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優等生に終止符を
例年通りの卒業式が滞りなく終わると、証書を右手に握る俺は、感涙の嵐を掻き分け校門を出ようとした。
「石川っ」
「山田先生……」
タイミングよくかけられた声に振り向くと、壮年の男がこちらに旋毛を向け、自身の両膝に手をつきながら肩で息をしていた。
彼が誰なのか、顔を見なくともわかる。自分の担任である山田先生だ。中高一貫でずっと一緒だったこの恩師の黒髪も、今ではところどころが白く光っている。あっという間に感じられた月日がその実、六年もの長い年月だったということを改めて思い知らされた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫、大丈夫……」
ようやく息が整ったのか先生は顔を上げると、ややずれた眼鏡はそのままに、くしゃりと破顔する。
「卒業、おめでとう。それから、第一志望合格、おめでとう」
そして述べられたのは、とてもシンプルな賛辞。たったそれだけのことなのに、喉の奥がクッと詰まりそうになった。
ありがとうございますーーその一言を言い淀んでいると、先生は肩を震わせながら再び旋毛を見せてきた。
「うっ……」
「先生?」
「入学当時はチビでやんちゃだった石川が、高校じゃ生徒会まで務めて……その上、難関大学まで……こんな、こんなに立派に、なるなんてなぁ……ううっ」
「そんなに泣かないでくださいよ。俺一人でこんなんじゃ、教え子全員回る頃には先生、枯れ果ててますよ?」
「だってなぁ……!」
昔から熱血で涙もろいこの性格は、生徒たちにしてみれば少々どころでなく鬱陶しい。男子校だったから特にだ。
それなのに、俺たちに寄り添って物事を考えてくれるその姿勢は、思春期真っ只中の荒れた心を不思議と溶きほぐしてくれた。
俺もその一人。他にも世話になった先生はいれど、俺はこの人のおかげで無事に卒業することができたといえる。
感謝している。でも今日は、これ以上この人と言葉を交わしたくはない。
「こんなとこにいたのか、だーやまちゃんっ! あっちで水泳部の連中が探してたぞ〜!」
「加留部」
どうにかこうにか先生を泣き止ませようとしていると、突如として俺たちの間に同じクラスの生徒ーー加留部が割って入ってきた。明るくひょうきんな性格の加留部は気遣いなどなく、まるで小学生のように先生の腕をぐいぐいと引っ張り、俺から引き剥がそうとする。
(離れるなら今だな……)
俺は加留部と一緒になり、先生を促すことにした。
「ほら、他の奴らも先生と別れの挨拶をしたがっていますよ。行ってきてください」
「謝恩会に出られないやつもいるだろうしさ!」
「そ、そうだな」
二人に捲し立てられ、先生は納得したように頷いた。
「ほら、行くぞ〜」
「ちょっと待て、加留部。……石川、お前は謝恩会に参加するよな?」
(やっと開放されると思ったのに……)
当然のように聞いてくる質問。優等生の俺なら、絶対に参加すると思ってのことだろう。
しかし用意していた答えはもう決まっている。俺は左手の甲側を先生に向けると、ひらひら振ってみせた。
「残念。俺を待ってる子がいるんで」
キラッと光るゴールドの指輪。中央にはシルバーのラインが入っているそれを目にして、先生はあんぐりと口を開けた。
「えっ!? いつの間に!?」
通っていたのが共学だったなら、ここまで驚かれることもなかっただろう。ずれていた眼鏡がさらにずれ、先生は言葉を失った。困惑を隠せずにいるようだ。
(最後におもしろい顔が見られたな……)
短く笑って、俺は左手を下ろした。
「だから一緒に飯を食って来ます。謝恩会に参加できず、すみません」
小さく頭を下げると、隣で加留部が「フラレちゃったな〜」と、先生の背中を慰めるように叩いた。
これで本当に最後だ。俺は証書を握る手に力を込めた。
「石川」
「はい」
「元気でな」
「先生も、お元気で」
俺は校門を後にした。
ーーーー…
「おいおい。優等生がこんなところで一服なんて、やべーだろ」
「……加留部か」
タバコを口に咥えたまま、はーっと長いため息を吐く。一人でぼうっとしていたせいか、近くに来るまで人の気配に気づけなかった。
「火はつけてねえよ。咥えているだけだ」
俺が本当に優等生だったのなら、そもそもこんなものを持ち歩いたりはしないのだろうが、これはあくまで咥えているだけ。何も悪いことはしていない。
しかしそんな言い訳が、こいつに通用するはずもなく……
「いくら人が来ないからって、ここ学校だぞ。せっかく優等生で通してきたんだから、最後にリスキーなことしてるんじゃねえよ」
口元のタバコを没収されてしまった。敷地は違えど、新校舎隣りにある取り壊し中の旧校舎は立ち入りこそできないが、併設されているトイレはまだ使用ができる。一旦、学校を後にした俺だが、一人になりたくてここに来た。卒業式の日に、わざわざここまで来て用を足す輩はいないだろうと踏み、陣取っていたわけだが……
「よくわかったな」
「未練タラタラな顔、してたからな」
感心すると、加留部はにんまりと笑ってみせた。普段だったら腹立たしく感じるそのドヤ顔も、図星で何も返せなかった。
加留部はひょうきんだが、人のことをよく見ている。だからだろう。中学から高校まで一緒のクラスだった人間は他にもいるのに、こいつだけが俺の本性を見破った。
暴かれたくなかった、俺の本性を。
「そんで……よかったのか?」
「何が」
加留部は俺の隣に立つと、窓枠に肘を乗せ俺を見つめた。
「本当に最後だぞ。告んなくて後悔しない?」
そう言って、ちょいちょいと窓の向こう側へ指をさす。その先には、生徒たちに囲まれ号泣している山田先生がいた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔はお世辞にも綺麗とは言えない。それもそうだ。あの人はどこまでも「普通の人」なんだから。
俺は窓枠に背を向け、もたれかかった。
「しねえよ。当たって砕けに行くようなもんだ」
「でも、初めて好きになった人だろ?」
(ああ……本当によく見ているやつだ)
自覚したのは、高校への進級が決まった時だった。それまではただ、憧れていただけ。母子家庭だから、優しいあの人に父性を求めているのだと思っていた。でも、中学校生活が終わって高校へ上がる際、先生も一緒に持ち上がるのかどうかがわからず、ずっとヤキモキしていた。
特別、顔がいいわけでも、背が高いわけでも、声がいいわけでもない。どこにでもいる普通の壮年で、どこにでもいる普通の先生だ。
彼に何かをされたわけでもない。ただ自分のクラスの担任になり、母親が手を焼くくらい荒れていた俺を、先生らしく気にかけてくれていただけだ。
それでも、教室という狭い空間で、家族よりも長い時間を共に過ごせば、いつしかそこが自分のすべてとなり、その中で誰かに特別な感情を抱いてしまうのも不思議じゃないだろう。
不思議じゃない。そのはずなのに……それを抱く相手は先生で、同性だった。
恋愛は自由だと誰かが言った。それは同性が相手でも同じことを言えただろうか?
とっくにバレている加留部に今さら取り繕う必要はない。だからといって、ベラベラと胸の内を明かしたいわけじゃないが。
俺は口を開いた。
「初めてだろうが百回目だろうが、相手は半年前に結婚したばかりの既婚者で、十歳以上も離れているおっさんだ。諦めざるを得ないだろ。それに……」
わかっている。ベラベラと御託を並べたところで事実は曲げられない。
初恋かどうかなんてわからない。でも初めて好きだと自覚した相手だった。だからこそ……
見てもらいたい、褒めてもらいたい、という思いではなく。嫌われたくない、傷つけたくない……ただその一心で、俺は今日まで優等生を演じ続けた。
「叶ったとしても、生徒 と教師はマズイだろ」
たとえ先生に気づかれたとしても、あの人ならきっと向き合ってくれただろう。でも、どのみち叶わない想いだった。バカでもわかる。先生が俺と同じだったとしても、大人と子供では立場が違う。そして、のしかかる責任も。それは決して、選んではならない道だ。
だから俺は諦めようとした。特に理由がなくとも他の誰かと付き合うことで、この「好き」がいつか薄れていくものだと信じながら、先生の前で理想の自分を演じていた。
結果、薄まりつつも妙に根強い想いが今日まで残ったわけだけれど。
今、ここにいるのは確かに未練だ。でもそれは、先生に告白しなかったことではなく、俺から先生に別れの言葉を切り出せなかったことに対してのだ。
先生にしてみれば、どちらでもよかったことだろうけれど。
おもむろに、隣にいる加留部が俺の頭を撫でた。
「どこまでもだーやまちゃん思いだな、お前」
「うるせぇよ」
今はまだ、この想いがしこりのように残っている。
でもいつか、いつかきっと……
加留部の手を振り払うように、うんと背伸びをしてから「帰るか」と呟いた。すると、こいつはきょとんとした顔を浮かべた。
「え? これからマックゥじゃねえの?」
「バーガーが食いたいんなら、一人で行ってこいよ」
「なんでだよ」
あしらうように言うと、加留部は邪険にするなと言わんばかりに唇を尖らせ、自身の腰ポケットに手を差し込んだ。
「そもそも、一緒に飯を食うって言ったのお前だろ」
そして不平を垂れつつも中から指輪を取り出し、自身の左手薬指にそれをはめた。シンプルなシルバーの指輪。中央にはゴールドのラインが入っている。
そういや、謝恩会に出ない口実でそんなことを言ったっけ。すっかり忘れていた。
「まったく。こんなに寛容な彼氏、俺くらいのもんよ?」
フン! と鼻息荒く言ってみせるが、本当にそうだと思う。
俺が先生のことを好きだと知っていて、それでもいいと付き合ってくれた加留部。こいつがいなかったら、俺はずっと先生に固執していただろうし、もしかしたら最悪の決断をしていた可能性もある。
俺の気持ちを尊重し踏み切れるのを、ずっと待っていてくれたんだ。
「……お前の奢りならいいよ」
「よっしゃ! ナゲットもつけてやるよっ」
だとしても、素直に礼を言うつもりはない。俺は先生にとっては優等生でも、加留部にとっての優等生ではないのだから。
END.
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