いた顔をした。目を見張ったあと、蕾が綻ぶように笑みを花開かせる。 「嬉しいです。ふたりで呑みに行くの、初めてですね。忘新年会ってところですか」 「あ……ああ。そうだな」  俺はその表情に見とれながら、何とか返した。休みに規則性のない会社だから、今日が大晦日だってことにも、気が付いていなかった。     *    *    *  行きつけの個室居酒屋で、俺は珍しく酔っていた。オリヴァーとふたりきりになって初めて、これは『好き』という気持ちなんじゃないかと思い当たる。俺に気のある奴は、勝手に媚びを売って手の中に堕ちてくるから、口説くということをしたことがなかった。  沈黙が恐くて強い酒をどんどん呑んで、気付くとテーブルに突っ伏していた。向かいに座っていた筈のお前が、俺の背中をさすっている。……と、いうことは、隣に座ってるってことか? 距離の近さにドギマギして、俺は顔を上げられずにいた。 「ディラン」  機嫌の良いカナリアみたいに、お前が歌う。籠の鳥じゃない、空を舞うようなお前の声が。 「大丈夫ですか? 俺、送り狼になっちゃいますよ」  何だと? 俺はテーブルに突っ伏したままだから、オリヴァーは俺が聞いていることを知らない。 「ディラン、お酒強いのに、今日はこんなに酔っ払って。俺に気を許してくれてるのかな、って……自惚れちゃいますよ」  背中をさすっていた手が、自慢のブロンドまで上がって、ゆるゆると撫でる。俺がいつも髪のセットを気にしているのを知っているお前は、乱さないようにそうっと触れる。でも何だかそれが、もどかしくて。  何処までも跳ね上がる鼓動に囚われたまま、固まっていたら、こめかみに柔らかくて暖かいものが触れた。 「ディラン。君が……好き」  そのまま囁きが耳に当たって、初めてそれが唇なのだと知る。気が遠くなるほど、驚いた。怯えるようにゆっくりと、顔を上げて隣を見る。 「あれ? 狸寝入りしてました?」  うなじに指がかかって、条件反射で目を細める。でも、けして閉じはしない。いついかなる時も、俺は寝首をかかれることを警戒していた。  これは。夢か? 俺の妄想か? ぼんやりしている俺の唇に、お前は拙く口付ける。俺の頬を両掌でしっとりと包み込んで、上からただ触れるだけのバードキスを繰り返す。  恥じらいはなく、まるで静謐(せいひつ)な儀式のように、お前の瞳は澄んでいた。 「ん……」  瞼にも口付けられて、俺は目を閉じかけて身を引く。酔いもあってふわふわと心地良かったが、ひと前で目を閉じる居心地の悪さが勝った。 「……嫌?」 「嫌じゃ、ねぇよ」  初めて俺の方から一度だけ、チュッとリップノイズを立てる。 「んっ」 「やべぇ……」 「何が?」 「()ってる」  ロマンチックさからはかけ離れた呟きだったが、幸いお前はドン引くことなく、盛大に噴き出した。 「ふふ……君、いつもそうやって誘ってるの?」 「馬鹿、これは、そういうんじゃねぇ」 「じゃあ……どういうの?」  悪戯っぽい光が、新緑色の瞳に躍る。答えは、考えるより先に口を割った。 「天使」 「え」 「十二の時、天使に逢った。そいつ以外を好きだと思ったことがなかったが……お前を」  今更戸惑うなんて自分でも呆れるが、そこで言葉を切った俺に、お前はもう一度だけ口付けた。互いに、瞳を閉じて。そっと押し当てて優しい五秒が過ぎ……間近に見詰め合ったまま、オリヴァーは吐息で囁く。 「五歳の時、俺も天使に逢ったよ。ブロンドにエンジェルリングをキラキラさせた、天使とね。大好きだった父と会えなくなってしまった俺は、何もかもに絶望していたけど、その天使と初めてキスした時、これは運命だって思った」 「え……え?」 「俺は再会した時、すぐに君だって分かった。でも君は、俺を忘れてるんだと思った。恋人は作らない、プレイボーイだって聞いたし」  そんな。まさか。胸中に呟いたつもりが、口に出てしまっていたらしい。 「その、まさかだよ。俺たち、あの時に逢ってるんだ……今でも、俺が、好き?」  答えようと息を吸い込んだら、 「俺は、好き」  先んじられてしまって、言葉にならずに霧散する。 「好き?」 「……ああ」 「駄目」 「ん?」 「ちゃんと言って」  普段我が儘を言わないお前の、小さな願いが愛しくて。 「好きだ」  俺も観念して、熱っぽく視線を合わせて囁いた。途端に、お前がキツいくらいにハグしてくる。下から細い背中に腕を回し、応えた。 「オリヴァー」 「ん?」 「お前んち、行っても良いか」 「……何もしない?」 「色々する」  抱き合ったまま、オリヴァーは身体を左右に揺らして爆笑する。つられて揺さぶられながら、俺も笑った。 「君ってひとは……本当に」 「嘘を吐くのは、嫌だ。正直で良いだろ?」  その時、店の中が騒がしくなって、十からカウントダウンが始まった。新年が近付いているらしい。抱き締め合ったままそれを聞き、ゼロを数えたところで、再びまつ毛を伏せて口付ける。ニューイヤーキスだ。唇を触れさせたまま、ゼロ距離で囁いた。 「今までは、ビジネスパートナーだった。今年から、プライベートでもパートナーだ」 「うん。よろしくお願いします」  言葉は他人行儀だが、抱き締め合った距離感はこれ以上ないほどに近い。意識した瞬間から、下肢が疼いて仕方なかった。 「そうと決まったら、急いでお前んちに行こう」 「やらしいこと考えてるだろ」 「当たり前だ。好きな奴と抱き合ってキスしてて、やらしいことを考えない男なんか、不能かインチキ聖者だけだ」  俺たちはまた、額を合わせてクスクスと笑い合った。夢幻(ゆめまぼろし)かと思っていた初恋の天使が、オリヴァーだったなんて。神の与えたもうた人生を夜毎に憎んでいたものだが、今は運命を紡ぐと言われる奴を、少しは見直してやっても良いかもしれない。  オリヴァー。俺だけの天使。優しくしてくれと頬を染めて言うものだから、お前を堕天させるのは俺が初めての男なのだと知り、鼻血が出そうになって思わず手の平で半顔を覆うのだった。 End.

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